補章五 兵団の少年
森を出た少年は、人の世界へ向かった。
名もなき者として。
森を出てから、三昼夜走り続けた。
食べ物は、森の中で覚えたやり方で手に入れた。水は川から飲んだ。夜は木の上で眠った。フェルがいないことを、最初の夜だけ、少し思った。二日目からは思わなかった。思わないようにしたのではなく、前に進むことで頭がいっぱいだった。
三日目の夕方、煙が見えた。
炊事の煙だった。
彼は立ち止まった。
煙を見るのが、怖かった。
炎の夜のことが、断片として来た。しかしそれだけだった。断片は来て、また消えた。
彼は歩いた。
煙の方へ。
⸻
兵団の野営地だった。
天幕が並び、鎧を着た男たちがいた。焚き火があった。馬がいた。彼は木の陰から、しばらく見ていた。
敵かどうかを、確かめていた。
フェルから教わったことだった。動く前に、見る。見てから、判断する。
男たちは、話していた。笑っていた。食べ物の匂いがした。
敵ではないと、彼は判断した。
根拠は、匂いだった。恐怖の匂いがしなかった。緊張の匂いがしなかった。ただ、疲れた人間たちの、夕方の匂いがした。
彼は木の陰から出た。
野営地へ向かって、歩いた。
最初に気づいたのは、見張りの兵士だった。
兵士は彼を見て、目を丸くした。
子供だったから、というのもあったかもしれない。しかしそれだけではなかった。後で聞いた話では、その方向から人間が来たことが、まず信じられなかったらしい。
あの方向は、魔境だった。
「どこから来た」
兵士は言った。
彼は、森を指差した。
兵士は、彼を見た。それから森を見た。それから、また彼を見た。
「森の、向こうから?」
「はい」
兵士は何も言えなかった。
⸻
隊長のところへ連れて行かれた。
隊長は四十がらみの男だった。顔に傷があった。目が鋭かった。しかし彼を見たとき、その目が少し変わった。
子供を見る目になった。
「名前は」
「ありません」
「ありません、とはどういうことだ」
「村がなくなったので」
隊長は、しばらく彼を見ていた。
「村がなくなった、か」
「はい」
「それはいつのことだ」
「……よく分かりません。長い前です」
隊長は部下に何かを言った。部下が食べ物を持ってきた。パンと、肉と、水だった。
彼は食べた。
森の食べ物とは違う味だった。柔らかかった。温かかった。食べながら、涙が出そうになった。なぜ涙が出そうになるのかが、分からなかった。
隊長が言った。
「しばらく、うちにいろ」
それだけだった。
理由も、条件も、言わなかった。
彼は頷いた。
⸻
兵団での最初の仕事は、雑用だった。
水を運ぶ。薪を割る。馬の世話をする。食器を洗う。
文句は言わなかった。
文句を言う理由がなかった。森での四年間に比べれば、どれも難しくなかった。
兵士たちは最初、彼を珍しそうに見ていた。
魔境の方向から来た子供、という話が広まっていた。信じている者と、信じていない者がいた。
彼は気にしなかった。
信じてもらうために何かをしようとは、思わなかった。ただ、目の前のことをした。
ある日、馬が暴れた。
大きな馬だった。何かに驚いて、制御を失っていた。兵士が二人がかりで抑えようとしていたが、抑えられなかった。
彼は、馬を見た。
怖がっていた。
目が、恐怖で白くなっていた。何かの匂いに反応していた。彼には、その匂いが分かった。森で嗅いだことのある匂いだった。
彼は馬に近づいた。
止められる前に、近づいた。
馬の首に手を当てた。
何も言わなかった。ただ、手を当てた。
馬は、少し震えた。それから、震えが止まった。
兵士たちが見ていた。
隊長も、見ていた。
それだけだった。しかしそれ以来、兵士たちの彼を見る目が、少し変わった。
⸻
剣を教えてもらったのは、半年後だった。
隊長が直接、教えた。
最初の日、隊長は彼に木の棒を渡した。
「構えてみろ」
彼は構えた。
隊長は彼の構えを見て、少し首を傾げた。
「どこかで習ったか」
「習っていません」
「では、なぜその構えを知っている」
彼は答えられなかった。
知っていた。なぜ知っているかは、分からなかった。身体が、自然にそうした。
隊長はしばらく彼を見ていた。それから言った。
「打ち込んでみろ」
彼は打ち込んだ。
隊長は受けた。受けながら、何かを考えている顔をした。
「もう一度」
また打ち込んだ。
「もう一度」
また打ち込んだ。
隊長は、やがて木の棒を下ろした。
「お前、速いな」
それだけ言った。
⸻
それから数年が経った。
彼は兵士になっていた。正式に、入団していた。名前は、隊長がつけた。隊長の故郷の言葉で、「名もなき者」という意味だった。
彼は、その名前を気に入った。
名もなき者。
どちらでもない場所が、おまえの場所だ——フェルの言葉と、どこか似ていた。
任務をこなした。真面目にやった。さぼらなかった。文句を言わなかった。
しかしそれだけではなかった。
速かった。
人間の中では、異常に速かった。追いつける者がいなかった。逃げる者を捕まえた。先回りした。誰も気づかない角度から動いた。
それが少しずつ、知られていった。
隊長は言った。
「お前を、上へ推薦する」
「上、とは」
「近衛だ」
彼は少し黙った。
「私でよいのですか」
「私が決めることではない」
隊長は言った。
「しかし私は、推薦する」
彼は頷いた。
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*(補章五:少年章二、了)*




