補章六 歌を聞いた人
廊下で、旋律が漏れた。
その音が、すべての始まりになった。
近衛になって、最初の数日は、廊下を覚えることで終わった。
王宮は広かった。兵団の野営地とは、何もかもが違った。石の床、高い天井、窓から差し込む光の質、廊下の曲がり方、扉の位置。すべてを頭に入れなければならなかった。
迷子になることが、何度かあった。
恥ずかしいとは思わなかった。迷子になって、また覚えた。それだけだった。
先輩の近衛たちは、彼を珍しそうに見た。
若かったから、というのもあった。しかしどこか違う、という感覚を、皆が持っているようだった。何が違うかは、誰も言わなかった。彼も聞かなかった。
任務は、廊下の警備から始まった。
立って、見て、何もなければそれで良い。
彼には、それが合っていた。
その日のことを、後になっても正確に思い出せた。
秋の初めだった。午後の光が、廊下の窓から斜めに差していた。任務の合間の、短い休憩だった。
彼は廊下の端に立っていた。
誰もいなかった。
いつの間にか、歌っていた。
声に出していたわけではなかった。ほとんど息の音に近かった。意識していなかった。ただ、出ていた。
夕焼けの色が、頭の中に浮かんでいた。
遠い空。赤いもの。母の声。
旋律が、唇から漏れていた。
後ろで、何かが止まった。
足音が、止まった。
彼は気づかなかった。気づいたのは、しばらくしてからだった。振り返ると、廊下の少し先に、人がいた。
少女だった。
十歳くらいだった。質の良い衣をまとっていた。侍女が後ろにいた。
少女は彼を見ていた。
彼も少女を見た。
少女の目が、普通ではなかった。驚いていた。しかし驚き方が、普通の驚き方ではなかった。何か遠いものを見るような、あるいは遠い記憶を探るような、そういう目だった。
「今、何を歌っていたの」
少女が言った。
静かな声だった。しかし普通の問いではなかった。
「……歌、ですか」
「そう。今、歌っていたでしょう」
彼は少し考えた。
「歌っていたかもしれません。すみません、任務中に」
「謝らなくていい」
少女は言った。
「その歌を、どこで覚えたの」
「母が……歌ってくれていました。昔」
少女は、何も言わなかった。
しばらく、何も言わなかった。
それから、また少し違う目で彼を見た。今度は、確かめるような目だった。
「もう一度、歌える?」
「人前で歌うのは……」
「お願い」
彼は少女を見た。
お願い、という言葉が、命令ではなかった。本当に、お願いだった。
彼は小さく、旋律を繰り返した。
声にはならなかった。ほとんど息だった。しかし旋律は、確かにそこにあった。
少女は聞いていた。
目を閉じて、聞いていた。
旋律が終わった。
少女は目を開けた。その目に、何かがあった。涙ではなかった。しかし涙に近い何かが、その目にあった。
「ありがとう」
少女は言った。
それだけ言って、歩いていった。
侍女がついていった。
彼は廊下に一人残った。
何が起きたのかが、よく分からなかった。
三日後、近衛の隊長に呼ばれた。
隊長は困った顔をしていた。
「王女殿下が、お前を護衛にしたいと仰っている」
彼は、少女の顔を思い出した。廊下で目が合った、あの少女が王女だったのか、と思った。
「私が、でしょうか」
「そうだ。しかし」
隊長は言い淀んだ。
「お前はまだ若い。経験も足りない。王女殿下のお傍に上がるには、もう少し時間が必要だと私は思っている」
「はい」
「だから、お断りする方向で話を進めようと思う」
彼は頷いた。
隊長の言うことは正しいと思った。自分がまだ足りないことは、自分が一番よく知っていた。
しかし三日後、また呼ばれた。
今度は隊長だけではなかった。
王宮の中でも、位の高い者が同席していた。
「王女殿下が、王様に直接申し出られた」
隊長は言った。
彼は黙っていた。
「王様は、お認めになった」
王女に初めて正式に会ったのは、その翌日だった。
広間ではなかった。廊下だった。
王女は彼を見た。
三日前と同じ目だった。確かめるような目だった。しかしその中に、今日は別のものが混じっていた。
「あなたが、今日から護衛になるのね」
王女は言った。
「はい」
「怖い?」
「何がでしょうか」
「私の護衛になることが」
「怖くありません」
「なぜ」
「分かりません。ただ、怖くありません」
王女は少し笑った。
「正直ね」
「あの歌は、どこの言葉なの」
「分かりません。母から聞きました。母が、遠いところから持ってきた歌だと言っていました」
王女は、彼を見た。
「遠いところ」
「はい」
王女はしばらく黙っていた。
それから、歩き始めた。
「ついてきて」
彼はついていった。
廊下を歩きながら、王女は前を向いたまま言った。
「あの歌の意味は、知っている?」
「知りません。言葉の意味が分からないので」
「そう」
王女は言った。
それ以上は、言わなかった。
しかし歩きながら、王女は小さく、何かを口ずさんだ。
同じ旋律だった。
彼の歌っていた旋律と、同じだった。
彼は気づいた。気づいて、何も言わなかった。
王女も、何も言わなかった。
ただ、廊下を、二人で歩いた。
午後の光が、長く伸びていた。
(補章六:少年章三、了)




