補章四 白い森の四年間
物語は、ここから始まります。
炎の夜と、白い牙と、四年間の森。
炎の夜のことを、彼はほとんど覚えていない。
覚えているのは、断片だけだった。
熱さ。煙の匂い。誰かの声。走る足音。そして、白いものが闇を裂いた瞬間。
それだけだった。
あとは、森だった。
気がついたとき、彼は森の中にいた。
木の根が地面から飛び出し、苔が岩を覆い、頭上に葉が重なって空を隠していた。昼なのか夜なのか、最初は分からなかった。光が、どこからともなく差し込んでいた。
傍らに、白いものがいた。
大きかった。彼の身体より、ずっと大きかった。白い毛並みを持つ獣が、彼のそばで丸くなっていた。銀の瞳が、彼を見ていた。
怖くなかった。
なぜ怖くなかったのかを、彼は後になっても説明できなかった。ただ、怖くなかった。その瞳を見たとき、どこかで知っている、という感覚があった。
「フェル」
彼は言った。
声にならないくらい小さかったが、言った。
白い獣の耳が、ぴくりと動いた。
母が、フェルを育てていた。
それを彼が知ったのは、魔境での最初の冬が終わった頃だった。
フェルは言葉を持っていた。口から発するのではなく、心の奥に直接届く種類の言葉を。彼がその言葉を受け取れるようになるまで、少し時間がかかった。幼すぎたから、というのもあったかもしれなかった。
ある夜、焚き火のそばで、フェルは話した。
母のことを。
母が森の外れで傷ついたフェルを見つけたこと。誰にも言わず、少しずつ食べ物を運んだこと。傷が癒えても、フェルは母のそばを離れなかったこと。
「おまえの母は、優しい人だった」
フェルは言った。
彼は焚き火を見ていた。
母の顔が、うまく思い出せなかった。声も、手の温かさも、だんだん薄くなっていた。しかし母がフェルに食べ物を運んでいる姿だけは、見たことがないのに、なぜか浮かんだ。
「覚えているか、歌を」
フェルが言った。
彼は少し考えた。
歌。
夕焼け、という言葉が来た。赤いものが来た。遠い空の色が来た。
「……歌ってくれてた」
彼は言った。
「母上が」
「ああ」
フェルは目を細めた。
「あの歌を、よく歌っていた。おまえが眠るとき。おまえが泣くとき。おまえが笑うとき」
彼は答えなかった。
焚き火が、パチンと音を立てた。
魔境は、恐ろしい場所だった。
誰も行って帰ったことがないと言われる理由が、来てみると分かった。この森には、人間が太刀打ちできないものが棲んでいた。巨大な影が木々の間を動いた。夜には遠くから咆哮が聞こえた。地面が、何かの重さで震えることがあった。
しかしフェルがいた。
フェルは彼を守った。危険が近づくと、彼の前に立った。戦うこともあった。しかし多くの場合、フェルがそこにいるだけで、危険は遠ざかった。
魔境の生き物たちは、フェルを知っていた。
「なぜ戦わないのか」
ある日、彼は聞いた。
「戦えるのに」
「戦う必要がないから」
フェルは言った。
「力は、必要なときに使うものだ。見せるためではない」
彼は、その言葉を聞いた。
聞いて、胸の中にしまった。
訓練らしい訓練を、フェルはしなかった。
走れとも、戦えとも、言わなかった。
ただ、一緒にいた。
森を歩くとき、フェルは少し速く歩いた。彼はついていった。最初は転んだ。転んでも、フェルは待たなかった。立ち上がって、ついてきた。
木の根を避ける足の使い方を、彼は自然に覚えた。
獲物を追うとき、フェルは風上に回った。彼はその意味を、説明されなくても理解した。
誰かに教わるのではなく、見て、やって、身体が覚えた。
そういう四年間だった。
身体は、確かに変わっていた。
しかし鏡がなかったから、どう変わったかを彼は知らなかった。
分かったのは、速くなった、ということだけだった。
フェルは言った。
「おまえは人族の中では速い。しかし人狼の中では遅い。それがおまえの場所だ」
「場所、か」
「どちらでもない場所が、おまえの場所だ。それは弱さではない」
彼は答えなかった。
どちらでもない、という言葉が、心のどこかに引っかかった。引っかかったまま、消えなかった。
四年目の春、フェルが言った。
「そろそろ出る時だ」
彼は驚かなかった。
いつかそう言われると、思っていた。
「一緒に来るか」
「しばらくは来ない」
フェルは言った。
「しばらくは、おまえ一人で行け。人の中で生きることを、学べ」
彼は森を見た。
四年間、この森が世界だった。木の根の形も、岩の配置も、水の流れる音も、すべて知っていた。知っている場所を出て、知らない場所へ行く。
怖いかどうかを、彼は自分に聞いた。
怖くなかった。
「また会えるか」
彼は言った。
「会える。おまえが必要なとき、来る」
彼は頷いた。
翌朝、彼は森を出た。
フェルは森の入り口まで来て、そこで止まった。
彼は振り返らなかった。
振り返ったら、行けなくなると思った。
一人で、歩いた。
森の向こうに、光があった。
(補章四:少年章一、了)




