補章 別れの廊下
辞表を出したのは、秋の終わりだった。
書類の手続きは、思ったより早く終わった。上官は騎士の顔を見て、何かを言いかけた。しかし言わなかった。ただ、書類を受け取った。それだけだった。
騎士は廊下を歩いた。
いつもの廊下だった。朝に端から端まで歩くと、窓の外の光が変わる廊下。季節によっては、廊下の途中で朝が昼になる廊下。騎士は何年も、この廊下を歩いた。
今日が最後だった。
最後だと思いながら歩くと、廊下が少し違って見えた。違って見える、というより、よく見えた。いつもは通り過ぎていた窓の形、石壁の染み、床の石畳の継ぎ目。そういうものが、今日は目に入った。
辞める理由は、時間だった。人狼に流れる時間のはやさは、人間のそれよりもずいぶんと速かったのだ。このまま宮廷にいれば、いつか気づかれる。いや、もう智いものには気づかれているのかもしれない。気づかれることが、王女の困難になる。
だから辞める。
それだけだった。
しかし騎士は、そこまでを言わなかった。「身体の具合が良くない」とだけ伝えた。
それだけが、騎士の口から出た言葉だった。
王女の部屋の前を通るとき、扉が開いた。
偶然だった。
王女が出てきたのと、騎士が通りかかったのが、同じ瞬間だった。
王女は騎士を見た。騎士も王女を見た。
「あら」
王女は言った。
それだけだった。驚いた顔でも、何かを察した顔でもなかった。ただ、廊下で会った、という顔だった。
「少し良いでしょうか」
騎士は言った。
王女は廊下に出てきた。侍女たちは少し離れた場所にいた。
「暇乞いに参りました」
騎士は言った。
「知っていますわ」
王女は言った。
「ご存じでしたか」
「昨日、上官から聞きおよびました。身体の具合が良くないと」
騎士は答えなかった。
嘘ではなかった。しかし全部でもなかった。
「ご自愛なさってください」
王女は言った。
「はい」
「で、どこへ行くの」
「北の方へ」
「遠いのね」
「そうでもありません」
遠いかどうかより、戻れないと思っていた。時間が、戻ることを許さないと思っていた。
王女は廊下の窓を見た。秋の光が、薄く差していた。
「また会えるのかしら」
ふと王女は言った。
窓の外を見ながら言った。騎士に向けた言葉だったが、独り言のようでもあった。
騎士は、その言葉を聞いた。
聞いて、一瞬だけ、何かが止まった。止まったのは内側での話だった。外側には何も出なかった。出さなかった。
「御意のままに」
騎士は言った。
いつもの答えだった。いつも王女に対してそう答えていた。しかし今日は、その言葉が嘘になると、騎士は知っていた。
御意のままに、ではなかった。
会えない、と知っていた。
会えないと知りながら、その言葉しか出なかった。出せなかった。騎士として、それ以外の言葉を持っていなかった。
王女は窓から騎士を見た。
「ほんとうに真面目ね」
王女は言った。
「騎士とはそういうものです」
「そう」
王女は少し笑った。
「騎士とはあなたの生き方そのものなのですね」
いつもの笑い方だった。困らせながら、しかし責めない笑い方だった。
「身体を大切に」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。引き留めなかった。涙はなかった。騎士が辞めることへの異議も、感謝も、言わなかった。
ただ、身体を大切に、とだけ言った。
騎士は頭を下げた。
深く、騎士として、頭を下げた。
王女の前で頭を下げることは、彼にとって長い年月、そうしてきたことだった。
しかし今日の頭の下げ方は、少し違った。騎士として下げているのか、別の何かとして下げているのかが、自分でも分からなかった。
顔を上げたとき、王女は扉の方へ向いていた。
部屋へ戻るところだった。
「あの」
騎士は言った。
王女が振り返った。
騎士は、何を言うつもりだったのかを、その瞬間に忘れた。
言葉が、出てこなかった。
「何?」
王女が聞いた。
「いえ」
騎士は言った。
「何でもありません」
王女はまた少し笑った。笑って、部屋に戻った。
扉が、静かに閉まった。
騎士は廊下に、一人残った。
窓の外に、秋の光があった。
騎士は、しばらくそこに立っていた。
言えなかった言葉が、どこかにあった。しかしその言葉が何だったのかを、騎士自身も知らなかった。知らなかったから、言えなかった。知っていても、言えなかったかもしれなかった。
どちらでも、言わなかった。
それだけが、事実だった。
騎士は歩き始めた。
廊下の端まで歩いた。廊下の端に、外へ出る扉があった。
扉を開けた。
外の空気が、顔に当たった。
秋の終わりの、冷たい空気だった。
騎士は、振り返らなかった。
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*(補章、了)*




