終章 雪のパヴァーヌ
春が深くなった頃、旅芸人は旅立った。
次の街へ、またその次へ。旅芸人はそういう者だった。留まることが、旅芸人の性質ではなかった。
旅立つ朝、旅芸人はトライコン亭の前で、楽器を背負いながら老人に言った。
「最後に一曲、歌っておくか」
「ここで歌うのか」
「ここで良い」
老人は何も言わなかった。コレットが宿の扉のそばで聞いていた。朝の仕事の合間だった。
旅芸人は、弦を鳴らした。
旋律は、老人が初めて聞いたときと同じだった。しかし今日の歌は、老人が聞いた中で一番長かった。市場の節があった。眠る節があった。騎士の節があった。そして最後に、新しい節が加わっていた。
機微に触れしと、姫君は描いた
渡す者、受け取りしものがあり
名もなき石の前に
花は今日も、咲いている
旅芸人は弦を最後まで鳴らした。
音が、朝の空気に溶けた。
「これが今の歌だ」
旅芸人は言った。
「また変わるか」
老人は言った。
「変わる」
旅芸人は言った。あっさりと。
「しかし今日の歌は、今日のものだ。今日ここにいた者の中に残る」
旅芸人は老人を見た。
「あんたの名前を聞かなかった」
「聞かなくて良い」
「そうだな」
旅芸人は少し笑った。
「また来るかもしれない」
「好きにしろ」
旅芸人は歩き始めた。
街道を、歩いていった。振り返らなかった。それが旅芸人の性質だった。
老人は、旅芸人が見えなくなるまで、見ていた。
⸻
その年の夏の終わりに、老人は墓所の近くに小さな小屋を借りた。
トライコン亭に通い続けることが、老人の足には少し遠くなっていた。人狼の老いは早い。老人はそのことを、若い頃から知っていた。しかし今は、そのことを、以前ほど苦く思わなかった。
小屋から墓所は近かった。
毎朝、花を持っていけた。春は道端の花を、夏は近くの野の花を。花の名前は、まだほとんど知らなかった。しかしコレットに教わったものが、いくつかあった。
コレットは時々、来た。
宿を離れられないコレットが来られるのは、週に一度ほどだった。来るときは花を持ってきた。棚で育てた花を、いつも白い小さな花を。
二人で並んで石の前に立つことが、当たり前になっていた。
当たり前になったことが、老人には悪くなかった。
⸻
秋の深い夜、老人は小屋の中で、筆を持った。
書くことは、長い年月していなかった。しかし今夜は、書きたいと思った。
何を書くかは、決めていなかった。
書き始めると、市場の話が出てきた。野菜売りの老婆の話が出てきた。値切る顔も立ち話をする顔も同じ種類だと言った王女の話が出てきた。
書いた。
長くはなかった。しかし書いた。
書き終えて、老人は筆を置いた。
書いたものを、誰かに渡すかどうかは、まだ決めていなかった。渡すとすれば、コレットか、あるいは旅芸人が戻ってきたときか。あるいは誰にも渡さないかもしれなかった。
どうするかは、明日考えれば良かった。
今夜のところは、書いた。
それで十分だった。
老人は目を閉じた。
外で、風が吹いていた。
⸻
冬になった。
最初の雪が降る朝、コレットが来た。
いつものように花を持って、墓所へ向かった。老人は並んで歩いた。
雪の中を、二人で歩いた。
墓所に着くと、老人は花を置いた。コレットも花を置いた。二輪の花が、石の前に並んだ。
コレットは石を見ていた。
「旅芸人さん、また来るかな」
「来るかもしれない」
「来たら、また歌が変わってるかな」
「そうだな」
コレットは少し笑った。
「変わっても、良いですよね」
「良い」
老人は言った。
コレットは老人を見た。
老人は石を見ていた。雪が降っていた。石の上に、雪が積もり始めていた。
老人は、石の雪を払わなかった。
払うかどうかを、少し考えた。考えて、今日は払わないことにした。積もる雪には積もる雪の、在り方がある。それで良かった。
「また来週来ます」
コレットは言った。
「ああ」
「そういえば、花屋のおばあさんが言ってたんですけど。あの歌、誰かへのありがとうの歌なんだって。誰にも見えないところで頑張っている人への、って。なんか、言わなきゃいけない気がして…。」
コレットは来た道をひとり戻り始めた。
老人は少しの間、石の前に立っていた。
雪が降っていた。
老人は石に向かって、小さく言った。
「渡している」
それだけだった。
返事はなかった。
しかし沈黙は、もう寂しくなかった。
老人は踵を返した。
小屋への道を、歩いた。
雪の中を、一人で歩いた。
遠くから、旋律が聞こえた気がした。
風の音かもしれなかった。あるいは、どこかで誰かが歌っているのかもしれなかった。
老人は立ち止まらなかった。
聞きながら、歩いた。
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それからの年月を、ここでは書かない。
ただ一つだけ。
ある春の朝、墓所の名のない石の前に、コレットが来た。
一人で来た。
花を持ってきた。白い小さな花を。棚で育てた花を。
石の前には、すでに枯れた花があった。誰かが置いた花が。
コレットは、その枯れた花の隣に、新しい花を挿した。
それから、少しの間、石の前に立った。
何かを言うでもなく。
ただ、立っていた。
遠くで、風が旋律を運んでいた。
雪のしずくと踊る姫君は
花の名を知らずに眠りぬ
忘れな草よ、咲き誇ること勿れ
御名はとうに風に消ゆる
権よりも知を、血よりも豊を
名よりも崩にその身を捧げ
剣よりも花を、姫君は選んだ
魂は墓標にとどまることはなく
機微に触れしと、姫君は描いた
渡す者、受け取りしものがあり
名もなき石の前に
花は今日も、咲いている
コレットは、その旋律を聞いた。
聞きながら、石を見た。
それから、来た道を戻った。
宿へ向かって、歩いた。
宿の明かりが、遠くに見えていた
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*(終章、了)*




