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第十六章 手紙

春が来た。


ある朝、老人が目を覚ますと、窓の外の光が違った。冬の光ではなかった。何かが変わっていた。変わった、というより、戻ってきた、という感じに近かった。世界が、少し柔らかくなっていた。

街道を歩くと、道の端に小さな花が出ていた。名前を老人は知らなかった。白くはなかった。薄い紫色だった。しかし、出ていた。雪の下で眠っていたものが、出てきていた。

老人はそれを見た。

見て、少しの間、立ち止まった。

それから歩き始めた。今日は老婆のところへ行かなくても良いかもしれなかった。道端のものを、持っていけるかもしれなかった。

旅芸人が来たのは、その日の夕方だった。

トライコン亭へ入ってきた旅芸人は、いつもより少し疲れた顔をしていた。遠くまで行ってきたのかもしれなかった。老人は隅の席から、旅芸人が入ってくるのを見た。

旅芸人は老人を見つけて、まっすぐこちらへ来た。

挨拶もなかった。座ることも聞かなかった。椅子を引いて、向かいに座った。

「見つかった」

旅芸人は言った。

老人は旅芸人を見た。

「何が」

「手紙だ。王女が書いていたという」

老人は、動かなかった。

動かなかったが、何かが、動いた。内側で。

「どこで」

「王都から半日ほどの村だ。王宮に出入りしていた者の子が、持っていた。王女が亡くなる数日前に、こっそり渡されたものらしい。受け取った本人は、つい数年前に亡くなった。高齢だったが、最後まで手放さなかったと子が言っていた。捨てることも、誰かに渡すこともできなかったと」

老人は水の杯を持った。持ったまま、飲まなかった。

「見たのか」

「許可をもらって、見た。歌に入れるためではないと伝えた。ただ見たかっただけだと」

「それだけのために、そこまで行ったのか」

「ああ」

旅芸人は迷わず言った。

「なぜ」

旅芸人は少し間を置いた。

「あんたが「そこは違う」と言ったから、だと思う。本当のことを知りたくなった」

老人は旅芸人を見た。

旅芸人は老人を見ていた。

「内容を」

老人は言った。

声が、少し違った。老人自身も気づかなかったが、違っていた。

「全部は言わない」

旅芸人は言った。

「あの手紙は、俺のものじゃない。あんたのものでもないかもしれない。ただ」

旅芸人は、少し黙った。

「一行だけ、覚えている。その一行を、言っても良いか」

老人は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

旅芸人は言った。

「あなたが見たものを、誰かに渡してください」

老人は、その言葉を聞いた。

聞いて、もう一度、内側で聞いた。

あなたが見たものを。

誰かに渡してください。

王女が書いた言葉だった。誰に宛てたのかは、旅芸人は言わなかった。老人も聞かなかった。聞かなくても、老人には届いた。

届いた、というより、返ってきた。

老人はずっと、渡すことを恐れていた。渡すことが失うことだと思っていた。しかし王女は、渡してくださいと書いていた。

いつ書いたのかは分からなかった。誰に宛てたのかも分からなかった。しかしその言葉は、老人が長い年月かけてしてきたことへの、返答のように聞こえた。

コレットに市場の話をした。旅芸人に、泣かなかったと言った。石の前で、また来ると言った。

渡していた。

知らないまま、渡していた。

「ありがとう」

老人は言った。

旅芸人は少し驚いた顔をした。老人が礼を言うことは、珍しかった。

「礼には及ばない」

旅芸人は言った。老人が第一章でコレットに言った言葉を、そのまま返した。気づいているかどうかは、老人には分からなかった。

「もう一つ」

旅芸人は言った。

「手紙には続きがあった。しかし俺には読み取れなかった。文字が薄くなっていて。一行だけが、辛うじて読めた」

老人は旅芸人を見た。

「それで良い」

老人は言った。

「一行で、十分だ」

旅芸人は少し何かを言いたそうな顔をした。しかし言わなかった。代わりに、コレットを呼んで酒を頼んだ。

その夜、旅芸人は歌わなかった。

珍しいことだった。しかし老人には、今夜は歌わない方が良いと思えた。

二人は、しばらく食堂にいた。

それだけで、十分だった。

三日後、老人は村へ行った。

旅芸人から聞いた村だった。王都から半日ほどの、小さな村。老人の足には、少し遠かった。しかし行った。

子の家を訪ねた。事情を話した。旅芸人が来た者だと言った。子は老人を見て、少しの間、何かを考えていた。それから、奥へ引っ込んで、小さな木箱を持ってきた。

「見てやってください」

子は言った。

「父が最後まで持っていたものです。読めるかどうかは分かりませんが」

老人は木箱を受け取った。

中に、折り畳まれた紙があった。長い年月で、縁が茶色くなっていた。丁寧に広げた。

文字があった。

旅芸人が言った通り、大半は薄くなっていた。かすれて、判別できない箇所が多かった。しかし老人の目には、その文字が見えた。

母から教わった言葉で、書かれていた。

老人だけが読める言葉で。


——ひかりをわたす人の祈りは

——音がなくとも

——あるべきところが みちびく


老人は、その三行を、読んだ。

読んで、もう一度、読んだ。

それだけだった。

紙を、元通りに折り畳んだ。木箱に戻した。子に返した。

「ありがとうございました」

老人は言った。

子は何も聞かなかった。読めたかどうかも、何が書いてあったかも。ただ、木箱を胸に抱えた。父が最後まで手放さなかったものを、また胸に抱えた。

老人は村を出た。


帰り道、空は晴れていた。春の光が、街道に長く伸びていた。

老人は歩きながら、三行を持っていた。

声に出さなかった。しかし、持っていた。

あるべきところが、みちびく。

老人はその言葉を、長い年月の中に当てはめた。

墓所への道を、知らないまま歩き続けたこと。花を持っていくことを、誰かに言われる前に始めたこと。コレットが宿を出て墓所へ向かったこと。旅芸人が断片を集めて歌にしたこと。

導いていたのは、老人ではなかった。

あるべきところが、それぞれを引き寄せていた。

老人は、足を止めなかった。

ただ、歩いた。

トライコン亭の明かりが、遠くに見え始めた頃、老人は一つだけ思った。

王女は知っていた。

声を上げなかった老人のことを。燃えていたが音を立てなかった老人のことを。

知っていて、書いた。

届くかどうかも分からないまま、書いた。

それで十分だった。

老人は歩いた。

---

*(第十六章、了)*

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