第十五章 あの夜
……
眠れない夜だった。
宿の天井に、染みがあった。いつも見ている染みだった。しかし今夜は、染みを見ながら、別のところにいた。
あの夜のことを、老人は今夜、止めなかった。
止めようとして、止めなかった。長い年月、あの夜へ向かう記憶を、途中で止めてきた。止めることが習慣だった。しかし今夜は、旅芸人に言葉を渡した後で、止める理由が以前より薄くなっていた。
老人は天井を見たまま、あの夜へ入っていった。
⸻
知らせが来たのは、夜半過ぎだった。
騎士はその頃、王宮から離れた場所にいた。老化の進行を理由に近衛を辞して、数年が経っていた。王女とは、別れた日から会っていなかった。
知らせは、かつての同僚から来た。王宮の内部が乱れている、王女が危ない、という内容だった。
騎士は動いた。
考える前に、足が動いた。この足は、いつもそういう足だった。
夜の街道を走った。走りながら、間に合うかどうかを考えた。考えながら、考えることをやめた。間に合うかどうかは、着いてから分かる。着く前に考えても、速くはならない。
王宮へ向かった。
しかし、着いたとき、すでに遅かった。
政変は、その夜のうちに決していた。王宮の門は新しい者たちに押さえられていた。王女はどこにいるか、分からなかった。聞ける者も、いなかった。
騎士は、王宮の外に立っていた。
中へ入ることができなかった。入れば、捕らえられた。捕らえられれば、何もできなくなった。
夜が明けた。
王女が保護されたという話が、流れてきた。保護、という言葉が、何を意味するのかを、騎士は知っていた。
騎士は、その場を離れた。
離れながら、足が動かなくなりそうだった。しかし動かした。動かすことが、今できる唯一のことだった。
暗い街道を、歩いた。
後ろを、振り返らなかった。
⸻
天井の染みを、老人は見ていた。
あの夜から、今夜まで。長い年月があった。その年月の間、老人はあの夜を、途中までしか思い出してこなかった。王宮へ向かった場面まで。あるいは門の前に立った場面まで。
しかし今夜は、街道を歩いたところまで来た。
暗い街道を、歩いた。
その後の記憶は、また別の夜だった。
王女は、その後しばらく生きていた。しかし政変は続いた。老人がいない間に、続いた。老人は遠くから、その経過を聞いた。聞きながら、戻ることができなかった。戻れば、正体がばれるかもしれなかった。ばれれば、王女の困難になった。
そう思っていた。
しかしそれは、言い訳だったかもしれなかった。
戻れなかったのではなく、戻る勇気がなかったのかもしれなかった。
老人は、それを、長い年月、考えなかった。考えないことにしていた。しかし今夜は、少し、考えた。
戻っていたら、何かが変わったか。
分からなかった。
分からない、という答えが、最も重かった。
老人は天井を見ていた。
今夜、旅芸人に言ったことを思った。
——そこにいた。
それは本当だった。門の前に。しかし中へは入れなかった。
——その後だ。私がいない間に、続いた。
それも本当だった。
しかしその間にある言葉を、老人はまだ誰にも言っていなかった。
着いたとき、すでに遅かった。
その事実が、老人の中で、長い年月、固まっていた。
あの夜、王女は覚悟していた。静かだった。落ち着きすぎていた。
老人はそのことを、旅芸人から聞いた。聞いて、知った。
王女は、最後まで、泣かなかった。
老人はそのことを、長い年月、一人で持っていた。
今夜もまだ、一人だった。
しかし今夜は、少し違った。
旅芸人に、向かっていたと言った。王女が泣かなかったと言った。間に合わなかったと、言葉にした。
それだけだったが、それだけ言った。
老人は目を閉じた。
眠れるかどうかは、分からなかった。
しかし今夜は、閉じる前に、一つだけ思った。
王女は、最後まで、静かだった。
覚悟していた。
だとすれば——老人が間に合っていたとしても、王女は同じ顔をしていたかもしれなかった。
それは老人を楽にする考えではなかった。
しかし、的外れな場所に立ち続けるだけではない、別の立ち方があるかもしれない、という感覚が、今夜初めて、老人の中に来た。
老人だけが、それを知っていた。
まだ。
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*(第十五章、了)*




