第十三章 歌が変わる
三日後の夕方、旅芸人がトライコン亭へ来た。
老人は隅の席にいた。もはや習慣になっていた。墓所へ行き、花を置き、トライコン亭へ戻る。それが老人の一日になっていた。いつからそうなったかは、老人自身もはっきりとは言えなかった。
旅芸人は食堂へ入ってきて、客の多さを見て、今夜は歌えると判断したような顔をした。コレットに酒と場所を頼んで、隅の方へ楽器を置いた。
歌い始めたのは、夕食の時間が少し過ぎた頃だった。
最初の数曲は、いつも通りだった。旅の歌、季節の歌。客が解れていくのを旅芸人は待っていた。老人は水を飲みながら、それを見ていた。
四曲目に、王女の歌が来た。
旋律は同じだった。しかし最初の節から、何かが違った。
市の庭で笑う姫君は
値切る顔も同じだと言った
老人は、杯を置いた。
置いたことに、気づかなかった。
名もなき花を買って帰った
その花の名を誰も知らない
旋律が続いた。老人は聞いていた。聞きながら、どこへ向かうのかを、知らなかった。知らないまま、聞いていた。
雪の庭で眠る姫君は
春を知らずに眠りぬ
忘れな草よ咲かないでくれ
あの方はもう、名を持たぬゆえ
ここからは知っている節だった。しかし前に新しい節が加わったことで、全体の意味が変わっていた。
市場で笑っていた姫君が、雪の庭で眠っている。
それだけのことだったが、その順番が、以前の歌にはなかった。市場の姫君と、眠る姫君が、同じ人間として並んでいた。
名を持たぬとも、記憶は咲いて
誰かの夢の中に生きている
騎士よ剣を置け、花を持て
死者を墓に閉じ込めるな
歌が終わった。
食堂に、短い沈黙があった。それから拍手が来た。今夜は少し大きかった。
老人は拍手をしなかった。
できなかった、というより、する状態になかった。
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歌の後、客が少し帰り始めた頃、旅芸人が老人の席へ来た。
「聞いていたか」
旅芸人は言った。
「聞いていた」
「どうだった」
老人は少しの間、答えなかった。
「お前に何かを話した者がいる」
「ああ」
旅芸人は素直に認めた。隠さなかった。
「コレットか」
「昨日、少し話した。市場の話と、花の話を」
老人は食堂を見た。コレットは奥の方で客の対応をしていた。老人の方を、時々見ていた。見ては、視線を逸らした。
「怒っているか」
旅芸人が聞いた。
老人は旅芸人を見た。
怒っているか、と問われて、老人は自分の内側を確かめた。確かめながら、何があるかを探した。
怒りは、なかった。
しかし何かはあった。
「怒ってはいない」
老人は言った。
「では何だ」
「分からない」
老人は正直に言った。
旅芸人は椅子を引いて座った。
「歌の中の市場の節、俺が作った。しかし元になった話はコレットから聞いた。市場で値切る顔も立ち話をする顔も同じ種類だと言った姫君の話を」
「知っている。私が話した」
「そうか」
旅芸人は杯を傾けた。
「おかしいと思うか」
「何が」
「お前が話して、コレットが俺に話して、俺が歌にする。その途中で、何かが変わっている」
老人は、その言葉を聞いた。
変わっている、と旅芸人は言った。正確だと思った。変わっていた。老人が市場で見た王女の後ろ姿は、今や歌の中で「笑う姫君」になっていた。笑っていたかどうかを、老人は正確には覚えていなかった。笑顔だったかもしれなかった。しかし老人が伝えた記憶の中に「笑う」という言葉はなかった。
それがコレットを経由して、旅芸人の歌に入った。
「変わった部分がある」
老人は言った。
「どこだ」
「笑う姫君、というところだ。笑っていたかどうかを、私は言っていない」
旅芸人は少し考えた。
「コレットが、楽しそうだったと言っていた。楽しそうなら笑っていたと思った」
「楽しそうだったかもしれない。しかし笑顔だったかどうかは、私には分からない」
「では変える」
旅芸人は言った。あっさりと。
「次に歌うときは変える。楽しそうな姫君、でも良いが、どちらがいいか」
老人は旅芸人を見た。
「どちらでも良い」
「決めてくれ。あんたの記憶に近い方が良い」
老人は少しの間、考えた。
考えながら、市場の王女を思い出そうとした。後ろ姿だった。表情は見えなかった。横顔を一度だけ見た。そのとき王女は、老婆の言葉を聞いていた。聞きながら、何かを言っていた。
「楽しそうだった、で良い」
老人は言った。
「笑っていたかどうかは分からない。しかし楽しそうだったことは、確かだ」
旅芸人は頷いた。
「次からそうする」
それだけだった。
老人は、その簡潔さを見ていた。旅芸人は変えることを、重く扱わなかった。間違えた、直す。それだけだった。しかし老人の中では、それは簡単なことではなかった。
何かが変わっていく、ということが。
「一つ聞いても良いか」
老人は言った。
「ああ」
「あの歌は、これからも変わるか」
「変わる」
旅芸人は迷わず言った。
「俺が変える。俺以外の者が変える。どこかの村で別の節が加わる。いつか俺の知らない形になる」
老人は、それを聞いた。
「それで良いのか」
「良い悪いではない。そういうものだ」
旅芸人は杯を置いた。
「ただ」
旅芸人は言った。
「今夜の歌の中に、本物の断片が入った。市場で笑っていた姫君が、眠る姫君と同じ人間として並んだ。それはこれからこの歌がどれだけ変わっても、今夜ここにいた者の中に残る。この食堂で聞いた者の中に」
老人は食堂を見た。
残っている客が、何人かいた。今夜この歌を聞いた者たちが。
旅芸人の言った意味が、老人には分かった。
歌は変わる。しかし今夜この場所で、市場の王女が眠る王女と同じ人間として並んだ、その瞬間は、今夜ここにいた者の中に残る。完全には変わらない何かが、ある。
老人は、水を飲んだ。
そのとき、コレットが近づいてきた。
老人の前に立って、少し不安そうな顔をしていた。
「怒っていますか」
コレットは言った。
老人は、コレットを見た。
「怒っていない」
「話してしまって、良かったのか分からなくて」
「良かった」
老人は言った。
言ってから、自分でも少し意外だった。良かった、という言葉が、老人の口から出た。
コレットは少し表情が和らいだ。
「王女様の話を、誰かに話したかったんだと思います。ずっと自分の中だけに持っていたのが、もったいない気がして」
老人は、その言葉を聞いた。
もったいない。
コレットは王女を知らない。二日前に老人から聞いた断片しか持っていない。それでも、持っているだけではもったいないと感じた。
老人は長い年月、持っているだけだった。
もったいないとは、思わなかった。
思わなかったのは、渡せる相手がいないと思っていたからか。あるいは渡すことが、失うことだと思っていたからか。
「もったいない、か」
老人は言った。
「はい」
「そうかもしれない」
コレットは少し笑った。
「また墓所へ行きたいです。次は春になったら、もう少し良い花が見つかるかもしれません」
膨らんだ特徴のある鼻を見るのみで、老人は答えなかった。
しかし答えない、ということが、否定ではなかった。
「王女はたくさん歌を歌った、その歌が私は好きだった…」
聞こえるとも聞こえないともいえるような声で、老人は独り言のようにつぶやいた。
コレットは仕事へ戻った。
旅芸人も、別の客の方へ行った。
老人は一人、席に残った。
食堂に、静かな夕方の時間があった。
老人は窓の外を見た。
暗くなりかけていた。しかし完全には暗くなかった。まだ、光があった。
今夜の歌の中に、本物の断片が入った。
それが嬉しいのか、寂しいのかを、老人は正確には分からなかった。
両方だった。
両方が、同時に本当だった。
老人は、その感覚を、持っていることにした。
整理しなくて良かった。
また、ぼんやりとした声が響いた
「機微に触れるのが必要なのと、姫君はつぶやいた…、 渡す者がいて、受け取る人が必要なのだと」
名もなき石の前に 花は今日も、咲いている
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*(第十三章、了)*




