第十章 市場の話
朝の食堂に、客が少なかった。
旅芸人はいなかった。昨夜遅くまで歌って、今日は眠っているのかもしれなかった。老人は隅の席で、パンとスープの朝食を取っていた。コレットが給仕していたが、今朝は忙しくなかった。
食べ終わって、老人はそのまま席にいた。
出るつもりだったが、足が今日は急いでいなかった。珍しいことだった。墓所へ行くのは午後でも良かった。花は昨日持っていった。今日また持っていくかどうかは、まだ決めていなかった。
コレットが、水を注ぎに来た。
「今日はゆっくりですね」
コレットは言った。
「そうだな」
「どこかへ行きますか」
「まだ決めていない」
コレットは水差しを持ったまま、少し立っていた。何か言いたそうな様子だったが、仕事の邪魔をするのを遠慮しているようでもあった。
「聞きたいことがあるなら、聞け」
老人は言った。
コレットは少し驚いた顔をした。それから、向かいの椅子を少し引いた。座って良いか、と目で聞いていた。
老人は答えなかったが、視線を窓の外へ向けた。それを許可と取ったのか、コレットは座った。
「旅芸人さんが、王女様は市場が好きだったって言っていたんです」
コレットは言った。
「変装して出ていったって。それって本当ですか」
老人は窓の外を見ていた。
「本当だ」
「やっぱり。旅芸人さんが歌にしてたんですけど、なんか信じられなくて。でも本当なんですね」
「何度も出た。そのたびに胃が痛かった」
コレットは少し笑った。
「どんな格好で行ったんですか」
老人は、少し間を置いた。
話すつもりはなかった。しかし話さない理由も、今日はあまりなかった。
「最初は商家の娘の格好で行った。それがすぐばれた」
「ばれたんですか。誰に?」
「市場の魚屋に。三言話しただけで、どこぞのお嬢様かと言われた。言葉の使い方が違うと言われた」
「そうか」コレットは声を上げて笑った。「それで?」
「次は使用人の格好で行った。それでも二度目に行ったとき、同じ野菜売りの老婆に、また来たねと言われた」
「顔を覚えられてたんですね」
「顔ではなく、目だと老婆は言った。目が違うと」
コレットはテーブルに肘をついた。身を乗り出すような姿勢になっていた。
「目が違うってどういうことですか」
「老婆が言うには、品物を見るとき、普通の人間は値段を見る。しかし王女は品物そのものを見ていた。そういう目は珍しいと言われた」
「へえ」
コレットは、その話を咀嚼するように少し黙った。
「王女様は怒りましたか。ばれたことに」
「怒らなかった。むしろ喜んでいた」
「喜んでたんですか」
「その老婆と、その後も話した。野菜の育て方を聞いていた。宮廷の庭師に同じことを聞いたら丁寧な答えが返ってくる、しかし市場で聞くと本当のことを教えてもらえると言っていた」
コレットは、ふっと笑った。
「それが王女様らしいですね。旅芸人さんの歌と同じ感じです」
「歌と同じか」
「境界を越えようとするところが。旅芸人さんの歌の王女様も、いつもそういう感じで。身分とか立場とか、そういうのを気にしない」
老人は、コレットを見た。
十二か三の少女が、旅芸人の歌から王女の本質を読んでいた。正確に、とは言えないかもしれなかった。しかし遠くもなかった。
「一度だけ」
老人は言った。
「うまくいったことがあった」
「どういうことですか」
「三度目のときだ。今度は変装を変えた。旅の薬売りの格好で行った。私も付き添いの格好をした」
「旅芸人みたいですね」
「そう言うな」
コレットはまた笑った。
「その日は誰にもばれなかった。市場を一回り全部歩いた。王女は、ずっと何かを見ていた。品物ではなかった。人を見ていた」
「人を?」
「値切っている人間、立ち話をしている人間、子供に何かを買い与えている人間。そういうものを、ずっと見ていた。帰りがけに言った」
老人は少し止まった。
「何と言ったんですか」
コレットが聞いた。
「皆、同じ顔をしているわと言った」
「同じ顔?」
「皆が同じ顔をして生きている、という意味ではなかった。どの顔も、何かを一生懸命やっている顔だという意味だった。値切る顔も、立ち話をする顔も、子供に何かを買う顔も、同じ種類の真剣さだと言っていた」
コレットは、黙っていた。
黙って、その言葉を考えていた。テーブルの端を、指でなぞっていた。
「それが分かったから、市場へ行ったんですね」
コレットは言った。
「そうかもしれない」
「本の中では分からないことが、市場に行くと分かる」
「王女はそう言っていた」
コレットは少し考えてから言った。
「私、ずっとここにいます。宿から離れることはほとんどない。でも、ここに来るお客さんを見ていると、少し分かることがあります。どこから来たかとか、何を抱えているかとか、なんとなく」
「それと同じことだ」
老人は言った。
コレットは、老人を見た。
老人が「同じことだ」と言ったことを、少し驚いて受け取っていた。老人が何かを肯定したことが、珍しかったのかもしれなかった。
「王女様に会ってみたかったです」
コレットは言った。
責める言葉ではなかった。ただ、本当にそう思っている言葉だった。
「会えなかっただろう」
老人は言った。
「どうしてですか」
「王女はお前のような者を、気に入りすぎる。それが危なかった」
コレットは、その言葉の意味を考えているようだった。
「危ない、というのは」
「気に入った者を、振り回す。悪気はなかった。しかし振り回した」
「それは、あなたも?」
老人は答えなかった。
答えない、という答えだった。コレットはそれを理解したようだった。
「でも、それが王女様だったんですね」
コレットは言った。
「振り回す人だったけど、みんなついていった。胃が痛くても、ついていった」
老人は、窓の外を見た。
今日の光は、昨日よりも少し強かった。
「一つだけ教える」
老人は言った。
「はい」
「市場で、その日、王女が買ったものが一つある」
「何ですか」
「野菜売りの老婆から。名前も知らない、白い小さな花を。路地の端に生えていたものを、老婆が売っていた」
コレットは、息を少し止めた。
「白い、小さな花」
「売り物ではなかったかもしれない。しかし王女が欲しいと言ったから、老婆は売った。王女は大事そうに持って、宮廷へ帰った」
「それが」
コレットは言いかけて、止めた。
止めてから、また言った。
「私が棚で育てているのと、同じかもしれないです。名前を知っている人に、まだ会ったことがなくて」
老人は、コレットを見た。
「名前を知らないのか」
「はい。お客さんに聞いても、花屋のおばあさんに聞いても、誰も知らないって。この辺りではずっと昔からある花らしいんですが」
老人は、窓の外を見た。
何も言わなかった。
「王女様が、好きな花だったんですか」
老人は答えなかった。
答えなかったが、否定もしなかった。
コレットは、しばらく黙っていた。自分が棚で育てている花のことを、考えているのかもしれなかった。老人にはそれが分かった。分かって、何も言わなかった。
言わなくても、分かることがあった。
「教えてくれて、ありがとうございました」
コレットは立ち上がりながら言った。
老人は頷かなかった。
しかし水の杯を一口飲んだ。
それだけだった。それで十分だった。
コレットは仕事へ戻った。
老人は食堂に少しいた。
今日は花を持って墓所へ行こうと思った。昨日も行ったが、今日も行きたいと思った。行きたい、という感覚が、老人の中にあった。
珍しいことだった。
しかし珍しいからといって、悪いことではなかった。
老人は席を立った。
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*(第十章、了)*




