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第九章 あの日の話

旅芸人が戻ってきたのは、十日後だった。


次の街へ行って、戻ってきた。トライコン亭の食堂へ入ってきたとき、老人はすでに隅の席にいた。旅芸人は老人を見て、特に驚かなかった。まだいたか、という顔をして、しかしそれを口にしなかった。自分の席を確保して、コレットに酒を頼んだ。


しばらくして、旅芸人が老人の席へ来た。


「座っても良いか」


「好きにしろ」


旅芸人は向かいに座った。酒の杯を持っていた。


「次の街で、面白い話を聞いた」


旅芸人は言った。


「歌のためか」


「そのつもりで行った。しかし歌より重い話になった」


老人は旅芸人を見た。旅芸人は杯を傾けたが、飲まなかった。手の中で、少し回した。


「政変の話だ」


老人は、何も言わなかった。


「王女が亡くなった日のことを、覚えている者がいた。当時、宮廷に出入りしていた商人だった。今はもう隠居して、小さな町に住んでいる。歌を歌ったら、話しかけてきた」


「何を話した」


「あの日、宮廷の中で何があったか。老人の見ていた範囲のことを」


老人は水の杯を持った。持ったまま、飲まなかった。


「王女は、知っていたらしい」


旅芸人が言った。


「何を」


「自分が危ないことを。政変が起きることを。事前に、近しい者には伝えていたという話だった」


老人は、杯を置いた。


「事前に」


「ああ。その商人が言うには、王女は数日前から様子が変だったと。落ち着いていたが、落ち着きすぎていた。覚悟を決めた人間の静けさだったと」


老人は、食堂を見た。


夕方の食堂だった。客が何人かいた。話し声があった。杯の音があった。それらが、今は少し遠かった。


「近しい者には伝えていた」


老人は繰り返した。


「ああ」


「近しい者とは」


「商人には分からなかった。自分には教えてもらえなかったと言っていた。近しい者だけだったと」


老人は、その言葉を受け取った。受け取って、中に置いた。


近しい者には伝えていた。


老人は近しい者だったか。あの頃、老人はすでに宮廷を離れていた。離れてから、何年も経っていた。近しい者の中に、老人はいなかった。


「王女は」


老人は言った。声が、少し低くなった。


「最後まで、逃げようとしなかったのか」


「その商人は、そう言っていた。逃がそうとした者がいたが、王女は断ったらしい」


「なぜ」


「理由は分からないと言っていた。ただ、断ったと」


老人は、窓の外を見た。


夕方の光が、暗くなりかけていた。


逃げようとしなかった。それが本当なら——老人は考えかけて、止めた。止めようとしたが、止まらなかった。


もし老人があの場にいたなら、王女は逃げていたか。


分からなかった。


分からない、という答えが、老人には一番重かった。もし逃げなかったなら、彼がいても結果は同じだったかもしれない。しかしそれは、老人がいなかったことの言い訳にはならなかった。いなかった事実は、変わらなかった。


「なぜ俺にそれを話す」


老人は言った。


旅芸人は杯を一度、飲んだ。


「あんたが、あの石のことを知っているから」


「それだけか」


「それだけだ。知っている者に話した方が、正確に受け取ってもらえる。知らない者に話すと、歌になる前に変形する」


老人は旅芸人を見た。


「正確に受け取って、どうしろというのか」


「どうもしなくていい」


旅芸人は言った。


「ただ、持っていてくれればいい。俺の知っていることを、あんたも知っていてくれれば、それで十分だ」


老人は、その答えを聞いた。


聞いて、すぐには何も言えなかった。この旅芸人は時々、老人の想定しない答えを出した。ずらしてくる、という感じではなかった。ただ、違う方向から来た。


「もう一つ聞いた話がある」


旅芸人が言った。


「言えるか」


「あんたが聞けるなら」


老人は旅芸人を見た。聞けるかどうかを、旅芸人に判断させた。旅芸人はしばらく老人を見て、それから話した。


「王女は最後に、何かを書いていたらしい。手紙か、覚書か、商人には分からなかった。しかし書いていた。それがどこへ行ったかは、誰も知らない」


老人は、動かなかった。


動かなかったが、指が、卓の端に触れた。触れて、止まった。


「誰かに宛てたものか」


「分からない。商人が見たのは、王女が何かを書いているところだけだ。内容は見ていない」


老人は、指を卓から離した。


何かを書いていた。


それが誰に宛てたものかを、老人は考えた。考えて、考えないようにした。考えると、自分に宛てたものだったかもしれないという方向へ行った。行って、もしそうなら届いていないという事実が来た。届いていない手紙が、どこかにあるかもしれなかった。あるいは、もうどこにもないかもしれなかった。


どちらも、老人には確かめる方法がなかった。


「歌にするつもりか」


老人は言った。


「まだ分からない。素材としては持っている。しかし何を書いたか分からないものを、歌にはできない」


「そうだな」


老人は言った。


それだけ言った。


旅芸人は残りの酒を飲んだ。飲み干して、杯を置いた。


「あんたは、あの石の人物を、知っているのか」


旅芸人が言った。


今まで何度か向きかけて、向かなかった問いだった。今夜、初めて正面から来た。


老人は旅芸人を見た。


旅芸人は老人を見ていた。視線を逸らさなかった。逸らさないが、圧をかけてもいなかった。ただ聞いていた。


老人は、少しの間、黙っていた。


「知っていた」


老人は言った。


過去形だった。意図して過去形にした。知っている、ではなく、知っていた。


旅芸人は、何も言わなかった。


何も言わずに、一度だけ頷いた。それだけだった。それ以上を求めなかった。


食堂の音が、また近くに戻ってきた。話し声、杯の音、厨房の気配。


コレットが遠くで、客の対応をしていた。


老人は水を飲んだ。


冷たかった。今夜は外が冷えていた。冷える夜は、水が冷たかった。当たり前のことだったが、今夜はその冷たさが、はっきりと感じられた。



その夜、老人は宿の部屋で、眠れなかった。


眠れないことは珍しくなかった。長い年月、眠れない夜があった。しかし今夜の眠れなさは、いつものそれとは少し違った。


何かを書いていた。


その一文が、老人の中でまだ動いていた。


王女は覚悟を決めていた。落ち着きすぎていた。逃げなかった。そして、何かを書いた。


老人がいたとしても、王女は逃げなかったかもしれなかった。それは今夜初めて、老人の中に入ってきた考えだった。守れなかった、という言葉で長い年月を過ごしてきたが、守ろうとしても王女は受け取らなかったかもしれない。


それは老人を楽にするための考えではなかった。


むしろ逆だった。


守れなかった、という罪責感は、まだ老人を王女に繋いでいた。しかしもし王女が最初から逃げるつもりがなかったなら、老人の罪責感は的外れだったことになる。老人は何十年も、的外れな場所に立っていたことになる。


それは、守れなかったより、重かった。


老人は天井を見た。


宿の天井だった。染みが一つあった。


王女が書いたものが、どこかにあるかもしれなかった。ないかもしれなかった。


老人は、どちらかを確かめたいと思っているのか、思っていないのかが、分からなかった。


確かめたい、という気持ちがあった。


確かめたくない、という気持ちも、あった。


両方が、同時に本当だった。


老人は、以前、王女が言った言葉を思った。


疲れることと、それでもいてほしいことが、同時に本当だった——と、老人が第六章の夜に気づいたことを、今夜、別の形で老人自身が体験していた。


矛盾を抱えたまま、眠れない夜がある。


それは王女だけのことではなかった。


老人は目を閉じた。


眠れるかどうかは、分からなかった。


ただ、明日になれば、また花を持って、墓所へ行けるかもしれなかった。


今日のところは、それで十分だった。


---


*(第九章、了)*

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