第18話:複数のハミルトン、あるいは破綻する多重和音
メインブレーカーが落とされたグリーン・ルーフ・インは、巨大な獣が手負いの怒りをあわらわにするように、その内臓たる配管や壁を激しく震わせていた。
暗く狭いダクトの中を、マーカス・グレイとノラ・パーカーは這い進んでいた。非常用電源による血のような赤い光が、一定の周期で二人の顔を照らし出す。
施設のどこかで、重い金属扉が一斉に封鎖される音が鳴り響いている。システムは完全に「防衛モード」へと移行し、体内の異物であるマーカスたちを物理的に圧殺、あるいは消化しようと動き出していた。
その時、ダクト内に設置されたスピーカーから、システム・アナウンスが響き渡った。
『――緊急事態。セクターCおよびDにおける物理的封鎖を実行。対象マーカス・グレイを……』
それは、あのディレクター・ハミルトンの声だった。
しかし、マーカスは這い進む手を止め、その音声に耳を澄ませた。何かが決定的におかしい。
以前、地下集会室で聞いたハミルトンの声は、無数の声帯を縫い合わせ、一本の太い糸のように撚り合わされた「完璧な多重和音」だった。それは無機質でありながら、絶対的な一つの意志として統合されていた。
だが今、スピーカーから流れてくる声は、まるで編み込まれた糸がほつれ、無数の繊維がバラバラにほどけ出しているかのように聞こえたのだ。
『対象マーカス・グレイを、直ちに「排除」せよ』
低く冷酷なバスの声が響く。
すると直後、それに被さるように、甲高くヒステリックなソプラノの声が割り込んだ。
『否! 対象は貴重な初期データ(0001)である! 捕獲し、コアへ「再統合」せよ!』
さらに、別のくぐもった声がノイズに混じって不気味に囁く。
『……殺せ……俺たちと同じように……すり潰してしまえ……!』
マーカスは背筋が凍りつくのを感じた。
三つ目の声。それは電子音に歪められてはいたが、間違いなく、ほんの数時間前に第三作業室で消失した『447』――ジェームス・コーンの叫び声と全く同じ波長を持っていた。
「……統合されていない」
マーカスは暗闇の中で呟いた。
「ハミルトンは……一人の人間じゃない。複数の声が、互いに矛盾した命令を出している」
「ええ、その通りよ」
前方を這うノラが、振り返らずに答えた。
「彼らは『群体意識体』。この施設で自我をすり潰され、ネットワークに接合された数万人の脳の集合体よ。平時は『ディレクター・ハミルトン』という単一のペルソナ(仮面)を被って、完璧な論理を保っている」
ノラはダクトの分岐点に差し掛かり、下へと続くルートを選んだ。
「でも、群体意識は絶対じゃない。あなたという『15年間も従順だった最も完璧な部品』が反逆したことで、システム内に強烈な論理矛盾が生じた。どう対処すべきか、彼らの中で意見が割れているのよ」
マーカスは戦慄した。
ディレクター・ハミルトンという超越的な支配者がいるわけではない。この狂ったシステムを運営しているのは、かつて被害者としてここに連れてこられ、絶望の中で施設の一部に成り果てた「無数の亡霊たち」なのだ。
彼らはもはや自分が誰であったかも忘れ、ただ全体の一部として機能している。だが、突発的なエラーの前にその統制が乱れ、取り込まれた個々の意識――ジェームスのような新しい犠牲者や、かつての看守たちの残滓――が、泥沼の中から手を伸ばすようにバラバラの意志を叫び始めている。
『対象を破壊せよ!』
『対象を回収せよ!』
『痛い、暗い、熱い、彼もここへ引きずり込め!』
スピーカーから溢れ出すのは、もはやアナウンスではなく、何万という魂の悲鳴と憎悪が入り混じった狂気の不協和音だった。
ダクトの金属壁が、その音波に共鳴してビリビリと震え始める。
「急ぎましょう」
ノラが催促した。
「ハミルトンが自己修復機能を働かせて、再び一つの意志に統合される前に。彼らが混乱している今しか、地下最深部へ抜ける隙はないわ」
マーカスは奥歯を噛み締め、ジェームスの声が混じる狂気のノイズを背に受けながら、さらに深い地下へと向かって這い進んだ。
自分を追ってきているのは、看守でも機械でもない。「絶望に屈してしまった、かつての自分と同じ人間たち」の巨大な憎悪の塊なのだ。
ダクトの先から、重い機械音と共に、冷たい風が吹き上げてきた。




