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第19話「ノラ・パーカーの到着」

深い緑に覆われた丘の上。鉄格子の向こうにそびえる灰色のコンクリートの塊。

窓のない受付室で、インテイク・オフィサーのマーカス・グレイは、今日も新しい「宿泊客」を迎え入れていた。


「前の線に爪先を合わせろ。そこから動くな」


感情の起伏を完全に削ぎ落とした声。それはマニュアルに記載された通りの、寸分の狂いもない完璧なトーンだった。

マーカスの背筋は定規を当てたように伸び、制服にはシワ一つない。彼の脳内は、無風の湖面のように静まり返っていた。迷いも、疑問も、そして「過去」に対する一切の執着もない。彼は施設を構成する完璧な歯車として、ただ目の前のベルトコンベアに乗せられてくる肉塊を処理し続けていた。


……読者はここで、強烈な既視感と、それに勝る絶望を覚えるはずだ。

地下のダクト。ハミルトンからの逃亡。蘇った人間性。それらはすべてどうなったのか?

答えは、マーカスの濁りのない灰色の瞳の中にある。

システムは「エラー」を完全に修正したのだ。不具合を起こした部品は再フォーマットされ、工場出荷時の状態へと戻された。反逆の記憶は完全にデリート(消去)され、マーカスは再び「1日目」のインテイク・オフィサーとして、この終わらない白昼の受付室に座り直している。


金属製のトレイが押し出され、マーカスは淡々と作業を進める。

泣き叫ぶ者、威圧する者、命乞いをする者。彼らの反応はすべて想定内のノイズであり、マーカスの心拍数を1BPMたりとも上昇させることはない。


「次」


マーカスが呼ぶと、列の最後に立っていた小柄な女性が、白い線の前に進み出た。

ノラ・パーカー。32歳。外の世界での職業は「心理学者」。


マーカスは手元の問診票にペンを走らせる。彼女に割り当てられた本日の受付番号は『047』。

だが、ペンを動かしながら、マーカスの完璧な自動操縦プログラムの中に、微細な「ひっかかり」が生じた。


この女は、何かがおかしい。


ここへ連行されてきた人間は、例外なく「三つのF」のいずれかの反応を示す。闘争(Fight)、逃走(Flight)、あるいは硬直(Freeze)。恐怖と混乱によって大脳辺縁系がハイジャックされ、動物的な本能を剥き出しにするのが正常なプロセスだ。


しかし、線の前に立つノラ・パーカーは、そのどれにも当てはまらなかった。

彼女の肩には一切の力みがない。呼吸は深く、一定。何より異常なのは、彼女の「視線」だった。


彼女はマーカスを見ていなかった。あるいは、自身の絶望的な境遇を嘆いてもいなかった。

彼女の眼球は、部屋の構造を正確にトレースするように動いていた。

天井の四隅に設置された監視カメラ。その赤いランプの点滅周期。壁の材質。通気口のルーバーの角度。そして、不可視の低周波を放つスピーカーの配置。


「……所持品をすべてトレイに出せ」

マーカスがマニュアル通りの言葉を投げる。


「ええ、もちろん」

ノラは静かに頷き、ポケットからいくつかの私物を取り出した。だが、彼女はそれを無造作に放り投げることはしなかった。

腕時計、ヘアピン、手帳、ペン。それらをトレイの上に、まるで何かの幾何学的な図形を描くように、等間隔で正確に並べていった。


マーカスは眉を微かに動かした。

「装飾品もだ。すべて外せ」


ノラはゆっくりと腕時計を外し、トレイの「中央」に置いた。

「室温はおよそ18度。湿度は40パーセント前後。人間の快適性よりも、電子機器の冷却と維持を優先した空調設定ね」

彼女は独り言のように呟きながら、今度は天井のLEDパネルを見上げた。

「色温度は6500ケルビン。網膜への刺激を最大化し、メラトニンの分泌を阻害する仕様。フリッカーの周期から推測するに、意図的に脳波をベータ波からシータ波へと誘導しようとしている。古典的だけど、極めて効果的な洗脳の初期アプローチだわ」


マーカスは手を止めた。

「私語は慎め。ここはお前の分析を披露する場ではない」


「あら、ごめんなさい。職業病なの」

ノラは初めてマーカスと視線を合わせた。その瞳の奥には、怯えではなく、研究者が顕微鏡を覗き込むような冷徹な知的好奇心が煌めいていた。

「私は心理学者よ、マーカス・グレイ。人間の精神がどのような環境下で、どのように崩壊していくのか。そのプロセスを観察し、体系化するのが私の仕事。そしてここは……そうね、巨大で悪趣味な『スキナー箱』としては、これ以上ないほど完璧な観察対象だわ」


スキナー箱。動物のオペラント条件づけを研究するための実験装置。

彼女は、自分たちが閉じ込められたこの地獄を、システム側が用意した「実験室」だと正確に見抜いていた。そして同時に、自分自身がマウスであるという事実を受け入れながらも、観察者の視点を決して手放していなかった。


「お前に名前はない。今日からお前は047番だ」

マーカスの声は平坦だったが、その裏でシステムが「予期せぬ入力」に対する処理を急いでいた。


ノラは小さく笑った。バインダーのクリップが弾ける乾いた音が鳴る。

「48回目ね」


マーカスの手が、ピタリと止まった。

「……何だと?」


「私の言葉の意図を検索しようとしなくていいわ、インテイク・オフィサー。あなたの現在のデータベースには存在しない概念だから」

ノラはマーカスの顔を――正確には、彼の瞳孔の開き具合、瞬きの回数、顔面筋の微細な緊張を――スキャンするように見つめた。


「なるほど。前回の『処理』はずいぶんと深くメスを入れたようね。あなたの扁桃体は完全に麻痺させられ、記憶の海馬は綺麗にフォーマットされている。前回見せたあの美しい人間らしい苦悩の皺も、今は綺麗にアイロン掛けされているわ」


彼女は、直前のループ(第47回)でマーカスと共にダクトを這い、システムのコアを目指した記憶を完全に保持していた。

彼らの決死の反逆は、ハミルトンの防衛機構によって阻まれた。マーカスは捕らえられ、記憶を消去され、再び「初期状態の看守」としてここに配置されたのだ。


「……何を言っている。線を越えるなと言ったはずだ」

マーカスは懐のスタンバトンに手を伸ばした。しかし、彼女の言葉がなぜか頭の奥底で、引き抜くことのできない棘のようにチクチクと疼いていた。


「Dブロックの通気口から地下へ抜けるルートは、罠だったわ。140秒の猶予という私の計算は間違っていなかったけれど、ハミルトンの『自己修復機能パッチ』の適用速度を見誤った」

ノラはマーカスの警告を完全に無視し、自分自身の失敗を極めて客観的に分析し始めた。

「彼ら……あの複数の声を持つ群体意識体は、論理矛盾を起こして混乱していた。でも、異物を排除するという防衛本能だけは、個々の意識を超越して共有されていた。私のミスよ。あなたというシステムの中枢部品を急激に引き剥がしすぎたことで、ハミルトンの免疫系を過剰に刺激してしまった」


彼女はトレイの上の支給品(オレンジ色の制服)を手に取った。

「だから、今回はアプローチを変えることにするわ」


「アプローチだと?」


「ええ。システムの拒絶反応を防ぐためには、ウィルスを『無害な細胞』に偽装して、ゆっくりと時間をかけて中枢まで浸透させる必要がある。つまり、マーカス。今回のループでは、私はあなたの『自動操縦』をすぐには壊さない」

ノラはマーカスに一歩近づき、囁いた。

「あなたは完璧な看守を演じ続けなさい。私は従順な囚人を演じる。そして、ハミルトンが私たちを完全に消化のラインに乗せたと油断したその瞬間、内側から致死量の毒を盛ってあげる」


マーカスは息を呑んだ。

彼女の言葉の半分も理解できない。しかし、彼女が発する圧倒的な「知性」と「目的意識」が、マーカスの再インストールされたばかりの脆弱なプログラムに、静かな、しかし確実なバグを埋め込んでいくのを感じた。


彼女はただの被害者ではない。

絶望的な無限ループの中で、自らの死と消去すらも「データ収集」として利用し、この巨大な施設システムを攻略しようとしている、本物の怪物だ。


「さあ、案内してちょうだい。私の新しい部屋へ」

ノラはオレンジ色の制服を腕に抱え、まるでホテルのベルボーイに話しかけるような優雅さで微笑んだ。


マーカスの脳裏で、消去されたはずの警告音が、微かに、本当に微かに鳴り響いた。

この女を、システムの内側に入れてはならない。彼女は、この施設そのものを解剖しようとしている。


だが、マニュアルには「分析的な態度をとる囚人への対処法」は書かれていなかった。

マーカスは無言のまま踵を返し、彼女を地下の独房群へと導くことしかできなかった。


背後で、ノラ・パーカーの静かな足音が続く。

それは、ハミルトンという巨大な生命体の心臓に向かって、ゆっくりと、しかし確実に突き立てられるメスの響きだった。

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——では、あなたが読んでいるこれは、何回目だ? そして、あなたは気づいているか。 あなたが読み始めた時、 施設全体が「一度、呼吸」したことに。
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