XVII 世界から助けた人
どれくらい寝ていたのだろう。
ゆづりは意識の輪郭を掴むとすぐに目を開けた。しかし、そこに姉の姿はない。つい先ほどまでは広がっていたはずの町の風景やゆづりの家や学校もなかった。
一筋の光もない、完全な暗闇だけが目に入った。
「……金時星か」
何も情報が得られない真っ暗な環境だが、ここは何処だとはならない。カチカチと微かに時計が回る音がしているのだ。おそらく金時星の部屋に戻ってきたのだろう。
「帰って来た……」
ゆづりは失くなったはずの右腕を動かし、顔を覆う。
無事、奇妙な世界から抜け出せたというのに、ゆづりの胸には達成感も安心感もありゃしない。あの最悪な世界に対する不愉快さと後悔だけが、心臓と共に鼓動を打っていた。
「やぁ。おはよう」
体の怠さと共に堕落していたゆづりの目の前、不意に暗闇の中からにゅるっと何かが顔を出す。あまりにも唐突に現れたそれは、お化け屋敷から聞こえてくるような悲鳴を上げさせるくらいには不気味だった。
しかし、生憎今のゆづりには、そんなことに感情を揺らせる余裕はない。ノロノロと目線を動かし、眉を集めることしか出来なかった。
「おや。ご機嫌斜めそうだね」
「……在監者、ですか」
「そうだよ」
ゆづりが掠れた声で相手の名前を呼べば、在監者は愛想よく頷く。そして、黒い手袋に隠された手をこちらに伸ばしてきた。
どうやら助けてくれるらしい。ゆづりが遠慮なく在監者の手を掴めば、彼は手を握り返し引き起してくれた。
そして、その際に彼と繋がっている反対の手に懐中時計が握られているのが見えた。時計には何やらどろりとした赤い液体が付着している。
「それって…」
見覚えのある赤色に、ゆづりは目を見開く。
この少し黒ずんだ赤は、あの世界が終焉を迎えた時に降った、何もかもを溶かした雨の色とそっくりだ。というか、同じ成分のものだろう。こんな偶然がたまたま起こるまい。
ゆづりがまじまじと時計を見つめていれば、在監者は「これ?」とゆづりの目前で時計を揺らす。
「この時計はね、君をあの世界に閉じ込めていたモノだよ」
「あの世界」
「そうそう。お嬢ちゃんも体験したんでしょ?何度も同じことを繰り返される世界をさ」
在監者は親切心からか、持っていた時計をゆづりに手渡す。ゆづりはどうもと会釈をしつつ受け取った。その際に、時計に付着している赤色がゆづりの手にも着く。赤い液体はやたらベタベタしていて、気色の悪い感覚を与えてきた。
「ほら時計、止まってるでしょ」
「はい」
時計は四時程度を指したまま停止している。確か、姉が動かなくなったのも、学校からの帰り道で午後四時程度だった。
彼の説明を信じるのなら、どうやらゆづりはこの時計に縛られていたらしい。
まじまじと時計を見下ろすゆづりとは対称的に、在監者は落ち着いた様子で「さて」と息をついた。
「お嬢ちゃんは自分に聞きたいことが色々あるでしょ?何でも聞いて良いよ」
「は、はい」
それはそうだ。ゆづりはこの神に聞きたいことは山ほどある。
なんでゆづりは過去に戻ったのか。どうしてそこで同じ時を繰り返したのか。なぜ人を苦しめる過去ばかり見せられたのか。
在監者はそんなゆづりの心中を察したようで、床に膝をつけしゃがむ。そして、下からこちらの顔を覗いた。
彼の目は、黒い布で塞がれているため視線が交わうことはない。しかし、もしこの布が無ければ、ばっちりと目線がぶつかっていただろう。
「じゃあ早速行こう。何から聞きたい?」
「その……まず、あの世界ってなんだったんですか。ずっと同じ時を過ごさせられて、何回もループさせられたんですけど」
「そうだなぁ。まぁ、簡単に言えば時計が引き起こしたバグってやつかな。時計が暴走して、手当たり次第に近くの人を拐っては、違う時空に飛ばしているんだ」
「バグ…それって他の星でも起こってるようなことですよね」
「そうだよ」
在監者は頷く。
やはり、金時星に起こった混乱は、シンギュラリティに見せてもらった映像通り、金時星を支配している時計が狂ったことらしい。
部屋に入った拍子に騒動に巻き込まれてしまったゆづりは、この時計によって最悪な世界に閉じ込められ、何度も同じ過去をループさせられた。
しかし、時計が止まったことにより世界は瓦解して、ゆづりは元の世界に戻って来れた、という構成だろう。
まぁ、簡素に説明するならば、ゆづりはとばっちりを食らったわけだ。八星が何処も荒れに荒れているという時に、何の力もない人間が彷徨くべきではなかったのだろう。
ゆづりは一人後悔に明け暮れる。すると、唐突に暗闇の中からバリンとガラスが割れる音が響いた。
「な、何?!」
「あー、時計。時計が割れたんだよ」
急な破壊音に身を震わせたゆづりに対し、在監者は動揺一つせず後ろを振り返る。そして、やれやれとでも言うようにゆっくり立ち上がると、暗闇の中に姿を消した。
しかし、すぐに再び姿を現す。彼がこちらに戻ってきたわけではない。部屋の電球がピカリと一斉についただけだ。
「これは……」
電気が暗室を照らした途端、ゆづりは呆然と目を見開く。
在監者の背後、壁一面につけられていた時計たちが、散々な状態になっていたのだ。
ある時計は長針と短針を落っことしている。またある時計の風防には、まるで銃にでも撃たれたように大きくヒビが入っている。ローマ数字が刻まれた文字盤には、何かインクでも跳ねたのか、所々赤やピンクのシミができているし、そもそも時計の形を失ったものもゴロゴロと床に転がっていた。
まるで室内に嵐でも入り込んだのかと錯覚するほどの荒れ様。整然と並んでいた時計たちが、こうもここまで崩されたことに、ゆづりはショックを隠せない。しかし、在監者の表情が揺らぐことはなかった。
「今までで千個くらい壊れているんだ。なかなかの数だよね」
「せ、千…?!」
「そう。時計が一つ壊れれば、一つの人命が潰えたことを意味する…なんてね」
動揺して固まるゆづりに対して、在監者は毅然とした態度で壊れた時計に触れる。すると、映画のフィルムが回っているような音と共に、映像が浮かび上がった。
「これは……」
「お嬢ちゃんと同じで、自分の忘れたい過去に飛ばされて苦しんでいるニンゲンだよ」
粛々と流れる映像の中、とある中年の男性が自分の首を締めて仰け反り回っていた。目は開いていない。おそらくあの悪夢に魘されているのだろう。
とても見ていられない。一刻も早く何とかしなければ。
ゆづりは危機感から在監者を見上げる。そして、どうすればこの騒動が収まるのか聞こうとして。
「………は?」
身体が強ばる。同時、全身から血の気が引いていった。
理由は一つ。在監者の態度だ。
彼は子供の演劇でも見るかのような温かい眼差しで、映像を見つめていた。見たいものが見れたというような、微笑みを持って。
「な、なんで…」
おかしい。なんでこの人は笑っているのだ。目の前で自分の星の人が苦痛に嘆いているというのに、笑顔は異常だろう。
沸々と嫌な考えが沸き上がっている。じわじわと、ゆっくりと、その理由をゆづりの頭は提示してくる。
きっと、星の現状がかなりピンチで手の打ち所がないから、諦めてヘラヘラするしかないのだろう。
ゆづりは自分にそう言い聞かせて、違和感に見て見ぬふりをしようとする。
そのはずだったのに。
「……時計、どうにかしないんですか」
気づいた時にはゆづりの口は動いていた。
それだけではない。床にしゃがんでいた体もしっかりと起こして、ジリジリと在監者から距離を取り始めていた。
だって、気づいてしまったのだ。彼の笑顔は追い詰められた時に出る顔ではなく、純粋に喜びを感じた時に出る表情だと。
在監者は星の惨状を見て、心から楽しんでいるのだと。
「うん。何もしないよ」
在監者はゆづりに懐疑の目で見られていることに気づいていないのか、はたまた無視しているのか、映像から目を離さない。彼はスクリーンに映っている男が、朧気な顔で首を吊ろうとロープに手を伸ばしているところを穏やかな顔で見守っていた。
が、不意に告白する。誰もを動揺させるような、衝撃的な発言を彼は唐突に繰り出した。
「だって、これ引き起こしてるの自分だからね」
在監者は流れるような自白に、ゆづりは言葉を失う。それと時を同じくして、映像の男が首を吊った。ダラリと力無く垂れる手足と血の気のない顔は、男の命がもう潰えたのだとありありと示している。
だから、在監者は満足したのだろうか。彼はようやくこちらを振り返って、じっとゆづりの見下ろしていた。
しかし、彼に一目で分かるような悪人面や邪悪さは皆無だ。彼の表情に灯っているのは、愛想の良さと親しげさで。今までゆづりと親しく接してくれた時と何一つ変わらない、あの友好的な色で。
『変なニンゲン。ボクは嫌い』『金時星には行くな』『在監者には良くない噂があるんです』
今頃になって、神たちの忠告が頭の中で反芻する。
在監者は異常だ。近寄るな。という散々の警告が。
「すみません失礼します」
ゆづりは手短にそう呟く。そして、相手の返答を待つことなく、時計のガラス片で埋まった床を踏んだ。
行き先は考えてない。ただ在監者から距離を取ろうとした。この得体の知れない人物から逃げようと。理解できないから、怖いから、離れようと。そうするしか出来ないから。
「いっ」
必死に部屋の外へ出ようとした矢先、つるりと滑って転んでしまった。焦りからではない。床がバケツ一杯の水でも捨てられたように濡れていたのだ。その予想外の湿り気に、ゆづりの足元を持っていかれた。
どうしてこんなところが濡れているんだ。ゆづりは身を起こしながら、ヒタリと何かで濡れた手を見下ろして。
「…あ?」
自分の手が真っ赤に染まっていることに気付く。
しかもその色は、赤い絵の具やペンキなどから出るものじゃない。独特の匂いと手にまとりつくそれは、ただの液体ではなかった。
血液。正真正銘、これは血だ。
「……あ…」
ダメだと分かっていた。しかし、止まれない。ゆづりはガチガチと震えながら視線を上げる。すると、金時星の扉の前に何かが横になっていることに気づいた。
どうしようもなく、あれは死体だとそう思わせるナリをして、彼女が倒れていた。
「………ハスキ?」




