XVI 崩壊をもたらす雨
何回、繰り返したのか分からない。
何度、姉の死を見届けたか分からない。
幾重に繰り返された絶望の世界に、ゆづりの心はとっくに砕けていた。
しかし、この世界のゆづりはゆづりの心などに影響されない。
ゆづりがどれだけ泣こうが喚こうが逃げたいと叫ぼうが怒り狂おうが、この世界のゆづりはこれっぽっちも変わらない。
ゆづりはいつも通り、姉に背中を叩かれ学校へ行き放課後にブランコを漕ぎながら、純粋に姉を待つ。
ゆづりがこれから来る姉の死に怯えていても、ゆづりは帰ってこない姉を心配し、何も知らないまま森へと赴く。
姉が死ぬ姉が死ぬ姉が死ぬと、姉と話しているときも、一人で歩いているときも、授業を受けているときも、呼吸しているときもずっと絶望し恐怖に震えていても、このゆづりは早く姉に会いたいなと呑気なことを考えながら一日を浪費している。
この世界のゆづりは、今のゆづりの心も姉の未来も何も知らぬまま、永遠に姉が死ぬまでの一日を繰り返してのうのうと生きている。
「じゃあ、今日はここでバイバイだ」
それは想像しているよりも遥かに地獄だ。
過去のゆづりは今のゆづりが元に帰るための行動などしない。今のゆづりの状況を、過去のゆづりは知らないのだから。
過去のゆづりは自殺などしない。
確かに過去に、ゆづりは何度も自殺したいと思った。どうやって自殺するかまで考えた。しかし、この世界のゆづりはしない。
だって結局、過去のゆづり自殺していないからこそ、今のゆづりがいるのだから。
つまり、今のゆづりは元の世界に帰ることも、死んでこの世界から逃げることもできない。
ゆづりはこれから何が起きるか知りながら、この世界のループし続けることしか、出来ない。
「ゆづり?」
もし、ゆづりがゆづりの口を動かせたら、ここで姉の名前を呼んでこれから起きることを伝えられていたのに。
「死ねクソ女!」
もし、ゆづりがゆづりの手を動かせていたら、こんな男とっくに殺してしまえていたのに。
「ゆづり。生きろ」
もし、ゆづりがゆづりの足を動かせていたら、ゆづりを庇い自殺する姉を助けられていたはずなのに。
そんな出来もしないことを思い、過去の自分の行いに後悔しながら生きていくことしか、ゆづりに許された道は無いのだ。
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自分が壊れないように己の意識を最低まで薄め、ゆづりはぼんやりとゆづりの一日を眺める。
何が起こるかはもう全て把握している。そして、人が吐く言葉も一言一句逃すことなく頭に入っている。暗唱も難なく出来るほどに。
今はそうだ。現在は学校が終わり、姉と一緒に帰路を辿っている。別れなければならない分岐点まで、残り十歩。
だから、ゆづりはぼんやりとあぁまた姉と別れなければならないのだとまたも悟っていた。のだが。
「じゃあ、今日はここで……」
姉のセリフが変わった。ここで姉がゆづりに言うセリフは「じゃあ、今日はここでバイバイだ」なのに、途中で途切れた。
普段なら全く気にしないほどの変化。しかし、今のゆづりにとっては天地が裏返るほどの大きな変化だった。
「まさか助か…」
無力感でぼやけていた頭が覚醒する。そして、殺していた心が起動された。その拍子に心の中の呟きが外に出る。外に出れていた。
「あ……?!」
ゆづりの言葉が喉を通り、表に現れる。それだけではない。手も足も目も表情も、今のゆづりの好きなように動かせるようになっていた。
状況が変わった。助かった。
ゆづりは自由になった腕を動かし、姉の手を両手で握る。そして、拙い言葉ながらも、今の危機を姉に伝えるために舌を回した。
「お姉ちゃん、これから大変なことになるんだ。あの人がお姉ちゃんを襲って殺そうとしてくる、だから!」
「……」
「だから、逃げよう。今すぐ!ここから!」
「………」
「お姉ちゃん…?」
ゆづりの必死の説得に、姉は微塵も反応しない。まるで石像にでもなったかのようにピタリと動きを止め、遠くを見つめるばかりだった。
まさか、ゆづりの話が聞こえていないのか。
不安になったゆづりは姉の目を覗きこむ。すると、黒に澄んだ姉の瞳がゆづりを映した。しかし、姉はゆづりを見ていない。彼女が見ているのは過去のゆづりだ。今、こうして好き勝手に動けているゆづりを、姉は認識していない。
「……どうして」
この現象を理解できぬまま、ゆづりはそっと姉の頬に触れる。
しかし、姉はやはり動かない。動いてくれない。今のゆづりを見てくれない。
一体、何が起こったのだろう。ゆづりは姉から手を離し、辺りを見渡す。すると、今世界がどのように変貌したのかを頭に叩きつけられた。
「……なるほど」
公園の時計の針が動きを止めている。ブランコも空に舞ったまま停止していた。ちらほらといる通行人も皆足を止め、ピタリと停止している。
間違いない。この世界の時が止まっているのだ。ゆづり以外の全てが、時間から置いてけぼりにされている。
「それでも上々だよ」
世界が止まったのなら、父もこの世界の何処かで静止しているということ。
つまり、今なら父を殺して、その遺体を誰も見つけることの出来ない場所に捨てることが出来る。姉と一緒にいるという選択をした上で、父を抹殺することが出来る。
「アイツ何処にいるんだろう…」
やっと好機が来た。ずっと非道な世界に耐えていた。が、それもこの時のためだったのだ。
ゆづりは久々に笑みを浮かべる。天にも昇るくらいの歓喜と長時間熟成された殺意がぐちゃぐちゃに混ぜられた、歪ませた笑顔を。
そして、高らかに一歩を踏み出して、父を殺しに行こうとして。
「……は?」
ゆづりの視界に空が写った瞬間に足を止めた。それと同時、ゆづりの右腕が消滅する。肘から下が、まるで最初から無かったかのように綺麗さっぱり無くなっていた。
「えっ…え?」
痛みもなく消え去った己の腕。ゆづりは喪失感に唖然としつつ、空を見上げる。すると、空は夕焼けの比ではない明るさの赤で染まっていた。加えて、血でも流しているかのように真っ赤な雨をも垂れ流している。
「な、なに……?」
空から漏れている赤い雨は、当たったものを跡形もなくドロドロに溶かしている。
空で止まるブランコも、一時停止の標識も、仲良く談笑している通行人も、雨に当たった瞬間に形を失い赤い水へ姿を変える。
意味が分からない。酸性雨でもこんなすぐには物を溶かせないだろうに。
訳もわからないまま、ゆづりは腕を見下ろしその場に立ち尽くす。しかし、すぐに踵を返した。
「お姉ちゃん!」
姉が、姉の身が危ない。この雨に触れたら、姉も被害を受けてしまう。
ゆづりは道路で止まったままの姉へ素早く駆け寄る。すると、予想通り姉も赤い雨を浴び、顔の大部分が欠けてしまっていた。
痛々しい姿だ。ゆづりは顔を歪め、傘となるよう姉に覆い被る。しかし、やはりと言うべきだろう。長くは持たない。一つ一つと雨を浴びる度、ゆづりの腰や足が溶けていく。それに伴って、じわじわと姉から遠ざかってしまう。
「おねぇ…ちゃ……」
足を失いまともに立っていられなくなったゆづりは、あえなく地面に膝をつける。が、その膝すらも水溜まりに溶かされ、姉の足元に踞ることしか出来なくなった。
そして、ゆづりという脆い傘を失った姉も、ゆづりと同じ状態になるまで時間はかからないわけで。
「……な…んで……」
体が動かせるようになったと思ったら、今度は気味の悪い雨に溶かされた。姉とは一時も話すことを許されぬまま、こうして息絶えて。
「………う…!」
そんなのは嫌だ。
ゆづりは最後の足掻きから、姉の踝に手を伸ばす。姉に触れれば、このゆづりを見てくれるのではないかと。少しでも、反応してくれるのではないかと。
しかし、それすら叶わない。ゆづりに残された最後の手は、無慈悲に降り注ぐ雨に溶解された。
その直後、ゆづりの体は完全に消滅する。そして、この狂った世界も真っ赤に染まり上げ、壊れ散った。




