XV 世界の真実
嘘だ。ゆづりは己の目を疑う。
先ほど父に撲殺されたはずの姉が、こうもゆづりの目の前にいるという光景を。怪我一つ無く、先ほど見せた異変もない、至って普通の姉がいる、この現在を。
「ゆづり?どうしたんだ?」
姉は困惑しているゆづりの本心など知らないのだろう。ゆづりの顔を下から覗いて、じっと目を合わせてくる。
前にも聞いたセリフと、見たことのある瞳。
まさか。ピンと来たゆづりはゆっくりと視線を上げ、姉の背後にある時計に焦点を合わせる。
古びた時計は早朝、六時前を指していた。加えて、その隣にあるカレンダーには、十月二日の文字が大きく刻まれている。姉が父によって殺された忌々しい日付がはっきりと示してあった。
「寝ぼけてんのか?顔でも洗ってこいよ」
「えっ、あ、うん…」
これも、つい一日前に聞いたのと同じ台詞。そして、バンと姉に背を叩かれたのも同じ行動。
ゆづりはノロノロと洗面所へ向かいつつ、今起きていることを薄々理解する。
ーー自分はどうやら、再び過去に飛んだのだ、と。
「………」
金時星に行ったら過去に飛ばされ、過去の世界で姉が亡くなったら飛ばされた時の時空に戻った。
意味は分からない。原理も理由も見当がつかない。
しかし、今はそんなことどうでもいい。
時が戻ったのなら、ゆづりのやるべきことは一つだ。姉を助ける。姉を父から守り抜く。それだけ。
「…………」
ポタポタと顎から水が垂れる。静かに顔を上げれば、鏡に虚ろな顔をした自分が写っていた。
酷い顔だ。だが、そんなこと思ったところで意味はない。姉を救うためには何の役にも立ちはしない。姉のことに全意識を費やすべきだろう。
「おい、何してんだ」
顔を洗ったゆづりは、リビングで姉を助けるべく頭を回していた。すると、無防備だった背中がパンと叩かれ、思考が散らされる。
ゆづりは無造作に振り返る。すると、姉は前回同様、ゆづりのランドセル片手に立っていた。
「早く家出よーぜ。あのヒトが起きる前にさ」
「あ、うん、行く」
姉はランドセルをゆづりに投げるなり、外へ出ていく。ゆづりもかなり正確に前回の世界をなぞっているなと思いつつ、姉を追いかけた。
****
姉を救うためにどうしたらいいか。
先程と全く同じ展開をなぞり、小学校へ向かったゆづりは今、算数の問題を目の前にそんなことを考えていた。
姉は今日の深夜、父に殺される。
だから、姉を助けるのに一番手っ取り早い手は、この手で父を殺してしまうことだろう。そうしたら姉を殺す人物はいなくなるのだから、あの事故も必然的に起きない。結果だけで見るなら最善手だ。
しかし、やはり姉のためとはいえ、人を殺していいのだろうか。
誰にもバレなかったら何も問題はないのだが、万が一、警察にでもバレたら色々面倒なことになる。
少年院とやらに連れていかれたら、姉と会えなくなるし、なにしろ姉が殺人犯の姉になってしまう。姉の人生が滅茶苦茶になるのだ。それはとてもじゃないが許容できない。
姉を助けられて、犯罪にも手を染めない方法。
ゆづりは終わらせた算数のプリントを教師に手渡しながら、頭を回す。
「うん。全部あってるね。悪いけど、自習して待っててね」
「……」
「佐々木さん?」
「え、あっ、はい」
目の前に差し出されたプリントそっちのけで姉のことを考えていれば、教師に不思議そうな顔をされた。
ゆづりはとっさに採点されたプリントを受け取り、そくささと自席へと戻る。その間にも頭の中は姉でいっぱいだった。
「………」
とりあえず、あの帰り道で姉を引き止めてみるか。姉を森に行かせなければ、同じことはまず起きないのだから。
そして、その後もずっと姉のそばにいれば、何か起こっても彼女を守れる。助けてあげられる。
しかし、それでも限界はある。その一つが学校だ。
ゆづりが小学校に行っている時に姉の身に何かあったら、ゆづりは手出しできない。
もちろん学校に行かないという手はある。が、そんなこと言ったら姉は怒るだろう。彼女は真面目な人だから。
父が姉を殺すのを諦めず、ゆづりの手の届かない範囲で彼女を襲ったら。
その時はゆづりが父を殺そう。
「………」
いや、ダメだ。その時はなんて曖昧な基準を使うな。
もう一度、この時空に戻ってこれる保証はないだろう。それなのに次回を宛にして生ぬるい手しか打たないのは愚かだ。
正解は一つ。見つけ次第、父を殺す。
ゆづりは今後の方針と覚悟を十分程度で決めると、机に顔を伏せてそのまま寝た。
****
それからゆづりは前回と寸分違わぬ授業を受け、給食を食べて、運命の放課後を迎えた。
簡単な授業を繰り返され、ゆづりの頭がおかしくなりそうだった。が、前回同様睡眠の世界に逃げて耐えた。そうでもしないと、発狂してしまうほど、小学校は退屈だった。
ギコギコと鈍い音を立てつつ、ブランコを漕ぐ。待っているのは姉だ。何があっても姉と帰宅することだけは止めたくない。
のんびりしたままブランコを漕ぐこと、三十回程度。そろそろ飽きてきたなと思い始めた頃に、ポンとゆづりの背に掌の感覚が走った。
「おまたせ」
勿論、背後にいたのは姉だ。彼女は「帰ろうぜ」と言い放つと、公園を出ていく。
姉はかなりマイペースな人だ。いつもこうやってゆづりに一方的に用件を伝えると、一人さっさと動き出してしまう。
信頼されているからこその行動だろう。ゆづりが姉に従うと。姉の言うことを信じる人だと。
そんなことを思いつつじっと姉の背を見つめていれば、彼女は唐突に振り返った。
「ゆづり。学校はどうだ?」
「え」
「楽しいか?」
「…うん。でも、お姉ちゃんといるほうが楽しいよ」
「ふーん?随分と可愛いことを言ってくれるじゃん」
姉は照れくさそうにゆづりのランドセルを叩く。
これも前回と寸分違わず同じだ。ゆづりはホッとため息を吐きつつ、通学路をなぞる。そして、分岐点となるあの台詞を待っていれば、姉が停止線を下に足を止めた。
「じゃあ、今日はここでバイバイだ」
来た。姉と別れるきっかけとなる言葉。姉の行方が分からなくなる前の最後の言葉。
ここでゆづりは姉の手を取り、「私もついていきたい」と言おう。姉に付いていけば、いずれ父は現れる。そうしたら姉を父から救うことも難しくはない。
ゆづりは意を決して口を開く。そして、姉を止めるための言葉を吐こうとして。
「え、家に帰らないの?」
………。
何が起こった。
ゆづりは今「待って」と姉の手を掴み、彼女を呼び止めようとした。なのにどうして、前回と全く同じ言葉を吐いた。全く同じ動作をした。
「あぁ。ちょっと、用があるんだ。大事なことがな」
混乱するゆづりを差し置いて、会話は進んで行く。
姉は頼もしげに微笑んでいた。それに対し、ゆづりは素直に頷いでしまう。前の時空と全く同じように。
「ありがとう、ゆづり。明日には帰るから家でちゃんと待ってろよ」
「うん。分かった……」
違う。姉の手を掴め。自分の頭を撫でている手を取り、姉を引き止めろ。
ゆづりは叫ぶ。しかし、その怒りは口からどころか態度にも出ない。ゆづりは名残惜しそうな顔をしつつ、遠ざかる姉の背中を見つめるだけ。そしてしばらくすると諦めたように、一人で帰路を辿り始めてしまった。
「………」
意味が分からない。
何故、この体はゆづりの意思に添った動きをしない。ゆづりは姉と別れることをこんなにも拒んでいたのに、どうして何一つ行動に出ない。
「………」
あえなく変わっていく周囲の風景。それを呆然自失で眺めていた最中、ゆづりはもしかしてと一つのことに気づいた。
この世界は、今のゆづりの意思で動いていない、過去のゆづりの意思や選択のみが反映されているのではないか、と。
振り返ればそうだ。 この世界に来てたら、ゆづりは自分の言葉を吐いていない。
死んだはずの姉が目の前にいた時は、あっと小さく狼狽えただけだった。自分の顔が幼くなっていた時も悲鳴一つ上げず、びしょ濡れになった顔を見つめていただけだ。
姉から顔を洗ってこいと言われたのも、ゆづりが過去に戻って呆然としていたからではなく、過去のゆづりが朝早く起こされて意識が朦朧としていたからなのだろう。
マズい。これは良くない。いや、最悪だ。
今の世界には、ゆづりの意志が一切反映されていない。
それはつまり、これからゆづりは姉を助けるための行動を起こそうと思っても、一切起こせないことを意味する。
ゆづりが姉を助けるためあらゆる手を尽くそうと、策を立てようと、父を殺す用意をしようとしても無駄だと。
過去のゆづりは、これからのんびりと家に帰って飯を食べて風呂に入って布団に寝っ転がって姉の帰りを待って寂しく思って不安になって家を飛び出す。それしかしない。
姉を助けるための手を、過去のゆづりは打たない。
「…………」
絶望した。全身を縛り上げるような悲壮と落胆が、ゆづりの手足をギシリと握りつぶしているような感覚がした。
が、それでもゆづりの歩みは変わらない。過去のゆづりは淡々と通学路を進み、何食わぬ顔で自宅へ帰っていた。そして、適当に夕食と入浴を済ませて布団に入る。
「……まだかな…」
ゆづりは帰らぬ姉を心配しながら、悠長に寝転ぶ。しかし、ゆづりは心中怒鳴っていた。早く起き上がれ、こんな時に寝てるな、姉を助けに行けと。
ただ、この世界はゆづりのものだ。これから何が起こるか知らない無知で馬鹿なゆづりが主人公。だから、ゆづりは動かない。動いてくれない。
「…どうしよ…」
全く動きを見せないゆづりに、ゆづりがイライラすること数時間。
ようやく痺れを切らしたらしい。ゆづりがノソノソと動き出す。姉を探すために、家の近所を回って通学路を辿って、学校、公園、自宅と、前回と同じ順番で歩く。そして、最後に吸い込まれるように森へと入っていく。
ぬかるんだ地面。遠くから聞こえてくる人と人が揉めている声。奥へ進んだ先にたずさむ姉。
同じだ。前回の時空と全く同じだ。姉が父に襲われ命を落とした、あの時空と完全に一致している。
「ゆづり、お前……」
姉はノロノロと何かに怯えるような顔と仕草でこちらに寄ってくる。しかし、ゆづりは動かない。この後、何が起こるか知っているのに、ゆづりの体は固まるばかりだった。
だから、音がした。
父の聞くに耐えない罵声と、レンガが姉の頭蓋骨を砕く音が暗い森を揺らした。
そして、いつの間にか、ゆづりの目前には血で汚れたレンガがあった。こちらの頭をも割ろうと、レンガが振り上げられていた。
しかし、ゆづりが傷つくことはない。ゆづりを殺そうとする父の背後で、ユラリユラリと姉が動いていたから。
「悪いな、ゆづり」
「……え」
「生きろ。幸せにな」
こちらに寄ってきた姉の黒瞳が、静かにゆづりを映す。そして、彼女はフッと儚く微笑んだ。父の腰にしがみつき、崖の下へと身を投げたまま、最期まで。
「……あ……」
終わった。何も出来なかった。姉の身に何が起こるか知っていたのに、ゆづりは手も足も出なかった。そのまま、文字通りに、指一本動かすことが出来なかった。
「…………」
ドンと重いものが落ちてひしゃげた音が、雨音に紛れて聞こえてくる。同時、硬直したままのゆづりを途方もない喪失感が襲った。
この世界は姉の死をトリガーに、彼女が生きている時空まで巻き戻る。しかし、ゆづりは好きに動き回れない。言葉一つ発せない。ひたすらに傍観者として生きることしか許されていない。
こんな世界じゃ姉を助けるなんてこと、不可能じゃないか。
ゆづりが果てしない絶望に打ちひしがれると同時、時は再び巻き戻った。




