第9話 たぶん、来る。
十一月も半ばを過ぎて、期末試験まであと一週間になっていた。学期ごとの試験は初等部の頃からあった。当時はそれほど難しくなかった。しかし、中等部に上がってから一気にレベルが上がった。それに、外部から入ってきた生徒たちは、やたらと頭がいい。最初の試験が返ってきたとき、三人の中でも、特に朔は嫌というほど思い知らされていた。
終礼が終わるなり、千夏は隣の席の朔に声をかけた。
「図書室で勉強するよ」
朔は、家でやるから、と露骨に嫌な顔をする。
「昨日もそう言ってなかった?」
「昨日はした」
「何を」
「……いろいろ」
「具体性ゼロ」
だって昨日ずっとテレビ見てたもんね、と望が口を挟む。千夏は何も言わずに朔の顔を見る。
「そういえば、昨日、お母さんに脅されてたよね、朔」
望がさらに追い討ちをかける。
「中等部からはちゃんと勉強しなさい、お母さんの学年にも高等部に上がれなかった人がいたんだから、って。毎晩言われてんじゃん」
千夏はまだ黙って朔を見続ける。分かったよ、と観念したように朔が言った。
* * *
「朔、それ何」
図書室の机で、望が小声で言った。指さしているのは、朔が開いている理科のノートだ。千夏も思わず横から覗き込んで、しばらく黙った。
「……じゃがいも?」
肺だよ、と朔が言う。でもこことか芽が生えてる感じ、と望が言うと、朔はもう一度、肺だよ、と言う。
「じゃあ百歩譲ってこれが肺だとして、それは何」
望が指差していたのは、謎の丸い物体だった。
「心臓」
「……これが?」
千夏が思わず口元を押さえた。笑うなよ、笑ってない、笑ってるじゃん、と言い合っているところへ、少し離れたカウンターから声が飛んできた。
「そこの中等部、喋るなら小声!」
三人とも黙った。数秒して望が「……やっぱり、じゃがいもにしか見えない」とささやき、朔が言い返しかけたところでカウンターからの視線が刺さって、今度こそ三人とも口を閉じた。鉛筆の音と、ページをめくる音だけが残った。
しばらくして、千夏は社会の問題集を朔の方へ押した。
「朔、これどう書く?」
室町幕府の力が次第に弱まっていった理由を守護大名との関係に触れて説明しろ、という問題だった。それまで理科の問題を解いて暗くなっていた朔の顔が急に明るくなった。
「千夏はどう書くつもり?」
「幕府が守護に頼りすぎたから、的な?」
「それだけだと駄目だろ」
朔は問題集を引き寄せた。
「そもそも鎌倉の守護と室町の守護って、同じ名前だけど全然違うだろ。南北朝の頃に、幕府が守護の権限をどんどん広げてったじゃん。半済令とかで荘園にも入り込むようになったし、刈田狼藉の取り締まりとか、使節遵行とかも」
「待って。今何て言った?」
「使節遵行。幕府が出した判決を、守護が現地で実行するやつ。授業でやってたじゃん。図師先生の雑談で出てたじゃん」
「……あのボソボソ喋ってるの、覚えてるの?」
「面白いでしょ」
望が横から問題を覗き込んだ。
「朔はなんか難しいこと言ってるけど、要するに応仁の乱で幕府が弱くなったって話じゃないの?」
言ってから、望はしまったという顔をした。朔が堰を切ったように喋り始めたからだ。
「それも間違いじゃないけど、応仁の乱で突然弱くなったわけじゃないだろ。将軍家も揉めてたし、守護同士も揉めてたし、その前から幕府が全部まとめきれなくなってた。それまで壊れかけてたのが、一気に表に出たんだよ。原因でもあるけど、結果でもある」
「……面倒くさい」
望が露骨に顔をしかめても、朔は止まらない。
「だから、原因って一つじゃないんだって。前からいろんなものが積み重なってて、何かのきっかけで一気に表に出るわけじゃん。しかも――」
「……分かった、分かったから。それにしても、中等部になってから急に歴史にハマったよね。朔のくせに生意気」
悪口の部分だけきれいに聞き流して、まだ何か説明しようとする朔を見ながら、千夏はさっきの言葉を思い返していた。
前からいろんなものが積み重なってて、何かのきっかけで――。
なんとなく、その言い方が気に入った。
千夏は問題集に目を戻して、朔に聞いた。
「……で、結局答案にはどう書くの? 今の全部は書けないでしょ」
朔は問題文をもう一度読んで、少し考えてから答えた。
「『南北朝の動乱を通じて守護の軍事・警察権が拡大し、荘園支配にも介入して各地の武士を従える守護大名へ成長したため、幕府が彼らを十分に統制できなくなった』って感じ?」
千夏は解答のページを見て、目を見張った。
「何で社会だけ、こんななの」
「だけって言うなよ」
望が、机の端に置かれた理科のノートをもう一度開いた。
「……肺はじゃがいもなのに」
「まだ言うか」
思ったより声が大きくなって、三人そろってカウンターの方を見た。まだ、何も言われていない。三人とも、黙って問題集に戻った。
* * *
六時前、閉室を知らせる放送が流れた。鞄に教科書を詰めながら、千夏は二人に聞いた。
「明日はどうする? 来週試験だよ。私は明日も来る」
「じゃあ私も」
二人で朔を見る。
「……家でやる」
「ほんとに?」
「……その聞き方やめろよ。信用されてないみたいだろ」
「されるようなことした?」
「今日来た」
「連れてきたんだけど」
望が吹き出した。朔はしばらく黙ってから、たぶん家、と言った。
「朔のたぶんは、だいたい来るよね」
望が言った。何その統計、と朔が顔をしかめる。
「十三年分」
「生まれたときから数えるなよ」
「じゃあ、七年分」
今度は千夏が言った。何で六年減ったんだよ、と朔が聞く。
「私たちが知り合ってから」
それには、朔も何も言い返さなかった。
* * *
外へ出ると、十一月の風が思っていたより冷たかった。校門を出たところで、千夏は二人を振り返った。
「コンビニ寄らない?」
「行く。温かいの飲みたい」
望が即答した。二人で朔を見る。
「……行くよ。何で毎回、俺だけ最後なんだよ」
「返事遅いから」
コンビニの入口近くには、もうクリスマスの商品が並んでいた。赤と緑の箱、小さな菓子の詰め合わせ、予約受付中のケーキの写真。まだ十一月だよ、店は早いよね、と言い合う二人の横で、千夏は棚の端にある小さな菓子箱に目を留めた。
「朔。これ、覚えてる? 初等部のとき、三人で買ったじゃん。四年生くらい」
五年じゃなかった、と望が言う。
「たぶん四年。中に入ってたシール、望が欲しいって騒いでて、朔が当てたの。それで交換してもらった」
ああ、そうだった、と望は思い出したような顔をしたが、朔は箱を眺めて首を傾げた。
「全然覚えてない」
「ひど」
「お前が覚えすぎなんだよ」
「私は、望が騒いでたのを覚えてるだけ」
千夏は箱を棚に戻した。
「買わないの?」
「懐かしかっただけ」
望はミルクティーを、千夏は少し迷ってココアを取った。朔が手にしたのは缶のコーンスープだった。
「また、それ」
「悪い?」
「誰も悪いって言ってない」
店を出るなり、朔は缶を開けて一口飲み、熱っ、と顔をしかめた。
「何で今開けたの」
「飲むから」
「だから言ったじゃん」
「言ってない」
「言おうと思った」
「それは言ってないのと同じだろ」
望が笑い、三人でいつもの道を歩いた。いつもの分かれ道が見えてきた。
「じゃあ私こっち。明日も図書室ね」
「決定なの?」
「嫌なら帰れば?」
「……行くよ」
「ほら」
朔が缶を傾けると、底で何かが小さく転がる音がした。
「コーン、残ってるよ」
「……一個くらいだろ」
「毎年同じことしてる」
「してない」
望が笑った。千夏も笑って、また明日、と手を振った。望が同じ言葉を返し、朔も少し遅れてそれに続いた。千夏は一人で別の道へ曲がった。明日、朔はたぶん来る。七年分の統計が、そう言っていた。




