第10話 校舎が変わるだけ。
二月も終わりに近づいたころだった。学校から帰って玄関を開けると、見慣れたローファーが一足あった。朔はそれを一度だけ見て靴を脱ぎ、ただいま、と言った。おかえりー、と居間から返ってくる。ダイニングテーブルに澪とひかりが並んで座り、何枚もの書類を広げていた。
「何してんの」
「高等部の資料。制服とか、入学までの予定とか、提出物とか色々」
澪が答えた。もうそんな時期か、と朔は冷蔵庫から麦茶を出しながら、何の気なしに聞いた。
「澪姉もひかりちゃんも、そのまま高等部でしょ?」
ひかりは書類に目を落としたままだった。そして、上がれないかも、と口にした。朔はすぐに聞き返した。
「上がれないって、何。内進できないってこと?」
「そういう人もいるよ。うちのお母さんも小山田だから、お母さんの学年にもいたって。去年も一人いたらしいし」
「朔もよく、お母さんにその話されてんじゃん」
澪が口を挟む。ひかりは書類に目を落としたまま、続ける。
「だから、私も上がれなかったりして」
「ひかりちゃん、成績悪いの?」
「いきなり失礼だなあ」
「じゃあ、出席? でも休んでないよね。それなら提出物?」
「出してるよ」
「じゃあ何なんだよ」
ひかりは答えなかった。朔はしばらく待ってから、ほんとに、と聞いた。そんなに気になるの、と返されて、だって、と言いかけたところで言葉が止まった。ひかりは首をかしげて、それから、何でもないことのように言った。
「まあ、駄目だったらフランスかな。向こうなら前にいた学校もあるし」
朔は目を見開いた。
「……戻るの?」
「そうなるかも」
「いつ」
今度は、ひかりが少し黙った。
「四月?」
「四月って、もうすぐじゃん。結も? 由佳さんと俊明さんは?」
「こっちじゃない? 私だけかも」
朔は黙った。ひかりは一度朔の顔を見てから、向こうにも友達いるし、六年いたから学校のことも分かるし、と続けた。朔は黙っていた。
「高校卒業したら、帰ってくるの?」
朔がようやく口を開いた。
「……さあ。そこまでは分かんないけど」
「大学も、向こう行ったりするの?」
「そういうことも、あるかもしれないけど……」
「……またフランスに?」
声が、どんどん小さくなっていく。ひかりの口元から笑いが消え、澪の表情も変わる。
「……また、そんな長くいなくなるの」
ひかりが何か言いかける前に、朔は先に続けた。
「夏とかは、帰ってくるの?」
「朔くん」
「向こうの学校って、休みいつだっけ」
「待って、朔くん」
「何」
ひかりは姿勢を正した。
「……朔くん、ごめん。今の話、嘘」
しばらく、誰も喋らなかった。
「……は?」
「内進、大丈夫だよ。もう決まってる」
朔は気の抜けた顔でひかりを見た。バツが悪そうに、澪が口を挟む。
「そりゃそうでしょ。二月になって内進できませんって言われても、外部受験に切り替えられないし。私たち、秋にはもう内部進学できるって言われてるから」
声が、なかなか出てこなかった。
「……じゃあ、上がれるの?」
「上がる」
「フランスは?」
「行かない」
「……本当に?」
「本当」
朔は数秒ひかりを見ていて、それから力が抜けたように椅子へ座り込んだ。
「……何だよそれ。何でそんな嘘つくんだよ」
「志保さんに脅されてるって聞いたから、ちょっと言ってみたらどうなるかなって、澪が……」
朔は額を押さえて、黙り込んだ。そして、ひかりの顔を見ながら、泣きそうな声で言った。
「……そういう嘘、やめて」
ひかりは一度、瞬きをしてから、ごめん、と小さな声で言う。本当にやめて、と朔は重ねた。朔、悪かったって、謝るからさ、と澪も頭を下げた。しかし、朔は澪の方は見ようとしなかった。
しばらくして、ひかりが無理に明るくした声で言った。
「でも、制服と校舎が変わるのは本当だよ?」
朔はすぐには返事をしなかった。
「……間違った方にある校舎でしょ」
「朔くん!」
「……今日は、それぐらい言わせてよ」
ひかりは朔を見て、黙って頷いた。その顔を見ながら、朔はもう一度、つぶやいた。
「本当に、制服と校舎が変わるだけ?」
「うん」
うつむいていた朔は顔を上げた。
「……ならいい」
* * *
夕方、ひかりが玄関でローファーを履いた。澪はリビングに残っていて、朔だけが何となく玄関まで出てきていた。
「明日も来る?」
聞いてから、少し間が空いた。
「学校には行くよ」
朔が黙っていると、ひかりは笑って答えた。
「明日は用事があるから、来るなら明後日かな」
「……分かった」
ひかりはドアを開け、一歩出てから振り返った。
「朔くん」
「何」
少し考えて、ひかりは言った。
「……なんでもない」
ドアが閉まった。朔は鍵をかけた。玄関には、自分たちの家族の靴だけが残っている。さっきまでローファーがあった場所を一度だけ見てから、朔はリビングへ戻った。
* * *
金井家の門を出て角を曲がるまで、ひかりは振り返らなかった。
二月の夕方は暗くなるのが早い。街灯の下を歩きながら、さっき言いかけてやめた言葉を、頭の中で最後まで言ってみる。
――フランスの話、ちょっとは考えたんだよ?
内進が決まったのは秋だった。書類が届いたとき、ほっとしたのは本当だ。それなのに、同じ週にルイーズから来たメッセージには、来年の秋、同じリセに行けたらよかったのに、と書いてあった。向こうの友達は、もうすぐコレージュを終えて、秋からはリセに上がる。もしフランスに残っていたら、自分も同じ書類を書いていたはずだった。そんなことを考えた夜が、何度かあった。
帰る、という言葉の意味がときどき分からなくなる。フランスにいたころからそうだった。日本に戻ってくれば分かるようになるものだと思っていたのに、今もまだ分からない。澪に、ちょっと朔をからかってみよう、と言われたとき、止めなかったのはそのせいだ。
冗談にしてしまえば、ずっと口にできなかったことを声に出せる気がした。駄目だったらフランスかな。言ってみたら、思っていたよりずっと軽く出てきた。軽く出てきたことに、自分で少し驚いた。でも、朔があんな顔をするとは思っていなかった。
嘘だと言ったあとで、ちょっとは考えたんだよ、なんて言えば、嘘が半分だけ本当になってしまう。だから言わなかった。言わなくてよかったのだと思う。それでも、飲み込んだ言葉は、喉のあたりにまだ残っている。ポケットの中でスマートフォンが震えた。澪からだった。
《ごめん、私のせい》
ひかりは少し考えてから返した。
《私も乗ったから》
送ってから、もう一度、「また、そんな長くいなくなるの」と言った時の朔の声を思い出した。
泣いてはいなかった。それでもあの声は、昔、自分がいなくなると聞いて泣いた子と、同じところから出ていた気がした。
家の明かりが見えてきた。




