第11話 一週間ぶり。
春休みのある日、望に呼ばれた千夏が金井家のリビングでノートを広げていると、外出していた澪が帰ってきた。
「澪先輩、おじゃましてます」
「いらっしゃい」
鞄を置いた澪の横を通って、部屋から出てきた朔が冷蔵庫を開けた。
「朔、麦茶ならさっき出てく前に――」
そう言いかけた澪を無視して、朔は空っぽになりかけの麦茶のポットを取り出す。千夏は朔を見て、次に澪を見た。澪は困ったように笑っている。
「朔、まだ澪先輩とまともに喋ってないの?」
「別に普通じゃん」
「そんなことないでしょ。昨日、望から聞いたよ。今週は『醤油取って』ぐらいしか喋ってないって」
朔の手が止まった。あいつ余計なことを、と呟きながら、わずかに残っていた麦茶をコップに注ぐ。
「まだ怒ってるんでしょ」
千夏がそう聞いても、返事はない。代わりに澪が言った。
「まあ、あれは私が悪かったから」
「それはそうです」
千夏がきっぱり言うと、澪が少し目を丸くした。
「そこ、即答なんだ」
「だって澪先輩が悪いです」
「千夏、別にいいって」
「よくないでしょ。朔、ああいうの本当に嫌いでしょ。いなくなるっていう嘘」
朔の眉が動いた。澪が千夏を見る。
「千夏ちゃん、何か知ってるの?」
「前にもあったから」
「千夏!」
千夏は、朔の声を気にしなかった。
「初等部二年のとき、私が転校するって、誰かが言いふらしたことがあったんです」
朔がコップに目を落とした。澪が何かを思い出したように、その横顔を見た。
「……知らない」
コップを見たまま、朔が言った。
「覚えてるでしょ。あのとき朔、私には何も聞かないで、先生のところに行ったじゃん。先生に違うって言われるまで、ずっと機嫌悪かった」
「……言うなよ」
「ほら、やっぱり覚えてる」
朔は何も返さなかった。千夏は澪に向き直った。
「だから、朔が怒るの、普通だと思います」
澪はしばらく黙っていた。うん、と小さく頷いてから、朔を見る。
「ほんとごめん。面白がっていいところじゃなかった。もうやらないから」
少し間が空いた。
「……絶対?」
「絶対」
そう答えた澪を見て、千夏がほっとして朔の方を向くと、目が合った。朔はすぐに澪の方へ目を移し、一言だけ言った。
「澪。麦茶、もうないからやっといて」
呼び捨てに澪が一瞬止まった。
「……分かった。私が作っとくから」
「うん」
* * *
二年生になって、朔は三組、望と千夏は隣の二組になっていた。
クラスが分かれたといっても、昼休みにはどちらかの教室へ行くし、帰る時間も大して変わらない。放課後は朔が二組の前まで行き、三人で昇降口へ向かう。
ある日、靴を履き替えているときに、千夏が言った。
「そういえば最近、ひかり先輩たち見ないね。高等部とは校舎も変わっちゃったし」
「澪姉、出る時間が早くなって、帰るのも遅くなってる。時間割が違うんだって」
望がそう言った時に、靴紐を結んでいた朔の手が、一瞬止まった。そういえばそうか、と望と千夏が話すのを聞きながら、朔は立ち上がった。
確かに、新学期が始まってから、ひかりを一度も見ていない。高等部の校舎はすぐそこにあるし、フランスにいるわけでもない。それでも、会っていなかった。
別の日の放課後、望と千夏が先に帰り、朔は一人で正門へ向かっていた。高等部の校舎から続く道と合流するところで、横から見覚えのある一人の生徒が出てきた。高等部の制服は、これまでに何度も見ている。けれど、それを着たひかりを見るのは初めてだった。ひかりちゃん、と声をかけると、久しぶりだね、と笑顔が返ってきた。
「一週間くらいじゃん」
「一週間も、でしょ。それに、これ着てから会うの初めてじゃない」
ひかりは自分の制服の襟をつまんでみせた。
「望ちゃん、千夏ちゃんとクラスが分かれたんだって?」
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「澪から聞いた」
「ひかりちゃんも、クラス違ったんでしょ。澪姉が言ってた」
「……仲直りできたんだ?」
少しバツが悪そうに、ひかりが朔の方を見る。少し顔を逸らしながら、うん、と言って先に歩きはじめる朔の後ろから、ひかりがついてくる。
「そういえば、朔くん、二年になって何か変わった?」
「教室が一階上になった」
「まあ、そうだよね」
「あと、結構先生が変わった。社会だけは去年と同じだけど」
「ボソボソ喋る人?」
朔はひかりを見た。
「ひかりちゃんも、図師先生に教わってるの?」
「ううん。澪からちょっと聞いた。ついでに、肺がじゃがいもって話も」
朔の足が止まった。
「……望が喋ったな」
「見せてよ、じゃがいも」
ひかりが朔の方を向きながら、いたずらそうな顔になる。
「絶対見せない」
「じゃあ理科はいいからまた今度、歴史のノート見せてよ」
「……そっちはいいけど」
「いいんだ」
「別に変じゃないから」
「肺は変なんだ」
朔は顔をそらした。
気がつけば、いつもの分かれ道に着いていた。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
「朔くん、また色々教えてね。二年になってからのこと」
「……聞けば?」
「聞くよ。だから教えて」
ひかりはそれだけ言うと、そのまま歩いていった。朔も歩き出し、数歩進んでから一度だけ振り返った。ひかりの後ろ姿が見えた。




