第12話 帰ってくるから。
七月も終わりに近づいたころだった。
森野家のリビングに、大きなスーツケースが開いていた。朔がその横を通っていつもの場所に腰を下ろすと、床に座っていたひかりが顔を上げた。
「気になるの?」
「見てないよ」
「見てたでしょ」
「スーツケースがでかいなと思っただけ」
ひかりは、やっぱり見ていた、と思ったけど、口には出さない。
「一か月だからね」
「一か月でそんなに要る?」
「要るでしょ」
明後日、ひかりはフランスへ行く。前の学校の友達の家に、夏休みのあいだ一か月泊めてもらうのだという。それを聞いたのは、七月の初めだった。
スーツケースの中は、畳んだ服や本や小さな箱で、もう隙間がないほど埋まっている。その中で、やけに綺麗に包装された紙袋が目に入った。向こうの友達へのお土産だという。ひかりは紙袋を取り出して眉を寄せた。
「ここだと潰れるな。ちょっと持って」
「何で」
「入れ直すから」
「自分でやれば」
「両手使ってるでしょ」
朔は仕方なさそうに紙袋を受け取って、思ったより軽かったのか、少しだけ持ち上げてみていた。ひかりが服を何枚か取り出しては詰め直すあいだ、朔は紙袋を持ったまま待った。
「まだ?」
「もうちょっと。そこの服、畳んで」
「やだよ」
「役に立たないなあ。見てるだけなら、何しに来たの?」
「姉ちゃんから、お前も来いって言われたから」
「それだけ?」
「それだけ」
ひかりは少し笑って、はい、貸して、と手を出した。返した紙袋は、スーツケースの端に綺麗に収まった。
ちょっと休憩、と立ち上がったひかりは、冷蔵庫からペットボトルを二本持って戻ってきて、一本を朔の前に置いた。自分の方はレモン味の炭酸だった。まだそれ飲んでんだ、と言われたから、好きだからいいでしょ、と返した。
渡されたペットボトルのキャップを開けた朔は、何口か飲んでから聞いた。
「何日に帰ってくるんだっけ」
「二十六日」
「八月?」
「他に何月があるの」
「七月?」
「今日、二十三日じゃん」
ひかりが笑い、朔も飲み物を口にした。それから少しのあいだ、二人とも何も言わなかった。窓の外で蝉が鳴いていた。
「向こうで何するの?」
「前の学校の友達たちと会う。三人とか四人とか。前に結が、お別れパーティーの写真見せてたでしょ? タブレットで」
「……クリームの?」
「その話はしてない」
ひかりがにらむと、朔は、ああ、と思い当たったような顔をした。
「それに、行きつけだったパン屋にも行く。boulangerに、また来いって言われてたから」
ひかりの口から、自然とフランス語が出た。朔が、そのブーなんとかって何、と聞くと、パン職人、と言う。
「まだ覚えてるんだ」
「覚えてるでしょ。六年いたんだよ」
「日本に戻ってきてから、あんまり使わないようにしてたんじゃないの?」
ひかりが一度、瞬いた。
「……もしかして、フランス語のこと?」
「何だと思ったんだよ」
「パン屋さんが、私のこと覚えてるかって話」
「……それは、ずっと通ってたら覚えてるんじゃないの?」
インターホンが鳴って、ひかりー、という聞き慣れた声がした。リビングに入ってくるなり、澪はスーツケースの紙袋を指さした。
「これ、プレゼント?」
「そう。カミーユとエマとルイーズ」
「ああ、エマは小さくて可愛い子だよね。カミーユが髪短い方だっけ」
「それはルイーズ。カミーユは一番背の高い男の子」
「……澪姉、よく区別できるね」
朔が少し感心した表情で澪を見る。
「だって、しゃべったことあるもん」
「フランス語で?」
「まさか。ひかりが通訳してくれた」
「そりゃそうだよね」
「あんた、今私のこと馬鹿にしたでしょ」
ひかりは笑いをこらえた。
結局、澪は荷造りを手伝いもせず、ずっとひかりとしゃべっていた。朔は途中から、何しに来たんだろう、という顔でソファにもたれていたが、帰るとは言わなかった。気づけば、窓の外が少し暗くなっていた。
夕方、澪は、おつかい忘れてた、と言って急いでスーパーへ向かっていった。後を追うように朔もペットボトルをゴミ箱に捨てて、玄関の方に向かう。靴を履こうとしている朔に、ひかりが声をかけた。
「何か言いたいことないの?」
「……何のこと」
「朔くん、この前はあんなにフランスのこと聞いてきたのに」
靴紐を結んでいた手が、一度止まった。
「あれは、ひかりちゃんが変なこと言ったからだろ」
ひかりは少しだけ肩をすくめた。
「それは、悪かったけど……」
朔は、もう気にしてないけど、と言って靴紐を結び直す。立ち上がった朔を、ひかりは黙ったまま見ていた。
「だって、すぐ帰ってくるじゃん」
ドアノブに手をかけながら、朔はそう言った。ひかりはまだ何も言わなかった。
「だから、夏休みが終わる前には帰ってくるじゃん」
念押しするように、朔が言った。
ドアの横には、ひかりのローファーが揃えて置いてある。
「帰ってくるから」
ひかりは呼びかけるように朔の背中に声をかけた。
「だから、別に……」
振り返った朔にひかりは笑いかけながら、行ってきます、とお辞儀をした。朔は、行ってらっしゃい、と言って、再び扉の方を向いた。
「着いたら連絡するから」
そう言ったひかりに、うん、とだけ答えて、朔は帰っていった。
澪と朔は、予定どおりスーパーで落ち合った。
「今日、ちゃんとひかりと話せた?」
「話したよ。行ってくるって言ってた」
「そっか」
* * *
二日後の夜、朔のスマートフォンが震えた。ひかりからだった。
《着いた》
その下に写真が一枚あった。知らない街だった。石造りの建物と細い道。空が、日本より少しだけ遠く見える。朔は写真を拡大して少し眺めてから、文字を打った。
《おつかれ》
すぐに既読がついた。
《それだけ?》
しばらく画面を見て、それからこう送った。
《日本語、忘れないでよ》
少しして、返事が来た。
《結と一緒にしないで(笑)》
朔はスマートフォンを伏せた。




