第13話 戦ってたらしい。
「……終わらない」
望が机に突っ伏した。
夏休みも折り返しを過ぎた八月中旬、三人は市立図書館に来ていた。
「課題の量、去年より明らかに増えてるよね」
向かいで数学の問題集を開いていた千夏も、ため息をつく。
「千夏、あと何ページ?」
「考えたくない」
「英語は?」
「聞かないで」
「……休憩しよっか」
望の提案で、二人は財布だけ持って自販機コーナーへ行った。戻ってくると、自由研究の資料を探すと言っていた朔が、分厚い本を机に何冊も積み上げていた。望が朔の分も買ってきたペットボトルを机に置いたが、朔は本から目を離さないまま、それを机の下へ置き直した。
「……何、その態度」
「資料読んでる」
「何冊あるの?」
「全部は読まない」
千夏は一番上の本を覗き込んだ。臙脂色の布張りの表紙に、『町田市史 上巻』と金文字が光っている。
「朔、本当に歴史好きになったよね」
「うん」
本から目を離さずに返事だけする。何を調べてるの、と聞くと、最初は鎌倉街道で書こうと思ってたんだけど、と朔は言いかけて、開いていたページをもう一度見た。
「井出の沢。古戦場。町田の」
「古戦場って、誰と誰が戦ったの?」
「北条時行と足利直義」
「……その人たちって誰?」
朔はようやく顔を上げた。鎌倉幕府が滅んだ二年後に、北条高時の息子の時行が信濃で兵を挙げて――。いつもより早口な説明の中に、いくつか聞き覚えのある名前が混じる。
「それってもしかして『逃げ上手の若君』?」
「何それ」
「漫画。何で知らないの?」
朔は不満そうな顔をして、また本へ目を落とした。
しばらくページをめくっていた手が、ふと止まって、独り言のようにつぶやく。
「……マジで」
「どうしたの」
「井出の沢、菅原神社の辺りにある」
「あの菅原神社? いつものお祭りの?」
「そう。帰り、行ってみようと思うけど、どうする?」
「朔が一人で行けばいいじゃん。暑いからパス」
「そっか」
朔はそれきり何も言わず、また本を読み始めた。しばらくして資料のコピーを取りに立ち、戻ってくるとそれを鞄にしまって、そのまま席を立った。
「ちょっと、ほんとに行く気なの?」
「いいじゃん、勝手に行かせたら。あの神社なら、そんなに遠くないし」
一応さっきの話を聞いていたらしい望は、消しゴムのかすを指先で集めながら言った。
「望、母さんにちょっと遅くなるって言っといて」
「自分で言えばいいじゃん。何のためのスマホなの」
「望の方が先に帰るじゃん」
「別にいいけどさ……」
鞄を肩にかけて、机の下のペットボトルを手に取った朔に、千夏は声をかけた。
「ちゃんと水分摂りなよ。それに望が買ってきたやつでしょ。お礼言った? お金も返しときなよ」
「はいはい。ありがとうございました。これでいい?」
「心がこもってないし、お金ももらってない」
望は呆れ顔で言った。朔は何も言い返さず、ペットボトルを鞄の脇に差し込み、じゃ、行ってくるから、と図書館を出ていった。物好きだね、と背中を見ながらつぶやいた望を見て、千夏もうなずく。
「元々歴史に興味あるのは知ってたけど、最近どんどん沼にはまってる感じするね」
「ていうかさ、さっきの千夏、お母さんみたいだった」
望が笑いながら言うと、千夏も何なのそれ、と少し遅れて笑った。
* * *
町田駅から十分ほどでバスを降りると、朱色の鳥居が見えた。お祭りの日には何度も来ている見慣れた景色だ。
境内に入ってしばらく行くと、石段がある。こんなだったっけ、と朔は思った。祭りの日は人ばかり見ているせいか、覚えていない。月末には、ここにまた屋台が並ぶのだろう。
バスから降りて数分も経っていなかったけれど、もう額に汗が浮いていた。途中で鞄からペットボトルを出し、半分ほど残っていた水を一口飲んで、また上る。石段の上は木が多く、蝉の声が頭の上から降ってくるように響いていた。
社殿の前まで来て周りを見回したが、古戦場らしいものは見当たらない。コピーの写真を確かめ、境内を歩き回る。社殿の左手の小さな社を過ぎたところで、ようやく目当てのものを見つけた。
大きな石に、「史蹟 井出の沢」と刻まれている。横の説明板を、最初から読んだ。図書館で読んだのと同じ内容が、目の前にも並んでいた。
「……ほんとじゃん」
誰に言うでもなく、声が出た。説明板を一枚撮り、石碑を撮り、少し離れて、石碑と周りが入るようにもう一枚撮る。画面の中にあるのは、木と、石と、夏の神社だけだった。七百年近く前、ここで合戦があった。
* * *
帰宅した朔は、机の上に図書館でコピーしてきた資料を広げながら、自由研究としてどうやってまとめるか、考えていた。勢いで井出の沢にすると決めたものの、具体的な中身はこれからだった。スマートフォンを手にして、今日撮った写真を確認していく。最後の一枚を、しばらく見ていた。
そのままメッセージアプリを開き、「HIKARI」という名前をタップした。フランス語の看板が写った写真と、その下のやりとりが目に入ってきた。
《やっぱりここのクロワッサンおいしい》
《よかったな》
会話は、そこで終わっていた。
《夏祭りの神社、実はすごいことが分かった》
そう打ち込み、写真と一緒に送る。しばらくして既読がつき、頭の上に「?」を三つ浮かべたキャラクターのスタンプが返ってきた。
《北条時行と足利直義が戦ってたらしい》
《誰》
《だから、北条時行と足利直義。中先代の乱。鎌倉幕府が滅んだ二年後に、北条時行が鎌倉を取り返そうとしたやつ》
《取り返したの?》
《一回》
《すごい》
《今の菅原神社の辺りで戦ってる。合戦の頃は、まだ神社なかったみたいだけど》
目を輝かせて拍手しているキャラクターのスタンプのあと、少し間があいた。
《そういえば、一人で行ったの?》
《うん、見たかったから》
《ほんとに歴史好きになったね》
朔の指が止まった。
《千夏にも今日それ言われた》
《そうなんだ》
《うん》
朔はスマートフォンを机に置いて、資料に戻った。
井出の沢について書かれた箇所をもう一度読むと、鎌倉時代、鎌倉から善光寺へ向かう道中の地名や景色を詠み込んだ『宴曲抄』に、干飯を戻すのにちょうどいい、きれいな湧き水のある場所として出てくる、と書いてあった。その先には「小山田の里」という言葉も出てくる。平安の終わりから鎌倉の初めにかけて、今の町田のあたりを本拠にしていた武士の一族が小山田氏だった、という解説もついていた。
「小山田!?」
何かすごい発見をした気がして、またスマートフォンを手に取った。
《小山田って鎌倉時代からあるらしい》
《小山田学園?》
予想もしない返事に吹き出して、思わず、いつものスタンプを送った。半目の生き物と、「そっちじゃない」。すぐに、頬をふくらませて腕を組んだキャラクターが返ってきた。
《朔くん、私のことバカにしてるでしょ(笑)》
《してない。学校じゃなくて地名。平安時代の終わりくらいから、この辺に小山田氏って武士の一族がいたらしい》
《もしかして、理事長一族のご先祖だったり?》
《今度調べてみる》
目を輝かせて拍手しているスタンプが、また返ってきた。
《何》
《すごいなと思って。朔くん、どんどん詳しくなってる》
朔は少し考えて、返した。
《面白いから》
《帰ったら続き聞かせて》
《たぶん、長くなる》
《いいよ。約束だからね》
朔は画面を一度閉じて、また開いた。
《じゃあ、覚えとく》
《忘れないでよ》
今度は、そのまま机の上に置いた。




