第14話 なんか変だった。
二学期最初の歴史の授業は、昼休み明けの、少し眠くなる時間だった。二年二組の教室に、いつものように足音も立てずに入ってきた図師先生の顔は、ほんの少し明るかった。
「…………夏休みの自由研究ですが」
例のごとく、ボソボソと喋り始める。もうすでに何人かが船を漕ぎ始めていた。
「…………いくつかよく調べてあるものがありました。…………特に、三組の金井」
あくびを噛み殺しかけていた千夏の口が止まった。ノートに日付を書いていた隣の望のペンも止まる。
「…………あれはまあ、なかなか面白かったですね。…………中先代の乱の、井出の沢の戦い。実は、ここ町田が舞台なんですよね。…………金井は文献を調べるだけではなく、ちゃんと現地に行っている」
望が千夏を見た。千夏も望を見た。ボソ師が朔のこと褒めてる、と望がにやつきながら小声で言い、静かに、と千夏も笑いを噛み殺しながら返した。図師先生は手元のレポートの束を見ながら続ける。だんだん声が大きくなり口調も速くなっていった。
「………そうそう、小山田氏にも触れていましたね。……平安末から鎌倉初期の武蔵武士を考える上では、それなりに興味深い一族です。…ちなみに、これは別件ですが、私の専門は中世東国史でして。特に秩父氏流をはじめとする武蔵武士がどう展開していったのか、というところに関心があります。鎌倉幕府成立後の在地武士と御家人制との関係も、まあ、色々と――」
そこまで話して、先生はようやく顔を上げた。しばらく教室を見渡して、黙り込む。
「…………失礼。これは今、諸君に話すことではないですね」
何事もなかったように、授業が始まった。望がまた千夏を見た。
「今のボソ師、ちょっと朔みたい」
千夏は思わず口元を押さえた。眠気は、もう完全に飛んでいた。
* * *
放課後、二人で三組へ行くと、朔はまだ席にいた。
「自由研究、ボソ師に褒められてたよ」
「知ってる。昼休み、社会科準備室に呼ばれたから」
「あんた、ボソ師とそんな仲なの!」
「図師先生、いい人じゃん。ちょっと何言ってるか分からない時もあるけど……」
「……ちょっとで済む?」
肩を震わせている望の横から千夏が言った。
「で、見せてよ。自由研究。結局どうなったか見てないし」
「いいよ。ホームルームで返されたから」
朔は鞄を開けてクリアファイルを取り出しかけ、あ、と言って手を止めた。
「ひかりちゃんにも、帰ってきたら話すって約束だった。まだ話せてない」
千夏は一度、瞬きをした。
「……そうなの?」
「うん」
「じゃあ、うちに呼んで一緒にやれば? 朔の自由研究発表会」
望が投げやりな感じで言った。
「発表会って、何か大げさ」
朔の顔が少し赤くなる。
「じゃあ、朔先生の講義だ」
千夏がおどけて乗っかると、朔は、望も千夏も話を大きくし過ぎ、と言って、でも少しはにかんだ。
* * *
数日後、金井家のリビングのテーブルに、朔の自由研究が広げられた。
朔が地図を指し、向かいからひかりが覗き込んでいる。その隣に千夏が座り、望は少し離れたところでジュースを飲みながら聞いていた。
「最初は鎌倉街道を調べようと思ってて町田市史を見てたら、井出の沢が出てきた」
「そこまでは知ってるよ。あの日、図書館で一緒だったじゃん」
望がストローをくわえながら言った。
「そうだった」
「まさかあんた、そっから忘れてたの?」
朔は無視して、次のページをめくった。菅原神社で撮った石碑の写真が貼ってある。今年の祭りは、雨で流れた。ここで北条時行と足利直義が――と朔が言いかけると、ひかりが口を挟んだ。
「その二人は覚えた」
「ほんとに?」
「朔くん、私のこと馬鹿にしてる?」
「してないよ」
「してる顔だし」
その声も聞こえていないかのように資料へ戻った朔が、井出の沢を調べてたら『宴曲抄』に小山田の里って出てきて、と続けたところで、ひかりがまた声を出した。
「結局、理事長のご先祖だったの?」
「それ、結局分かんなかった。図師先生は、『…………小山田氏は北条氏との争いで没落したんですよね。…………その後、甲斐に流れていったという話もあるにはありますが。…………理事長一族との関係については、史料的には断言しかねます』なんて言ってたけど」
突然の口真似に、望がジュースを吹き出しかけた。そこまで真似しなくていい、と叫ぶ望の横で、ひかりも声を上げて笑った。二人が笑っている間、千夏は資料に目を落とし続けていた。
「それで、小山田氏というのは、平安時代の終わりくらいから、この辺を本拠にしてた武士の一族で――」
朔の話す速度が少し上がった。ひかりは頬杖をついて、それを聞いていた。その横顔を見ながら、千夏は、夏の間ずっと二人は画面越しにこういう話をしていたのだろうか、と思った。
* * *
「発表会」から数日後の放課後、千夏は廊下ですれ違った担任に呼び止められた。
「成瀬さん、文化祭の展示計画書、今日までだけど、大丈夫?」
一瞬、何を言われたのか分からなかったが、慌てて鞄からファイルを出して提出日を見る。確かに、今日だった。すみません、明日だと思ってました、と頭を下げる。
下校時間までなら今日だからよろしくね、とだけ言って担任は去っていった。
図書室で書類の空白を埋めながら、まだ間に合う、と何度か思った。計画書を職員室へ出せたのは、下校時間ぎりぎりだった。昇降口まで来たところで、後ろから声がした。
「千夏」
朔だった。なんでこんな時間までいるの、と聞くと、朔は少し目を伏せて、ゆっくり言った。
「『…………金井くん、少し話しませんか』って」
望は先に帰ったという。二人で靴を履き替え、校門を出た。
「で、ボソ師は何の話だったの?」
「井出の沢の続き。図師先生が勝手に喋ってた」
「楽しそうじゃん」
「先生が?」
「二人とも」
朔はしばらく黙ってから、また口真似をした。
「…………そうですかね」
「しつこい。何回もやってたら、本当にあんな風にしか喋れなくなるよ」
「…………それは困りますね」
たまらず吹き出すと、さっきまでの計画書の一件が、少し遠くなった気がした。
二人で笑いながら、いつもの道を歩いた。いつもの角を、千夏はそのまま通り過ぎていた。
「千夏」
「何?」
「そっちじゃない」
足が止まった。……あ、と声が出て、数歩戻る。考え事してた、と言うと、朔はふうん、とだけ言って、それ以上は何も聞かなかった。
「じゃ、また明日」
* * *
家に帰って、ポケットが軽いことに気づいた。鞄の中を探っても、スマホが見つからない。書類を作りながら図書室で調べ物をしていて、最後に机の上を確かめた記憶がない。
「……今日の私、ダメだなあ」
何もやる気が起きず、いつもよりずいぶん早くベッドに入った。
翌朝、いつもより早く登校して図書室へ向かった。鍵がかかっていたので、近くにいた見覚えのない先生に事情を話して開けてもらう。昨日の机の上に、スマホはあった。通知が三件あった。望から一件。日付が変わる少し前だった。
《今日、朔がボソ師の真似ばっかりしてる。ウザい》
その下に朔から二件。一件は、昨日別れた直後だった。
《明日の英語ってどこまで?》
もう一件は、その二時間後。
《寝た?》
千夏は少し画面を見つめた。望と朔にそれぞれ《スマホ学校に忘れてた》と送る。朔の方はすぐに既読がつき、ほぼ同時に返事が来た。
《やっぱり》
「……やっぱり?」
思わず声に出た。
《何がやっぱりなの》
またすぐに既読がついたが、今度は返事までに少し間があった。
《昨日なんか変だったから》
そのまま画面を見ていると、予鈴が聞こえた。慌てて教室へ向かい、息を切らせて席に着くと、望が話しかけてきた。
「スマホ、無くなってなくて、よかったじゃん」
「うん、図書室に置きっぱなしにしてた」
「朔にも教えた? 昨日、『…………返事が来ません』とかしつこかったんだよ」
「……何で朔が望に聞くのよ」
「知らないよ。私も、知らないって言ったけど」
そこまで話していたら、先生が入ってきた。望は慌てて教科書を出した。千夏も鞄を開ける。
――昨日なんか変だったから。
朝、スマホの画面で見た文字が、もう一度頭に浮かんだ。結局返信はしなかった。
* * *
放課後、三組の前まで行くと、ちょうど朔が教室から出てきた。一緒に帰る、と聞くと、うん、と返ってきた。階段を下りる間、どちらも何も言わなかった。
「ねえ。朝の、昨日私が変だったってやつ。何が変だったの?」
昇降口で、千夏は言った。
「何がって言われると、分かんないけど」
「分かんないのに変って言ったの?」
「でも、変だった」
また黙り込んだまま、二人で歩き出した。しばらくして、朔が口を開いた。
「だって昨日の千夏、道、間違えたし。メッセージも返ってこなかった」
「道ぐらい私だってたまには間違えるし、スマホを忘れてたんだから、返事できなくて当たり前でしょ」
「だから、それが珍しいじゃん。千夏、忘れ物しないし」
「……小六のとき、社会のノート学校に置いてきたけど」
朔が一瞬、黙った。
「あの一回ぐらいでしょ。珍しいじゃん。だから、何かやらかしたのかなって思った」
「やらかしたって、失礼じゃない?」
朔がバツの悪そうな顔をすると、千夏は少し笑った。それを見て、朔がもう一度聞いた。
「で、何があったの?」
「別に」
「でも、昨日変だったでしょ」
――まだ同じことを言ってくる。
千夏は前を向いたまま、返事に迷った。朔はそれ以上、何も言ってこなかった。足を止めて、息を吸い込む。朔もそれに合わせて立ち止まった。
「……文化祭の展示計画書。提出日、一日勘違いしてた。下校時間ぎりぎりで、何とか出せたけど」
「だから、あの時間までいたんだ。間に合ったなら、よかったじゃん」
「そういう問題じゃないの!」
朔が驚いた顔をした。
「みんな、私なら大丈夫って言ってたし! ちゃんとやらなきゃって思ってたのに! 日にち間違えて、しかもスマホまで忘れて!」
言ってから、ごめん、大声出した、と付け足した。朔はしばらく黙ってから小さく頷き、歩き始めた。千夏も歩いた。
「それで、昨日あんなだったんだ」
「あんなって何」
「だから変だった」
「その『変』がさっきから分かんないんだけど」
少し先に、昨日間違えた角が見えてきた。今日はちゃんと曲がった。
ほら、今日は間違えなかった、と朔が言い、うるさい、と千夏は返した。朔が笑った。それから、何でもないことのように言った。
「確かに千夏って、そういうの気にするよね。ちゃんとできなかった、とか」
千夏は目を逸らした。朔は前を向いたまま歩いている。
「……何でそんなこと言えるの?」
「だって千夏、昔からそうじゃん。初等部の時も、係の仕事一個忘れただけで、一日中落ち込んでたし」
「……いつの話?」
「三年か四年」
「そんなの覚えてるの?」
「覚えてるっていうか」
朔は首を傾げた。
「千夏って、そういうやつじゃん」
しばらく、何も言えなかった。何それ、と言うのがやっとだった。違う? と聞かれて、違わないけど、と答える。歩きながら、小さく笑った。
「別に、いいんじゃない。ちゃんと出せたんでしょ。じゃあ、次間違えなきゃいいじゃん。一回間違えたからって、千夏がちゃんとしてないことにはならないでしょ」
足が止まりそうになった。けれど、朔は気づかずにそのまま歩いていく。歩くの速いよ、と言うと、千夏が遅いんじゃん、と返ってきた。
少し早足で追いついてから、もう一度聞く。
「ねえ。私、昨日そんなに変だった?」
「うん」
「そんな即答する? 他の人にも分かったかな」
「知らない。俺は分かったけど」
また、何でもないことのように言う。千夏は返事をしなかった。千夏? と呼ばれて、何でもない、と答える。また変、と言われて、うるさい、と返し、今度は自分から少し歩く速度を上げた。
* * *
その夜、ベッドに入ってから、千夏はスマホを開いた。朝のやりとりがまだ残っている。
《昨日なんか変だったから》
その上には、《寝た?》の三文字。
しばらく画面を見つめた。初等部の三年か四年。
「……何なの、ほんと」
呟いてスマホを伏せ、少しして、また手に取った。今度は望とのトークを開く。
《今日、朔がボソ師の真似ばっかりしてる。ウザい》
千夏は少し考えてから、スタンプを一つ送った。
笑い転げているキャラクターだった。




