第5話 一足増えた靴。
四月も終わりに近づいたころだった。学校から帰って玄関で靴を脱ごうとした朔は、思わず足を止めた。見覚えのあるローファーがある。澪のものでも、望のものでもない。最近、何度か見ているローファーだ。
「おかえりー」
居間の方から声がした。
「……なんでひかりちゃんが言うんだよ」
「いたから」
テーブルいっぱいに教科書とノートを広げて、ひかりと澪が向かい合っていた。ここ俺んちなんだけど、と言うと、ひかりは顔も上げずに、知ってるよ、と答える。最近、ひかりの方が朔より先に帰ってくること多いもんね、と澪が笑った。
「帰ってきてないから。来てるだけだから」
「同じじゃん」
何が違うのか自分でもうまく言えず、朔は鞄を持ったまま部屋へ引き上げた。
着替えて戻ってきても、二人は同じ場所にいた。冷蔵庫から麦茶を出しながら、何してんの、と聞くと、ひかりが鉛筆を置いた。
「こっちの授業でやったところ、抜けてるから。日本史はフランスじゃやってないし。だから今、澪先生に教えてもらってる」
「先生は休憩中です」
スマートフォンから目を離さずに澪が言った。諦めたのか、ひかりは一人で資料集をめくり始める。そして、あるページで手を止めた。
「……ねえ、これ誰だっけ」
澪はさあ、と空返事だった。朔が後ろから資料集を覗くと、ひかりが指さしているのは見覚えのある肖像画だった。源頼朝でしょ、と言うとひかりが振り向く。
「え。朔くん、知ってるの?」
「……なんでそんな意外そうなんだよ」
ふうん、と資料集に目を戻したひかりは、数秒後に次の語を指した。評定衆。それは記憶にない。これから習うんじゃない、と言うと、使えないなあ、と返ってきた。
「朔、初等部の時の社会のノート、まだある? あれ、今のひかりにちょうどいいんじゃない」
澪の一言に、ひかりは、私を小学生扱いするの、と口を尖らせる。澪は、実際小学生レベルじゃんと、あしらう。
「悪いけど探してきてよ」
朔は麦茶を一口飲んで、部屋へノートを取りに戻った。
* * *
『六年 社会 金井朔』と書いてあるノートはすぐに見つかった。最初のページを開いたひかりが、へえ、と声を漏らした。
「ちゃんと書いてる。もっと字、ぐちゃぐちゃかと思ってた」
「そんなこと言うなら、見せない」
伸ばした手から逃げるように、ひかりはノートを胸元へ引いた。
「まだ何も見てないじゃん」
言い合っているうちに、澪が横から覗き込んだ。線を引いたところ、黒板を写したところ、自分で付け足した短いメモ。ところどころの余白には、意味の分からない落書きもある。
「これ何? 犬?」
「……知らない」
「耳三つあるよ」
「じゃあ犬じゃない」
ひかりが声を上げて笑い、朔もつられて笑った。
玄関が開き、ただいまー、という望の声に「お邪魔します」と千夏の声が続き、二人はそのまま居間にやってきた。テーブルの上を見るなり、千夏が言った。
「これ、朔の初等部の頃のノートだよね。どうしたの」
「ひかりちゃんが貸してって言うから探してきた」
「貸してなんて言ってない! 澪が持ってこさせただけじゃない」
「でも、ひかりの社会は小学生レベルでしょ。ちょうどいいよ」
「澪!」
三人が言い合う中で、千夏が懐かしそうにノートを手に取って、ページをめくる。
「でも、森野先輩、朔の社会のノートってなかなか使えますよ」
「……そうなの?」
ひかりが千夏の方を見る。
「ええ。私も前に借りました。小六のテスト前だったかな」
「こいつ、自分のノートなくしたんだよ」
「なくしてない。学校に置いてきただけ」
「家で使えなかったら同じだろ」
「だから借りたんでしょ」
千夏は当然のような顔をしている。
「社会だけは、ちゃんとノート取るもんね」
「だけって何だよ」
「理科はやばいよ」
望が笑った。三人が言い合う横で、ひかりが楽しそうに笑っている。
「何」
「いや。楽しそうだなと思って」
「ひかりちゃんも笑ってるじゃん」
「だから楽しいんでしょ」
夕方、帰り支度をしながら、ひかりはノートを明日まで借りたいと言った。
「千夏ちゃんみたいに学校に置いてこないから」
「森野先輩まで!」
「事実じゃん」
「一回だけでしょ」
「一回でも事実」
「朔、しつこい」
望に、はいはいと間に入られて、その話はそこで終わった。
* * *
五月の連休が明けたころ、弁当の準備をしていた志保が、望と朔に声をかけた。
「今日、森野さんちで夕飯食べてきて。お父さんもお母さんも遅くなるから。由佳さんが、望と一緒に来ればって」
澪は部活で遅くなるから、一人で済ませるという。勝手に冷蔵庫開けないのよ、と念を押され、開けないよ、と朔が答えると、望がすかさず言った。
「ひかりちゃんは、うちでは開けてるけどね」
志保は一瞬黙ってから、真似しないでね、と笑顔で言った。
夕方、森野家の玄関で朔が「おじゃまします」と言って上がる。森野家は金井家とは違う匂いがした。当たり前なのに、何となく落ち着かない。昔は何度も来たはずだが、覚えているのは断片だけだった。
奥から顔を出したひかりが目を丸くした。
「なんか今日の朔くん、すごく丁寧」
「他人んちだから当たり前でしょ」
「この前、アルバム勝手に見たくせに」
「それ、うちのアルバムだろ」
「……あ、そうだった」
その横を、望が「おじゃましまーす」と軽く上がっていった。
居間で待っていると、テーブルで宿題をしていた結が、漢字の読みを姉に聞いた。
「さっきやったじゃん」
「忘れた」
「一回書いたでしょ」
「書いたけど忘れた」
ひかりはため息をついて最初の一文字だけ教えた。しばらくすると、今度は結が消しゴムを探し始めた。
「お姉ちゃん、gommeどこ?」
「結、日本語」
「……消しゴム」
「知らない。自分で置いたんでしょ」
「Mais――」
「日本語」
「分かってる!」
むくれる結と、それをあしらうひかりを、朔は眺めていた。澪の話だと、学校ではひかりがフランス語を口にするたびに周りが騒ぐらしい。ここでは誰も騒がない。仲のいい姉妹が、消しゴムを探しているだけだ。
「ひかりちゃん、ちゃんとお姉ちゃんなんだな」
「どういう意味?」
「昔、そんな感じしなかったから」
「そりゃ、私だってもう十四歳なんだからね」
そう言ってひかりは笑った。
宿題を終えた結は望とゲームを始めた。ソファでスマートフォンを見ていた朔の前に、結がタブレットを差し出す。
「朔くん、これ見る? お姉ちゃんの写真」
「結! 見せなくていい!」
離れたところから飛んできた声を気にせず、結は画面を朔に向けた。今よりずっと髪の短い女の子が写っていた。誰これ、と聞くと、お姉ちゃん、と結が言う。ひかりは立ち上がりかけて、観念したように座り直した。
写真の中のひかりは、たぶん十歳か十一歳くらいだった。知らない服、知らない場所、隣には見たことのない子たちが何人もいる。結が指を滑らせるたびに、冬服のひかり、夏服のひかり、誰かと笑っているひかり、賞状を持っているひかりが出てきた。
「……そりゃ、六年だもん」
独り言のように、ひかりが呟いた。
次の一枚は、頬いっぱいにクリームをつけたひかりだった。朔が吹き出す。消して、と叫ぶひかりに、私のだから消さない、ママからもらった、と結が言い、台所から由佳の笑い声が飛んできた。タブレットを抱えて逃げる結を、ひかりが追いかける。望が笑い出し、朔も笑った。
夕ご飯を食べ終わってしばらくして、志保が迎えに来た。帰りの車の後部座席で、望が朔に小声で聞いてきた。
「どうだった? ひかりちゃんち」
「結のフランス語混ざるやつが面白かった」
「ひかりちゃんも普通に返してたしね」
その時、朔のスマートフォンが震えた。ひかりからだった。
《結が見せた写真忘れて》
朔は少し笑って、あのスタンプを送った。分かれ道の前で半目になっている、得体の知れない生き物。「そっちじゃない」。すぐに既読がついた。
《何が言いたいのよ》
朔は笑って、スマートフォンをポケットに戻した。
* * *
五月も半ばになったある日、学校から帰った朔は玄関の扉を開けた。
「ただいま」
靴を脱ごうとして、ローファーが一足、目に入る。もう、誰のものか考える必要はなかった。
「おかえりー」
居間から、ひかりの声がする。
「ただいま」
今度は文句を言わずに、そのまま靴を脱いだ。




