第4話 六年ぶり。
「……変じゃない?」
久々の登校前夜、鏡の前でそう言うと、ベッドに寝転がっていた結が顔を上げた。
「何が?」
「制服」
「普通」
「その普通が分かんないんだけど」
「制服なんだから、制服でしょ」
役に立たないなあ、と言うと、聞いたのお姉ちゃんじゃん、と返された。それはそうだった。ひかりはもう一度、鏡の中の自分を見た。白いブラウスに紺のジャンパースカート、胸元には小山田学園中等部の校章が光る。初等部には二年生の冬まで通っていたし、校舎のつくりも、ところどころなら今でも覚えている。ただ、初等部と違う中等部の制服を着た自分だけが、どうにもまだ自分に見えなかった。
「まあ……jolieなんじゃない?」
「日本語使わないと上手くならないよ」
「分かってるもん。……だって、可愛いより、jolieなんだもん」
口を尖らせる妹に、ひかりは苦笑した。フランスでも家の中はずっと日本語だった。それでも結が二歳から毎日、外で聞き、喋り、遊んできた言葉はフランス語だ。日本語にできないわけではない。ただ、ときどき先に出てくる言葉が違う。
「いいじゃない。似合ってるわよ」
部屋の外から母の由佳が言った。ママはそう言うと思った、と返すと、じゃあ何て言えばいいのよ、こんな時間に面倒くさいわねえ、と笑いながら入ってきて、どこか嬉しそうにひかりの襟元を直す。自分も昔着ていた制服を娘が着ているのが、何となく面白いらしい。
「六年ぶりの小山田ね。懐かしい?」
ひかりは少し考えて、まだ分かんない、と答えた。母はそれ以上聞かなかった。
帰ってきた学校なのに、初めて着る制服。懐かしい、と言えばたぶん間違いではないけれど、少し違う気がする。自分の知っている小山田学園は、小学二年生までの小山田学園。明日から通う中等部の校舎には、ほとんど入ったことがない。
* * *
「ひかり!」
翌朝、待ち合わせ場所で、澪が手を振っていた。帰国してから何度も会っているのに、澪はひかりをつま先から頭のてっぺんまで、まじまじと眺める。
「変?」
「なんだかちょっと不思議な感じ。同じ制服なのにね。でも、似合ってる」
澪がふふっと、どこか眩しそうな顔で笑った。
「……ありがと」
そう照れるひかりの腕を澪が取って歩き出す。
「ほら、早く行こ? 遅刻しちゃう」
ぐいと引っ張られる感覚だけは、六年前と少しも変わっていなかった。
通学路の坂道は小山田学園の制服であふれていた。初等部、中等部、高等部、それに私服の大学生。六年前にもこの道を歩いたはずなのに、あのころは何もかもがもっと大きく見えた気がする。校門をくぐり、ひかりは何となく右へ向かった。
「ひかり。そっち初等部と高等部」
「……分かってた」
「絶対分かってなかった」
「澪がちゃんと覚えてるか確認しただけ」
「……無理あるよ」
澪が笑い、ひかりも笑った。少しだけ肩の力が抜けた。
昇降口の前に、クラス分けの掲示が出ていた。人だかりをかき分けて、三年二組の欄に金井澪の名前を見つけ、その少し下に、森野ひかりを見つける。
「……一緒じゃん」
「うん、同じクラスだね」
同じクラス――。ひかりが頭の中でその言葉を繰り返す。離れ離れだった六年間の澪のことも、知ってはいる。去年澪が髪を切ったことも、憧れていた上級生が海外へ行ってしまったことも、文化祭で失敗したことも、望と喧嘩して一週間口を利かなかったことも。でも、距離はあった。
「何ぼーっとしてるの?」
そう澪に言われ、ひかりは小さく頷いて歩き出した。もう、時差のある返信を待たなくていい。
* * *
澪と二人で教室に入ると、一人の女子生徒と目が合った。不思議そうな顔でこちらをじっと見ている。
「……もしかして、ひかりちゃん?」
その声を聞いて、思い出した。
「小松さん……でよかったよね?」
「やっぱり! 覚えててくれたんだ」
そのやり取りをきっかけに、森野さん、フランス行ってたよね、などと周りに人だかりができる。初等部上がりの元同級生たちだ。
「私のこと、分かる?」
その中の一人がひかりの顔を覗き込みながら聞く。
「……分かるよ」
「じゃあ名前言ってよ」
「……それは」
笑い声が上がった。
「ほら! 忘れてるじゃん。相原だよ」
名前まで出てくる子もいれば、顔だけ覚えている子もいて、向こうはこちらを覚えているのに、こちらにはまったく記憶のない子もいた。
ほんとに帰ってきたんだ、と相原から言われて、ただいま、と言ってみた。言ってから、少しくすぐったかった。おかえり、と小松が言うと、何人かがそれに続く。
チャイムが鳴り、担任が入ってきて教室が静かになった。
「今日からこのクラスに、森野ひかりさんが加わります。といっても、小山田学園には初等部二年生まで在籍していて、その後、お父様のお仕事の都合でフランスへ――」
一通りの説明の後、促されて、ひかりは立ち上がった。知っている顔、知っているはずなのに名前の出てこない顔、そして知らない顔。それでも、どこか懐かしい。
「森野ひかりです。初等部二年まで小山田にいて、そのあと六年間フランスにいました。この春に帰ってきました。久しぶりの人も、初めましての人も、よろしくお願いします」
気の利いたことは何も思いつかなかった。拍手の中で座ると、後ろから澪が小声で「無難だね」と言った。うるさい、と返したところを担任に見られて、二人とも黙った。
* * *
一時間目が終わると、予想どおり質問攻めになった。
「フランスのどこ?」
「パリの中心から少し離れたところ」
「フランス語喋れる?」
「まあ、一応」
「給食あるの?」
「学校によるかな。うちは食堂だった」
「パンばっか食べる?」
「日本人が毎日お寿司食べてるくらいの偏見だよ、それ」
笑いが起きた。嫌ではなかった。話すきっかけとしては、むしろ分かりやすい。ただ、次の休み時間にも同じことを聞かれ、昼休みにも聞かれた。なるべくフランス語はしゃべらないようにしていたが、放課後にも聞かれた「なんかフランス語、喋れるの」には、とうとう一言だけ返した。
「Ça fait combien de fois, là ?」
「……なんて意味?」
「もう何回目だろ、これ、って」
にやっと笑ってそう言うと、相手も笑った。
* * *
放課後、澪と校舎を出たところで、向こうから真新しい制服姿の三人組が歩いてくるのが見えた。望と朔と知らない女の子だった。ひかりを見つけて、望が駆け寄ってくる。
「ひかりちゃん、今日はどうだった?」
「疲れた。みんなフランスのこと聞くんだもん」
「だってフランス帰りじゃん」
「望ちゃんまでそれを言う?」
笑いながら、ひかりは遅れて歩いてきた二人に目をやった。朔と望の隣に立っている女の子。澪のメッセージに何度も出てきた名前が、自然に浮かんだ。
「……もしかして、あなたが成瀬千夏ちゃん?」
「え、何で分かったんですか」
その女の子は、少し目を丸くして答えた。
「澪がよく話してたから。望ちゃんたちと仲のいい女の子がいるって」
「成瀬千夏です。……私も話は聞いてます。澪先輩と望と朔から」
「ろくなこと聞いてなさそう」
「それは否定できないです」
「千夏!」
口をとがらせた望を見て、千夏が笑った。
不意に朔がひかりに近づいてきて、朝から迷ったでしょ、と小声で言ってきた。顔を赤くしながら、迷ってない、と言い返す。その声で、澪や望、千夏が振り向く。朔は構わず続けた。
「でも、初等部の方行こうとしてたじゃん。校門から見えたよ」
「……最悪。忘れて」
「なんで」
「恥ずかしいから」
ひかりちゃん昔から方向音痴だったよ、と望まで言い出して、みんなが笑った。ひかりも笑うしかなかった。さっきから朔は、一度もフランスの話をしてこない。それが、少し楽だった。
* * *
家に帰ったひかりがスマートフォンを取り出すと、早速クラスのグループから大量の通知が来ていた。知らない名前と知っている名前のあいだを、スタンプが洪水のように流れていく。それとは別に、澪から個別のメッセージが届いていた。
《朔と望の制服姿も新鮮だったでしょ?》
《同じ中等部なんだよね。あの二人も》
《変な感じ?》
《初等部のころ知らないけど、大きくなったなあって感じ?》
《なんかママみたい》
《十四歳です!》
少しして、また通知が鳴った。今度は朔だった。
分かれ道の前で、得体の知れない生き物が半目になっているスタンプ。片方の矢印に大きな×印がついていて、その下に「そっちじゃない」と書いてある。
「……うるさいなあ」
ひかりは笑って、スマートフォンを伏せた。
机の上には、明日使う教科書が並んでいる。新しい制服はまだ少し窮屈で、知らないクラスメートも、思い出せない名前も、今日初めて歩いた廊下もある。それでも、明日も同じ学校へ行く。




