第3話 久しぶり。
「朔、さっきから時計見すぎ」
望に言われて、朔は壁から目を逸らした。
「見てないけど」
「三分前にも見てた」
「……だから何だよ」
「別に」
望は何事もなかったようにテレビへ視線を戻した。その「別に」が何となく気に入らない。
日曜日の午後四時過ぎ。森野一家が日本へ帰ってきたのは昨日だった。もっとも、帰国したのは母親の由佳とひかり、結の三人で、父親の俊明は会社の手続きが残っていて、数日遅れるらしい。
三人を空港まで迎えに行く話もあったらしいが、深夜便ということもあり取りやめになった。それに家は片付いていないだろうから、と今日、金井家に招待していた。
「朔、今日静かだね」
今度は澪だった。いつもこんなもんだろ、と返すと、澪は笑った。その顔も気に入らない。朝からずっと、姉は明らかに機嫌がいい。
インターホンが鳴った。朔の背筋が、勝手に伸びた。
* * *
来た、と澪が立ち上がり、台所から志保が小走りで玄関へ向かう。望も立った。一人だけ座っているのも変な気がして、朔は少し遅れて後を追った。
母親同士の再会の第一声は、久しぶり、お帰りと拍子抜けするくらい普通だった。廊下へ出ると、澪が玄関へ駆けていくところだった。
「ひかり!」
「澪!」
二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に笑って抱き合った。
「ちょっと、ほんとにひかりがいる。本物だ。……でも、変わってないね」
「一応、もうすぐ十四歳ですけど」
「そうだ。もうすぐ同い年」
「そこ?」
「そこも。全部まとめてひかりだなって」
「わけが分かんないよ」
いつものメッセージの続きを、そのまま声にしたような会話だった。その横で、一回り小さな女の子が黙って二人を見ている。あれが結か、と朔は胸の中で呟いた。記憶の中の「リビングを歩き回っていた小さいもの」とは、さすがに別人だ。
玄関の騒ぎがひと息ついてから、朔は改めてひかりを見た。長く伸びた髪も、ずいぶん高くなった背も、澪に何度も見せられた写真のとおりだ。それに昔の面影も感じる。それなのに、写真の中のひかりとも、夢に出てくる小さいひかりとも、目の前の少女はうまく重ならなかった。
「……あ」
ひかりが朔の視線に気づいた。目が合い、お互いの動きがほんの少しだけ止まる。
「……朔くん?」
「……おかえり」
返事をした途端、ひかりが目を丸くした。
「声! ほんとに変わってる。もう一回喋って」
「なんでだよ」
「あ、やっぱり全然違う」
「大きくなったねえ」
「……そっちも」
ひかりが笑った。その笑い方は、知っているひかりのままだった。それでも、すぐには名前を呼べなかった。
「でも、ほんとに朔くんなんだ」
「そうだけど……。そっちは昔と何か違う」
「何が?」
「知らない」
「この人が朔くん?」
確かめるような口調で、結がひかりに聞いた。この人って何だよ、と朔が言うと、お姉ちゃんのスマホで見た写真の人、と結は首を傾げる。見せてたんだ、と澪がにやにやすると、送ってきたの澪でしょ、とひかりが言い返した。
少し離れたところで、志保と由佳が顔を見合わせて笑っていた。
* * *
夕食はいつもよりずっと賑やかだった。父の孝之も加わり、志保と由佳は六年分の話をしている。といっても六年間ずっと連絡を取っていたらしく、あのときのアパートは結局どうしたの、俊明が引っ越しを面倒がって、などとずっと会っていたかのように盛り上がっている。澪とひかりも似たようなもので、互いの髪型の変遷を話題にしていた。望もそこに遠慮なく入っていった。
「ひかりちゃん、フランス語で喋ってよ」
「急に言われても無理」
「じゃあ結ちゃん、お願い」
「Genre, y a que des gens que je connais pas」
ひかりが吹き出した。朔にはもちろん意味が分からない。澪と望も同じらしい。
「……なんて言ったの?」
「なんか、知らない人ばっかり、って」
「ひどい! 結ちゃんのこと、昔抱っこしてあげたのに」
口を尖らせる望に、結は少しばつが悪そうに「……だって覚えてない。二歳か三歳ぐらいの私でしょ」と答えた。
「じゃあ、改めまして。金井望です。朔の双子の妹です」
「それは知ってる」
「知ってるんじゃん!」
「名前は」
「厳しいなあ」
結がくすくす笑った。
「ついでに、朔のこともね」
「なんで俺だけついでなんだよ」
「……女子会なの!」
結の一言に、みんなが笑った。結は釈然としない顔の朔をしばらく眺めてから、何か思いついたらしくひかりの方へ顔を向けた。
「Mais sur tes vieilles photos, il était beaucoup plus petit, non ?」
「……何か俺のこと言ってるでしょ?」
「お姉ちゃんの昔の写真だと、もっと小さかったよね、って」
ひかりは朔に訳してから、結に向き直った。
「Ça, c'était il y a longtemps」
「今のは何!?」
望が目を輝かせながら聞く。
「『それは昔の話だよ』って」
流石じゃん、と言った澪にひかりは「六年いただけだよ」と照れたように笑った。結は何を褒められたのかよく分からない顔をしていた。
朔は黙っていた。ひかりの笑い方は覚えていても、その前に彼女の口から出た言葉は分からない。
「そう言えば朔、部活何にするのかもう決めたの?」
不意に澪に聞かれて、まだ、と顔を上げると、ひかりまで、私も聞きたいなあ、と乗ってくる。また目が合った。だからまだ決めてないって、と目を逸らしながら答えて少し黙ってから、聞き返した。
「……ひかりちゃんは?」
口に出してから、変な感じがした。ただ、同時に懐かしさも感じた。
「私? うーん、まだ分かんない。向こうでやってたのと同じのがあるかも分からないし」
「何やってた?」
「いろいろ」
「いろいろって何だよ」
「じゃあ、今度教える」
ひかりはそう言って、水を飲んだ。
今度。その言葉だけが、耳に残った。
* * *
食事のあと、志保が昔のアルバムを持ち出した。やめようよ、と嫌がるひかりをよそに、真っ先に結が覗き込む。公園、庭、誕生日パーティー、水遊び。澪とひかり、朔と望、ときどき小さな結。
あ、と言ってひかりが一枚を指さした。まだ幼いひかりが自転車を押し、その隣をもっと小さな朔が歩いている。
「覚えてる。これ、町田駅の近くの大きな公園に行った日だ」
朔も覚えていた。たぶん。夢の中にも、似た景色が出てきた気がする。
「朔くん、この頃ほんとに私の後ろずっとついてきてたよね」
「覚えてない」
ひかりの言うとおりだろ、と笑う澪を朔が、もうそんなんじゃないし、と睨みつける。
「今も大して変わってないじゃん。すぐムキになるところとか」
望が横から言い、お前なあ、と朔が声を上げると、みんなが笑った。ひかりも笑っていた。
* * *
「じゃあ、またね」
玄関先で由佳が言った。明日も片付けが山ほどあるらしい。手伝おうかという志保に、そこまで甘えたら俊明に怒られる、と由佳は笑った。
結が靴を履き終え、ひかりもその隣で紐を結んで立ち上がる。後でメッセする、と言う澪に、もういつでも会えるじゃん、とはにかんでから、ひかりは朔を見た。
「じゃあね、朔くん」
「……うん」
一瞬だけ迷ってから、朔も言った。
「また、今度」
「うん。またね」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。朔はしばらく玄関に立っていた。
どうだった、ひかりちゃん、と望に聞かれ、別に、と答えると、ふーん、と返ってくる。また、それだ。朔は何も言わずに階段を上がった。
自室の机の引き出しは、閉じたままだった。去年届いたクリスマスカードが入っているが、開ける気にはならない。代わりにベッドへ倒れ込み、目を閉じた。
夢の中にいたのは、小学生の森野ひかりだった。今日会ったのは、中学生の森野ひかりだった。
「……変なの」
誰もいない部屋で、朔は呟いた。




