第2話 ずっと話してた。
《荷造り、終わった?》
スマートフォンに表示された澪からの短いメッセージを見て、ひかりは昼下がりの光が差し込むベッドの上を見渡した。服、本、ノート、学校でもらったもの、友達にもらったもの、捨てていいのか分からない紙切れ。開けたままのスーツケースと、閉じられる気配のない段ボール箱。それをそのまま撮って、返信する。
《終わると思う?》
《思わない》
《ひどい》
《由佳さんに怒られてそう》
《十分前に怒られた》
《やっぱり(笑)》
ひかりはベッドに倒れ込んだ。小学二年の冬にフランスへ来てから、ずっと見上げてきた天井だ。最初は何を言われても分からなかった学校にも今では当たり前に通っていて、スーパーの場所も、バスの乗り方も知っている。友達の家へは一人で行けるし、近所のパン屋のおじさんとは顔なじみだ。あと一週間で、それが全部「前に住んでいた場所」になる。日本に帰る。父も母も、ひかり自身もそう言ってきた。でも、帰るという言葉が本当に正しいのかどうか、ときどき分からなくなる。
《四月から小山田戻るんでしょ? 同じクラスになったら笑う》
《小二以来?》
《小二以来。長っ》
《お互い年取ったね》
《十四歳が言う台詞じゃない》
《私はまだ十三だけど》
《じゃあ、これから「澪姉ちゃん」って呼んで》
《ヤダ(笑)》
思わず笑った。
フランスの中学校、コレージュに入った十一歳の夏、ひかりは自分のスマートフォンを買ってもらった。金井澪はまだ小学生だったが、「ひかりちゃんとお話ししたい」と父親に頼み込んで、同じころに買ってもらったらしい。それ以来、ずっとこんな調子だ。毎日話すわけではなく、一週間何も送らないこともあれば、ひどいときは一か月近く空く。それでも、どちらかが何か送れば、昨日まで話していたように会話が始まる。
《そういえば、朔も中等部に上がるよ》
《知ってる。十二歳でしょ》
《望もね》
《双子なんだから当たり前じゃん(笑)》
《じゃあこれは知ってる?》
《なに》
既読だけがついて、しばらくして写真が一枚届いた。真ん中に澪、両側に朔と望。金井家の三きょうだいが、制服姿で並んでいる。澪の顔は見慣れているし、望も何度も写真で見ている。でも――。
ひかりは画面を指で広げた。朔の顔が大きくなる。ひかりの中で、朔はまだ六歳だった。何度かビデオ通話で顔を見ても、その印象だけは変わらなかった。自分の後ろをついて回って、何でも真似をしたがって、一緒に遊べないと言うと露骨に不機嫌になる泣き虫。
《大きくなったね》
《六年だからね。声も最近かなり変わったよ》
《へえ》
《何その感想》
《だって想像できないもん》
打ちながら、もう一度写真を見る。全く知らない顔、ではない。目元には昔の面影があるし、笑い方もたぶん同じだ。それなのに、記憶の中の六歳の男の子と、この写真の少年が、どうもうまく重ならない。
《私の中だと、朔くんまだちっちゃいから》
《本人に言ったら怒るよ。昔ずっとくっついてたのにね。そう言えば「大きくなったら結婚する」とか言ってなかった?》
「……え?」
ひかりは眉を寄せた。そんなことを、言ったような、言っていないような。記憶を探ると、公園や金井家の庭、自転車で近所を走り回った夕方がよみがえり、その中にそんな会話もあった気がしてくる。朔の小さな手の感触まで、不意に戻ってきた。
……言ったかもしれない。でもお互い小さいころの話だ。それでも、澪に改めて言われると妙に恥ずかしい。
《澪がなんで覚えてるの》
《面白かったから。朔は覚えてるかもね。変なところだけ覚えてるから》
「……ないでしょ」
呟いて、写真を閉じた。子供の口にする「けっこん」なんて、明日も一緒に遊ぼう、くらいの意味しかなかったはずだ。少なくとも、自分にとってはそうだった。
《そういえば、望ちゃんとか朔くんといつも一緒にいるって子、元気?》
《千夏ちゃん? 元気だよ。今度会えば分かるよ、すごいいい子だから》
望たちが小学校に入ってからの友達だから、ひかりは会ったことがない。どんな子なんだろう、と思いながら、スマートフォンを枕元に置いた。
自分の知らない六年が、みんなにもある。澪にも、望にも、会ったことのない千夏という子にも、もちろん朔にも。自分だって、きっとそうなのだ。
* * *
「お姉ちゃん」
部屋の扉が少し開いて、結が顔を覗かせた。九歳の妹は、大きなぬいぐるみを抱えている。
「ママが、これいるのか聞いてって」
「あ、それ持ってく」
「日本まで? 邪魔じゃない?」
「結に言われたくない。三個も持ってくくせに」
結は気にせず入ってきてベッドに腰掛け、枕元のスマートフォンに目をやった。
「誰と話してたの?」
「澪。金井さんって分かるでしょ? 望ちゃんのお姉ちゃん。結はまだ幼稚園にも行ってない頃だったから、日本のころは覚えてないと思うけど」
「一番仲いい友達?」
「日本なら、そうかも」
「じゃあ、朔くんは?」
ひかりは妹の顔を見た。
「なんで朔くんを知ってるの?」
「ママが言ってた。金井さんちの男の子。朔くんも友達?」
「……うん、たぶんね」
最後にまともに話したのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。
「たぶん?」
「昔は友達だったの」
「今は?」
「だから、たぶん」
「変なの」
結が笑ったとき、スマートフォンがまた震えた。
《そろそろ寝るね。帰ってきたらすぐ会おうね》
《もちろん。おやすみ》
迷わず返したところで、結が横から画面を覗き込んだ。朔くんってどれ、と聞かれて、少し上に残っている写真を開く。並んだ三きょうだいの端にいる、十二歳の朔。このお兄ちゃん? と結が指さした。
「そう。この子。……ほら、荷造り戻るよ」
画面を閉じて、結の持ってきたぬいぐるみを段ボールへ押し込む。入らなかった。これ、ほんとに持って帰れるかな、と呟くと、さっき持ってくって言ったじゃん、と結が言う。はいはい、と答えて、二人がかりでぬいぐるみを押し込んだ。
来週、日本へ帰る。澪とは、きっとすぐ昔みたいに話せる。
朔とは――どうなんだろう。




