第40話 今のひかりが。
《朔くんの研究、受賞してよかったね!》
千夏にそう送った直後に届いた返事も、その後に朔から来た二つのメッセージも、ひかりは全部読んでいた。どちらにも、返事はできなかった。いつもはベッドに持ち込むスマートフォンを、その夜は机の上に伏せたままにして布団にもぐったけれど、全く眠れなかった。結局、カーテンの向こうが明るくなってから、ようやく少し眠った。
起きてすぐ、千夏に研究賞のことを伝えた。《ごめん、昨日あのまま寝ちゃってた》と最初に書いて、それから、奨励賞だったことと、メッセージを送ったときは朔から聞いたばかりだったことも書いた。
ゆうべ、どちらのメッセージにもすぐ既読がついたことは、お互いに分かっている。送信ボタンを押す親指が、震えた。千夏からは、《朔、すごいですね》とだけ返ってきた。
* * *
その日の夜になっても、朔とのやりとりは、表彰式の服装の話で止まっていた。文字ではなく、直接、おめでとう、と言いたかった。けれど、千夏が知らなかったことを、自分はもう知ってしまっていた。帰り道で千夏や望と並んでいる朔の前に立ったら、自分がどんな顔をしてしまうのか、分からなかった。今日は澪の誘いも断って、一人でまっすぐ帰ってきた。
自室の椅子に座ったまま、スマートフォンを手に取っては、伏せる。何度やっても、通知は鳴らない。鳴るのを待っているのか、鳴らないでほしいのか、それももうよく分からなかった。ひかりはスマートフォンをベッドの上へ放って、文庫本を開いた。紺色の紐が指に当たった。数行読んで、何の話だったか思い出せなくなり、また前のページへ戻る。そのとき、ベッドの上でスマートフォンが震えた。
《明日、放課後ちょっと話せる?》
朔からだった。ひかりは椅子から立って、画面を見つめた。もう一度、読んだ。
待ち焦がれていた知らせ、なのだろうか。そう思うと、胸が鳴った。同時に、指先が少し冷たくなった。
ちゃんと考えたい、とあの日の朔は言った。けれど、ちゃんと考えた人が、自分の欲しい答えを出してくれるとは限らない。ちょっと話せる、のあとに続く答えは、一つではなかった。
《うん。大丈夫だよ》
少し時間をおいてからそう返すと、すぐに《じゃあ、いつものとこで、四時くらいに》と返ってきた。今度は間を空けず、《分かった》と送った。
* * *
翌日の放課後、高等部の昇降口で靴を履き替えていると、澪が声をかけてきた。
「ひかり、今日は一緒に帰れる?」
「あ……ごめん。今日もちょっと」
「用事?」
「そんな感じ」
澪は靴を履き終えて、ひかりの顔をちょっと見た。
「……ふうん」
澪は何か言いかけて、やめた。
「じゃあ、また月曜ね」
「……うん」
澪は手を振って、先に出ていった。ひかりは、もう一度ローファーのかかとを直した。ちゃんと履けていた。
外へ出ると、まだ明るかった。校舎のあいだを抜けて、中等部から来る道との合流点へ向かう。去年の秋、ここで朔を待ったことがあった。あのときは、自分が何をしているのか、途中までよく分かっていなかった。ただ、一緒に帰りたかった。今日も、一緒に帰れるのだろうか。
朔は、道の端に立って、スマートフォンを見ていた。ひかりが近づいても、しばらく気づかなかった。近くまで来ると、その画面が暗いままなのが見えた。
「……朔くん」
顔が上がった。
「あ、ひかりちゃん」
「お待たせ。……待った?」
「ちょっと」
「何分?」
「数えてない」
ひかりは思わず笑った。
「それ、前に私が言ったやつ」
「覚えてるよ」
朔はスマートフォンを鞄へしまって、歩き出した。ひかりも並んだ。
何か話すのだと思っていた。けれど、朔はなかなか口を開かなかった。
――話せる、と聞いてきたのは、そっちなのに。
そう思って、横目で朔の顔を見てみると、口が固く結ばれていた。歩くのも、いつもより少し速い。それがどちらの返事の前の顔なのか、ひかりには分からなかった。
少し前を、付き合っていそうな高等部の男女が歩いていた。週末の予定を、楽しそうに話している。早くどこかで曲がってくれればいいのに、とひかりは思った。隣の横顔は、まだまっすぐ前を向いたまま、何か言い出しそうな気配もない。結局、先に口を開いたのは、ひかりのほうだった。
「研究賞、改めておめでとう」
「ああ、うん。ありがと」
「表彰式、制服でよかったね」
「……それどういう意味」
「言葉のまんま。だって、スーツなんて持ってないでしょ?」
「ないよ。父さんの借りてもでかいだろうし」
「そうだね」
「……そこ、否定しないんだ」
「事実でしょ」
朔はやっと少し笑った。あの夜に返せなかった返事を、ようやく返せた気がした。けれど、それきりまた会話が途切れた。いつもの分かれ道が、近づいていた。
* * *
角を曲がると、人通りが少し減った。朔が歩く速さを落とした。
「……ひかりちゃん」
「うん」
「この前のことなんだけど」
ひかりは立ち止まった。朔も二歩ほど先で止まって、振り返った。
「……うん」
口の中が少し乾いていて、うまく声が出なかった。
「返事、ちゃんとしたくて」
朔はそう言うと、まっすぐにひかりの顔を見た。
「俺、ひかりちゃんが好きなんだ」
ひかりは、すぐには返事ができなかった。ちゃんと聞こえた。朔くんが、好きだと言った。自分に。足元のアスファルトに、二人の影が落ちていた。口元が緩んだ。抑えようとしたのに、やっぱり緩んだ。
「……何で笑うの」
いつの間にか顔を赤くしていた朔が、少し口を尖らせて言った。
「……だって」
「何」
「嬉しいから」
言ってから、ひかりは口を押さえた。こんなふうに笑うつもりではなかった。もっと落ち着いて、ちゃんと返事をするつもりだった。だけど、無理だった。朔は少し目を逸らして、それからまたこちらを見た。
「帰ってきてから、いろいろ話しただろ。歴史のことも、学校のことも、どうでもいいことも」
「……うん」
「これからも、そうしたい。俺が知らないひかりちゃんのことも、もっと知りたいし」
朔は一度、言葉を探すように黙った。
「……今のひかりちゃんと、一緒にいたい」
ずっと昔、二人で何かを約束したことを、ひかりは覚えていた。朔も覚えているのだろうか。けれど、今それを聞きたいとは思わなかった。目の前にいるのは、あのころ自分の服の裾をつかんでいた男の子ではない。自分だって、あのころの自分ではなかった。
ひかりは、ゆっくり息を吸った。
「……私も。朔くんと一緒にいたい」
ひかりは続けた。
「三月に好きって言ったでしょ。……今も、好きだよ」
朔はしばらく何も言わなかった。ひかりが首を傾げると、ようやく口を開いた。
「……ありがと」
「何でお礼なの」
「いや……」
「変なの」
「……何て言えばいいんだよ」
ひかりは笑った。朔も、少し笑った。
その顔を見て、ひかりは、聞いておかなければならないことを思い出した。
「……ねえ、朔くん」
声の調子が変わったのに気づいたのか、朔が少し身構えた気がした。
「何?」
「千夏ちゃんには……?」
朔の表情が、少し曇った。
「……昨日、話した。ちゃんと、返事した」
「……そう」
昨日の朝、《朔、すごいですね》とだけ返ってきた画面を思い出した。それから、ゆうべ文庫本を開いたとき、指に当たった紺色の紐のことも。
千夏が今、どんな気持ちでいるのか、ひかりには分からなかった。分かりたい気もしたし、分かりたくない気もした。分からないまま、自分は今、ここで笑っていた。
* * *
気がつくと、二人は分かれ道を過ぎても、まだ歩いていた。
「……ひかりちゃん、こっちでいいの?」
「……え?」
「家、こっちじゃないでしょ」
「……あ」
朔が立ち止まった。
「いつもの方向音痴?」
「今のは違うから」
「何が違うんだよ」
ひかりはすぐには答えないで、朔の手を見た。冬の帰り道、気がついたらつないでいた手だった。あのときは、自分から離してしまった。
「……手、つなぎたかったから」
朔が、こちらを見た。
「……今?」
「今」
ひかりは、そっと手を伸ばした。朔も、何も言わず手を出した。
指先が触れて、それから手のひらが重なった。昔は、この手を引っ張って歩くのは自分のほうだった。小さくて、すぐに汗ばんで、離すと泣いた手だった。今度は、離さなかった。
手をつないだまま、二人は金井家から離れていく角を曲がった。どこへ行くのか、どちらも言わなかった。
しばらく歩いていると、街並みはどんどん見慣れないものになっていった。フランスから帰ってきて二年ほど経つけれど、坂の多いこの街では、まだ時々迷いそうになる。でも、つないだ手の先にいるのは、いつもの朔だった。
「……ねえ、朔くん」
「何?」
「フランスから帰ってきたばっかりのころ、ちょっと変だなって思ってた言葉があったの」
「変?」
「帰るって言葉」
「でも、帰ってきたじゃん」
「うん。みんな、おかえりって言ってくれた。でも私、覚えてるのは向こうのことのほうが多いから、帰ってきたのか、よく分かんなかった」
朔は黙って聞いていた。
「……今は、ちょっと分かるかも」
朔は何も言わなかった。つないだ手を、握り直した。
「……帰ろっか、朔くん」
「うん」
二人は、来た道を引き返した。ひかりの家の前まで、朔は何も聞かずについてきた。門の前で、朔が手を離した。
「じゃあ」
「うん。……送ってくれて、ありがと」
朔は少し迷うような顔をしてから、言った。
「明日、土曜だけど」
「うん」
「……会える?」
ひかりは、朔の顔を見た。子どもの言う「けっこん」なんて、明日も一緒に遊ぼう、くらいの意味しかなかったはずだ。フランスの部屋で、荷造りの途中に澪から言われたときのことを、思い出した。
「……会いたい」
そう言ってから、少し顔が熱くなった。
「……じゃあ、また連絡するから」
朔は少し笑って、歩き出した。角を曲がる前に、一度振り返って、小さく手を上げた。ひかりも手を上げた。
玄関を開けると、台所から由佳の声がした。
「おかえり」
「……ただいま」




