第41話 失敗してないでしょ。
月曜の放課後、千夏が三組の教室を出ると、廊下の壁にもたれて望が立っていた。
「……何してるの」
「千夏を待ってた」
「何で?」
「一緒に帰ろうと思って」
去年までは、授業が終わればそのまま朔と三人で帰ることが多かった。ただ、新学期に入ってから、バラバラになることが増えていた。
「それに、駅前の文房具屋にも寄りたいし」
「……また?」
「替え芯なくなったんだもん」
「この前買ったばっかじゃん」
「使ったらなくなるでしょ」
千夏は少し笑った。なんだか、久々に笑った気がする。
「……まあ、そうだけど」
「じゃ、行こ」
望は壁から背中を離した。昇降口で靴を履き替えていると、望が聞いた。
「朔は真面目にやってる?」
「……知らない」
「同じクラスじゃん」
「……席が遠いから、分からないし」
望は千夏の顔を見た。片方の眉が、少し上がった。それから、三組の靴箱の方を一度見た。金井、と名札のかかったところには、もう上履きが置いてあった。
「……行こっか」
千夏がまだ靴を履き終えないうちに、望は先に外へ出ていた。
外へ出ると、春の風が少し冷たかった。少し早足で追いついて、望と並んだ。校庭では運動部が練習を始めていた。木曜日にも、こんな声が聞こえていた。しばらく歩いてから、顔を見ないまま、千夏は独り言のように言った。
「私、振られちゃった」
望が足を止めた。つられて、千夏も立ち止まった。
「一応聞くけど、誰に?」
「私、朔に好きって言ったんだ。ホワイトデーの日に」
望の目が、少し大きくなった。
「……そんな前に?」
「言ってなかったからね」
千夏は一度、息を吸った。
「朔、ひかり先輩が好きなんだって」
声が、少し震えた。望は高等部の校舎の方を一度見て、それから千夏に目を戻した。知ってたの、と聞くと、望は千夏の目をまっすぐ見返した。ごめん、と言われた気がした。
「……座って話そ」
そこから電車に乗って、町田の駅前を過ぎるまで、二人とも何も言わなかった。望は文房具屋とは逆の、坂を下る方へ曲がった。
* * *
芹ヶ谷公園には、まだ午後の日が残っていた。坂を一つ下りただけなのに、駅前の音はもう届かない。葉の出始めた木の下で、小学生が何人か走り回っている。芝生はまだ少し色が薄く、ところどころに、去年の落ち葉が溜まっていた。二人は、子どもたちから少し離れたベンチに座った。
先に口を開いたのは、望だった。
「……金曜日にね。付き合うことになったんだって。朔と、ひかりちゃん」
千夏は、芝生の方を見たまま聞いていた。
「朔は家で何も言わないよ。でも金曜から顔に出てた。土曜日も朝から出かけたし。夜になって、澪もひかりちゃんから聞いたみたいで、騒いでた」
千夏は、膝の上でスカートの裾を握った。それに気づいた望が、はっとしたように口を閉じた。
「……ごめん。今の、言わなくてよかった」
「……ううん。いつか知ることだし」
「でも、この話を千夏に言おうか、どうしようか、土日はずっと考えてた」
「……だから、待ってたの?」
「……それもあるし、替え芯も、ほんとになくなってる」
千夏は少し笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……望は、前から気づいてた?」
「朔が、ひかりちゃんのこと?」
「うん」
「そうなのかな、とは思ってた。去年の秋くらいから」
「……結構前じゃん」
望は、少し目を逸らした。
「でも、ちゃんと知ってたわけじゃないし。あいつが何考えてるかなんて、分かんないことの方が多いもん」
しばらくして、千夏はもう一度口を開いた。
「……私ね。朔が研究賞取ったのも、ひかり先輩から聞いたの」
望の肩が、少しこわばった。
「朔からは何も聞いてなくて。ひかり先輩が、よかったね、って送ってきて。最初、何のことか分かんなかった」
「……千夏」
「何?」
「ごめん。それも、知ってた」
千夏は望を見た。
「あの日の夜。朔、家で大騒ぎしてたから。千夏にも言ったのって聞いたら、明日自分で言うって。だから、私からは言わなかった」
望はそこで口を閉じた。あの夜、望に聞けば分かる、と思った。思っただけで、聞かなかった。
「……私も、望に聞かなかった」
「え?」
「聞けば分かるって、思ったのに」
望は千夏の顔を見て、それから前を向いた。
「次の日の朝、ひかり先輩からも来たよ。ごめん、寝ちゃってた、って」
「……うん」
「すぐ既読ついてたのにね」
口に出してみると、思っていたより平らな声が出た。
「……去年の夏さ」
「うん」
「三人で図書館行ったじゃん。井出の沢のやつ。朔が見つけた日」
「あったね。暑かった日でしょ」
望はすぐに頷いた。
「私たち、課題全然終わってなかった」
「覚えてる」
「朔、急に神社行くとか言い出してさ。ほんと、よく行ったよね。あの暑い中」
望がそこまで言うと、千夏はうつむいた。何も言えなくなった。
「千夏?」
「……私、行けばよかった」
「……え?」
「あのとき、朔と一緒に行けばよかった」
望が、ベンチの上で少しこちらへ体を向けた。
「……いつもの神社だし、暑いし、宿題もあったから。だから、私、朔が一人で行けばいいじゃんって言っちゃった」
「そこは覚えてる」
「でも、行ってたら、何か違ったのかなって」
言ってから、千夏は唇を噛んだ。
「この前、夢に出てきたんだよ。あの図書館が。昔の私に、行くって言って、ってずっと叫んでた。でも、聞こえないの」
望は何も言わなかった。足元の落ち葉が、風に押されて、ベンチの下へ転がっていった。
「……私、どこで失敗したのかな」
「千夏は失敗してないでしょ」
すぐに返ってきた。少し強い声だった。
「……してない?」
「してない」
「……じゃあ、何で私じゃなかったの」
望は答えなかった。
「八年も一緒にいて!好きだって言って!それでも駄目だったんだよ!私どうすればよかったの!」
声が、自分で思ったより大きく出た。望は口を開きかけて、閉じた。
「それじゃ、何もできないじゃん……。何でも知ってるつもりだったのに、知らないこともいっぱいあって……。あのとき行ってたら、私の知らない話も、一緒にできたのかなって……」
望はしばらく考えていた。
「……行ってたら、違ったかもしれないよ」
千夏は顔を上げた。
「……そう思う?」
「分かんない」
「……何それ」
「だって、分かんないもん。あの日、千夏が神社に行ってたらどうなったかなんて、私にも分かんない。朔にも分かんないと思う」
望は少し言葉を探した。
「でも、千夏が行かなかったから、朔がひかりちゃんを好きになったって、誰が決めたの」
千夏は答えられなかった。隣を見ると、望は少し怒ったような顔で、自分の膝のあたりを見ていた。
「……望はいいよね」
「何が」
「全部知ってたじゃん。朔のことも、ひかり先輩のことも、研究賞のことも」
言ってしまってから、千夏は膝の上に目を落とした。望の顔は見られなかった。
「私だけ、何も知らなかった。ずっと一緒にいたのに」
しばらく、望は黙っていた。
「……じゃあ、言えばよかったの?」
千夏は顔を上げた。望は膝の上を見たままだった。
「朔、ひかりちゃんのこと好きみたいだよって。去年の秋に、千夏に言えばよかったの?」
言われていたら、と思った。考えたくもなかった。
「知ってたって、何もできなかったよ、私」
望の声が、少し震えていた。二人とも、しばらく何も言わなかった。
やがて、望が言った。
「……ホワイトデーのやつね。買いに行ったとき、私も一緒だった」
千夏は、望の方を見た。
「朔、千夏の分はすぐ決めてたよ。ノートも、お菓子も。千夏、これ好きだよなって」
望はそれだけ言って、芝生の方へ目を移した。千夏は、何も言えなかった。あのノートには、まだ、消した跡が残っている。
「千夏がずっと朔のこと好きだったのは、知ってる」
千夏が顔を上げると、望は少し慌てた。
「……いや、好きって言うほどは知らなかったけど。何か、特別なんだろうなとは思ってた」
「……それ、同じじゃん」
「同じじゃないし」
望は言い返して、それから小さく息を吐いた。
「……ごめん。私も、何て言えばいいか分かんない」
千夏は首を横に振った。ごめん、と言いたかったのに、声にならなかった。芝生の向こうで、さっきの小学生たちが、誰かの名前を呼びながら走っていった。
* * *
「……でも、好きだったんだよ」
千夏は言った。
「うん」
「今も、好きなんだよ」
「……うん」
「それ、どうしたらいいの」
望はすぐには答えなかった。
「……分かんない」
千夏は少し笑った。
「さっきから、分かんないばっかり」
「だって、ほんとに分かんないし」
望も、少し笑った。
「すぐ嫌いになれ、とか言えないし」
「……うん」
「でも、私……」
望は一度、言いかけてやめた。
「何?」
「……千夏と、これからも一緒に帰りたいし」
千夏は望を見た。
「……何、それ」
「だって、クラス別になっちゃったじゃん。去年と違って、待ってないと、千夏と帰れないし」
望は少し間を置いた。
「朔がどうとか、ひかりちゃんがどうとか、そういうのもあるけど。私と千夏は、別に何も変わってないでしょ」
千夏は何も言わなかった。
「……変わった?」
望が聞いた。
「……分かんない」
「千夏までそれ言う?」
望が少し笑った。千夏も、ほんの少し笑った。それから、笑ったことが急に申し訳なくなった。
朔に返事をもらった。ひかり先輩が好きなんだ、と言われた。自分ではなかった。それは、何も変わっていなかった。明日、教室に入れば、朔がいる。少し前の席に座っている。授業が始まれば、またあの背中が見えるのだろう。
「……望」
「何?」
「明日、学校行きたくないかも」
望は少し考えた。
「……じゃあ、明日の朝、決めれば?」
「……いいの?」
「私に聞かれても」
「……そうだね」
「休んだらノートぐらいは貸せるけど」
「……望の?」
「何、その言い方」
「だって、字が読めないとこあるじゃん」
「読めるし!」
千夏は、今度は少し声を出して笑った。笑ったあと、目の奥がまた熱くなった。望は何も言わなかった。千夏が顔を上げるまで、隣で待っていた。
* * *
公園を出て坂を上ると、人通りが増えた。信号が赤になり、二人は並んで立ち止まった。
「……で、文房具屋だったよね」
「そう。ブルーブラックの替え芯」
「まだブルーブラック使ってるんだ」
「気に入ってるから。前も言ったじゃん」
「そうだっけ」
「千夏、ほんとに聞いてないんだから。じゃあ、青との違い言ってみて」
「……ちょっと黒っぽい青」
「雑!」
千夏は笑った。少しして、また黙った。望も、それ以上は何も言わなかった。信号が青になった。
「ねえ、千夏」
「何?」
「文房具屋、ほんとに一緒に来る? 先に帰ってもいいよ」
千夏は、足元の白線を見た。
「……行く」
横断歩道へ出かけていた望の足が、一瞬だけ止まった。
「……ありがと」
「何でお礼なの」
「別に。言いたかっただけ」
「変なの」
「うるさいなあ」
通りの先に、駅前の文房具屋の看板が見えていた。望は先に歩き出した。千夏も、その隣に並んだ。
(第一章終わり)




