第39話 そっか。
朝、朔が台所へ下りると、志保が汐里を抱いていた。
「おはよう。昨日はおめでとう」
「……昨日も言ったじゃん」
「何回言ったっていいでしょ」
志保は笑って、汐里の顔を覗き込んだ。まだ眠っているらしい。小さな口が、ときどき動いていた。
「表彰式、六月なんだって? 日にち決まったら教えてね。お父さんも行きたがってるから」
「……別に、来なくていいけど」
「そういうこと言わないの」
食卓には、昨日から置いたままの哺乳瓶があった。朔はそれを少し端へ寄せて、椅子に座った。
昨日の受賞者一覧は、自分の机の上にある。帰ってから孝之にも志保にも見せて、澪と望には何度も名前のところを指さされた。どうせなら最優秀賞にすればよかったのに、と望が言い、無茶言うなよ、と返した。孝之は、よく頑張ったな、と言った。その全てが、嬉しかった。今朝になっても、まだ少し嬉しかった。
「朔、パンで良いでしょ?」
志保が立ち上がろうとすると、汐里が小さく声を上げた。
「あら、起きちゃった」
「……俺が焼くよ」
「じゃあお願い。お母さんの分も」
朔は立ち上がって、食パンを二枚、トースターに入れた。
* * *
教室へ入ると、千夏がいた。自分の席の横で、鞄から教科書を出している。朔に気づくと、顔を上げた。千夏は机の上に教科書を重ねてから、言った。
「おはよ。研究賞、取ったんだってね」
え、と言ったきり、朔は次の言葉が出なかった。
「奨励賞。ひかり先輩が今朝、教えてくれた」
「ああ……うん」
「すごいじゃん」
「……まあ、奨励賞だけど」
「賞は賞でしょ」
そう言った千夏は、おめでとう、と続けて少し笑った。
「ありがと」
いつもより、声が小さい気がした。それに、顔色もあまりよくない。
「千夏、なんかあった?」
筆箱を出しかけていた千夏の手が、止まった。
「……何で?」
「いや、何となく」
「……ちょっと寝不足」
「宿題?」
「そんなとこ」
ほらそろそろ朝のホームルームだよ、と千夏に話を切り上げられ、朔は自分の席へ向かった。鞄を机の横に掛け、椅子に座る。千夏の顔は、もう見えなかった。
* * *
昼休み、朔は図書室にいた。
昨日、図師先生から渡された受賞者一覧を、もう一度見ようと思ったのだった。鞄に入れてきた紙は、少し端が折れていた。何度見ても、奨励賞の欄には自分の名前がある。
少し上には、高校生部門の受賞者が並んでいた。知っている学校もあったけれど、名前はみんな知らない。表彰式へ行けば、どんな研究なのか本人に聞けるのだろうか。
そう考えて、昨日の夜、ひかりちゃんに送ったメッセージを思い出した。制服でいいらしい、スーツとか言われたらどうしようかと思った――。自分で書いたくせに、少し笑ってしまった。そもそもスーツなんて持っていない。
そんなことまで、ひかりちゃんに話したかった。
昨日もそうだった。準備室を出て、階段で何度も紙を見て、気がつけば、ひかりちゃんに送っていた。誰より先に教えようと決めていたわけではない。家族にもちゃんと話した。生まれたての妹にも話したし、澪や望には、しつこい、と呆れられた。
でも、最初に送ったのは、ひかりちゃんだった。
朔は紙の端を指で押さえた。
去年の夏、菅原神社で石碑を見つけた夜も、ひかりちゃんにメッセージを送っていた。ひかりちゃんはあの時一か月だけフランスへ行っていた。小山田って鎌倉時代からあるらしい、と送ると、小山田学園? と返ってきた。理事長一族のご先祖だったり、とも書いてきた。今度調べてみる、と返した。そのあとに来たメッセージを、朔は覚えていた。
《帰ったら続き聞かせて》
《たぶん、長くなる》
《いいよ。約束だからね》
じゃあ、覚えとく、と返したのは自分だった。
紙の上の自分の論文の題名を、もう一度見た。湧水の地から合戦の地へ。昨日送ったのは、あの夏の続きだった。
また何か調べて、面白いことが分かったら、きっと話したくなる。それが井出の沢の続きでなくても、歴史の話でなくても、ひかりちゃんに話したい。ひかりちゃんの話も聞きたい。フランスにいた六年間のことも、今日のことも、明日のことも。
――また、そんな長くいなくなるの。
ふいに、自分の声を思い出した。高等部に上がれなかったらフランスへ戻るかもしれない、とひかりちゃんに言われたときのことだ。嘘だと分かったあとも、しばらく腹が立っていた。けしかけた澪とは、一週間口をきかなかった。
――朔、ああいうの本当に嫌いでしょ。いなくなるっていう嘘。
あのとき、千夏はそう言った。確かに、嫌いだ。けれど、あんなに怒ったのは、嘘をつかれたからだけではなかった気がする。また自分の知らないところで、ひかりちゃんが何年も過ごしてしまう。それが、嫌だった。
――ああ。
浮かんだ言葉を、打ち消そうと思わなかった。
ずっと前からそうだったのかもしれない。いつからなのかは分からない。その言葉の先にいたのは、おととしの春に帰ってきてから、少しずつ知ってきたひかりちゃんだった。朔は息を吐いた。
また、千夏の顔が浮かんだ。今朝、おめでとう、と言ってくれた顔だった。
* * *
午後の授業中、朔は上の空だった。いつもはすんなり頭に入ってくる図師先生のボソボソした声も、耳を通り過ぎる。
千夏のことなら、いくらでも思い出せた。初等部のころから、ずっと一緒だった。係の仕事を一つ忘れただけで一日中落ち込んでいたことも、小六のとき社会のノートを学校に置いてきたことも覚えている。千夏の方だって、自分が忘れたことをいちいち覚えている。
ホワイトデーに渡したノートも、すぐに分かってくれた。これ、嬉しいよ、と千夏は言った。朔も嬉しかった。ちゃんと選んでよかったと思った。
そのあとで、千夏は、自分のことが好きだと言った。
――千夏ちゃんは千夏ちゃん。ひかりはひかりでしょ。
澪には、そう言われた。
千夏は、千夏だ。八年間一緒にいた千夏だ。二人で帰るのも、話すのも、今も楽しい。でも、確かに、ひかりちゃんは、ひかりちゃんだった。
朔は机の下で、両手を握った。
落ち着いてからでいい、と千夏は言った。ホワイトデーからは、もうひと月近く待たせている。五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。朔は顔を上げた。
* * *
ホームルームが終わって、教室から生徒が出ていくのを待った。千夏はまだ席で、鞄に教科書をしまっているところだった。朔が近づくと、千夏は顔を上げた。
「……何?」
「今日、ちょっと話せる?」
千夏の手が止まった。
「……今から?」
うん、と千夏の目を見て答える。千夏は鞄の口を閉じた。
「……分かった」
二人で教室を出た。廊下には、部活へ向かう生徒が何人か残っていた。階段を下りるあいだ、後ろからついてきていた千夏は何も言わなかった。昇降口で靴を履き替えて外へ出ると、まだ日は高かった。校庭では運動部が練習を始めていた。少し歩いたところで、千夏の声が背中から聞こえてきた。
「……どこまで行くの?」
「もうちょっと向こう」
振り向かず、そう言う。千夏の足音はまた着いてきた。校舎の脇を回って、人の少ない方へ歩いた。
ホワイトデーの日にも、この辺りへ来た。あのときは、プレゼントを渡すためだった。今日は、何も持っていなかった。千夏が先に足を止めた。
「……もう誰もいないよ?」
朔は振り向いた。千夏はそれ以上何も言わずに、こちらを見た。
目の下が少し赤いような気がした。朝もそうだったのだろうか。
「千夏」
うん、と答えるか細い声が聞こえた気がした。
「ちゃんと考えた」
千夏は黙っていた。朔は一度、息を吸って、千夏の顔を見た。
「俺、ひかりちゃんが好きなんだ」
校庭の方から、準備体操を始めた運動部の大きな掛け声が聞こえてきた。
千夏は、朔の顔を見たままだった。何か言おうとして、唇が少し動いた。けれど、声にはならなかった。やがて、ゆっくり目を伏せた。
「……そっか」
小さな声だった。
朔は何も言えなかった。
「……ちゃんと、考えたんだね」
「……うん」
千夏は顔を上げた。
「……分かった」
今度は、さっきより少しはっきり聞こえた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……今日は、一人で帰るね」
「……うん」
千夏は、ゆっくり歩き出した。朔はその場に残った。
校舎の角を曲がるまで、千夏は一度も振り返らなかった。




