↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選んだあとも、選ばれなかったあとも。  作者: 9ry5hrk_2we


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/42

第38話 行くって言って!

 スマートフォンが震えたのは、数学の問題集を三ページ進めたところだった。ひかり先輩からだった。

《朔くんの研究、受賞してよかったね!》


 受賞、という二文字の意味が、すぐには入ってこなかった。千夏はシャープペンシルを置いて、もう一度読んだ。「朔くんの研究」とは、井出の沢のことだろう。分からないのは、その後ろだった。考えるより先に、指が動いていた。

《えっ、受賞ってなんですか》

 送るとすぐに既読がついた。千夏は画面を見たまま待った。一分たっても、二分たっても、ひかり先輩からは何も来なかった。


 朔とのトークを開いた。一番下には、春休みの終わりに来た《肉じゃが、母さんがうまかったって》と、自分の《よかった》が残っていた。それより下には、何もない。今日も一日、朔の背中を見ていた。出席番号順の席で、前を向けば必ず目に入る背中だった。帰りのホームルームが終わったあと、朔がどこへ行って、何があったのか、千夏は知らない。

 でも、ひかり先輩は、知っていた。


 去年の九月にも、同じようなことがあった。金井家でやった朔の自由研究発表会で、ひかり先輩が身を乗り出して、結局、理事長のご先祖だったの? と聞いた。千夏には何のことか分からなかった。夏のあいだ、二人は画面越しにずっとこういう話をしていたのだろうか、とあのとき思った。思っただけで、聞かなかった。今日は聞いた。

 でも、答えは、返ってこなかった。


 スマートフォンを伏せて、問題集に目を戻した。さっきまで自分がどう解こうとしていたのか、さっぱり分からない。当てずっぽうにシャープペンシルを動かしているうちに、式の途中に、受賞、と書いていた。千夏は消しゴムをつかんで何度もこすって、こすったところだけ、方眼の罫が薄くなって、黒い線はようやく消えた。

 でも、文字の跡は、へこんだままだった。ホワイトデーに朔からもらったノートだった。


 伏せたスマートフォンを表に返した。新着通知は一つもなかった。朔からも、ひかり先輩からも何もメッセージは来ていなかった。また伏せた。少しして、また返した。何度やっても、変わらなかった。望に聞けば何か分かるかも、とは思った。思っただけで、聞かなかった。何が分からないのかも、分からなかった。


 電気を消して布団に入った。目を閉じると、朔の背中が浮かんだ。寝返りを打つと、枕の冷たいところに頬が当たった。泣いてはいなかった。目の奥だけが、ずっと熱かった。


 何時になったのか分からなかった。天井の暗がりを見ているうちに、どこかで低い音がし始めた。冷房の音のような気がした。四月の夜に、冷房をつけた覚えはなかった。少し寒気を感じ、腕をさすろうとして、千夏は自分が立っていることに気がついた。そこは自分の部屋ではなかった。天井が、やけに高かった。白い蛍光灯が並んでいて、窓の外で、蝉が鳴いていた。


 長い机の横だった。机の上には問題集が開いたまま散らばっていて、その一冊に、望が突っ伏していた。

「……終わらない」

 望が、机に顔をつけたまま言った。

「課題の量、去年より明らかに増えてるよね」

 答えたのは、望の向かいに座っている女の子だった。その声は、よく知っていた。Tシャツの肩が、冷房の風で少し揺れている。シャープペンシルを指で回す癖にも、見覚えがあった。女の子が顔を上げた。自分だった。


 私、夢を見てるんだ――。


 そう分かっても、目の前の場面は変わらず、続いていった。望も、机の向こうの自分も、すぐ横に立っている千夏には気づかなかった。

 机の端には、分厚い本が何冊も積んであった。臙脂色の布張りの表紙に、『町田市史 上巻』と金文字が光っている。その隣で、朔がページをめくっていた。


――もしかして、これって……。


「朔、本当に歴史好きになったよね」

 机の向こうの自分が、本を覗き込みながら言った。

「うん」

 朔は本から目を離さずに、返事だけした。

「何調べてるの」

「井出の沢。古戦場。町田の」

「古戦場って、誰と誰が戦ったの?」

「北条時行と足利直義」

「……その人たちって誰?」

 朔がようやく顔を上げて、話し始めた。鎌倉幕府が滅んだ二年後に、北条高時の息子が信濃で兵を挙げて――。いつもより早口だった。机の向こうの自分は、ふうん、という顔でシャープペンシルを回している。千夏は、一言も聞き逃したくなかった。

「それってもしかして『逃げ上手の若君』?」

「何それ」

「漫画。何で知らないの?」

 朔は不満そうな顔をして、また本に目を落とした。

 しばらくページをめくっていた朔の手が、ふと止まった。

「……マジで」


 ――やっぱり、あの日だ。


「どうしたの」

「井出の沢、菅原神社の辺りにある」

 知っている。この先を、全部知っている。

「あの菅原神社? いつものお祭りの?」

「そう。帰り、行ってみようと思うけど、どうする?」

 朔が顔を上げた。机の向こうの自分を、まっすぐに見ていた。

 今日一日、背中しか見ていなかった顔だった。


〈待って〉


 声を出したつもりだったけれど、誰もこちらを見なかった。机の向こうの自分は、シャープペンシルを指で回しながら、窓の外の白い光を一度見た。暑そうだな、と思っている顔だった。宿題も残っている。いつもの神社だ。朔がまた何かに夢中になっている。それだけの顔だった。

「朔が一人で行けばいいじゃん。暑いからパス」


〈ダメ!〉

 千夏は机に手をついた。手のひらに、机の冷たさは伝わってこなかった。

〈行くって言って!〉


 机の向こうの自分は、もう問題集に目を戻していた。

 朔はまだ、机の向こうの自分を見ていた。


〈お願い、行くって言って……〉

 自分の声が、震えていた。

〈私が行く。行くから、ねえ、朔!〉


 朔は、本に目を落としながら言った。

「そっか」

 いつもの声だった。朔はそれきり何も言わず、また本を読み始めた。

* * *

 目を開けると、暗かった。冷房の音はしなかった。蝉もいなかった。四月の、自分の部屋だった。机の上のスマートフォンは伏せたまま、何の光も漏らしていない。


 息が、うまく吸えなかった。吸っても吸っても、胸の上のほうまでしか入ってこない。吸うたびに速くなって、速くなるほど足りなくなった。指先がじんと痺れてきて、千夏は布団の端を握った。握っている感覚が、遠かった。


 ゆっくり、と自分に言い聞かせるそばから、体のほうが先へ先へと息を急いだ。横を向いて、枕に顔を押しつけた。吐いた息と一緒に、声が漏れた。一度漏れると、もう止まらなかった。

 肩が勝手に跳ねて、枕カバーが熱く濡れていった。隣の部屋に聞こえないように、枕の端を両手で握りしめて、千夏は泣いた。

 枕に口を押しつけたまま、行くから、と言った。言葉は布に吸われて、どこへも行かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。