第38話 行くって言って!
スマートフォンが震えたのは、数学の問題集を三ページ進めたところだった。ひかり先輩からだった。
《朔くんの研究、受賞してよかったね!》
受賞、という二文字の意味が、すぐには入ってこなかった。千夏はシャープペンシルを置いて、もう一度読んだ。「朔くんの研究」とは、井出の沢のことだろう。分からないのは、その後ろだった。考えるより先に、指が動いていた。
《えっ、受賞ってなんですか》
送るとすぐに既読がついた。千夏は画面を見たまま待った。一分たっても、二分たっても、ひかり先輩からは何も来なかった。
朔とのトークを開いた。一番下には、春休みの終わりに来た《肉じゃが、母さんがうまかったって》と、自分の《よかった》が残っていた。それより下には、何もない。今日も一日、朔の背中を見ていた。出席番号順の席で、前を向けば必ず目に入る背中だった。帰りのホームルームが終わったあと、朔がどこへ行って、何があったのか、千夏は知らない。
でも、ひかり先輩は、知っていた。
去年の九月にも、同じようなことがあった。金井家でやった朔の自由研究発表会で、ひかり先輩が身を乗り出して、結局、理事長のご先祖だったの? と聞いた。千夏には何のことか分からなかった。夏のあいだ、二人は画面越しにずっとこういう話をしていたのだろうか、とあのとき思った。思っただけで、聞かなかった。今日は聞いた。
でも、答えは、返ってこなかった。
スマートフォンを伏せて、問題集に目を戻した。さっきまで自分がどう解こうとしていたのか、さっぱり分からない。当てずっぽうにシャープペンシルを動かしているうちに、式の途中に、受賞、と書いていた。千夏は消しゴムをつかんで何度もこすって、こすったところだけ、方眼の罫が薄くなって、黒い線はようやく消えた。
でも、文字の跡は、へこんだままだった。ホワイトデーに朔からもらったノートだった。
伏せたスマートフォンを表に返した。新着通知は一つもなかった。朔からも、ひかり先輩からも何もメッセージは来ていなかった。また伏せた。少しして、また返した。何度やっても、変わらなかった。望に聞けば何か分かるかも、とは思った。思っただけで、聞かなかった。何が分からないのかも、分からなかった。
電気を消して布団に入った。目を閉じると、朔の背中が浮かんだ。寝返りを打つと、枕の冷たいところに頬が当たった。泣いてはいなかった。目の奥だけが、ずっと熱かった。
何時になったのか分からなかった。天井の暗がりを見ているうちに、どこかで低い音がし始めた。冷房の音のような気がした。四月の夜に、冷房をつけた覚えはなかった。少し寒気を感じ、腕をさすろうとして、千夏は自分が立っていることに気がついた。そこは自分の部屋ではなかった。天井が、やけに高かった。白い蛍光灯が並んでいて、窓の外で、蝉が鳴いていた。
長い机の横だった。机の上には問題集が開いたまま散らばっていて、その一冊に、望が突っ伏していた。
「……終わらない」
望が、机に顔をつけたまま言った。
「課題の量、去年より明らかに増えてるよね」
答えたのは、望の向かいに座っている女の子だった。その声は、よく知っていた。Tシャツの肩が、冷房の風で少し揺れている。シャープペンシルを指で回す癖にも、見覚えがあった。女の子が顔を上げた。自分だった。
私、夢を見てるんだ――。
そう分かっても、目の前の場面は変わらず、続いていった。望も、机の向こうの自分も、すぐ横に立っている千夏には気づかなかった。
机の端には、分厚い本が何冊も積んであった。臙脂色の布張りの表紙に、『町田市史 上巻』と金文字が光っている。その隣で、朔がページをめくっていた。
――もしかして、これって……。
「朔、本当に歴史好きになったよね」
机の向こうの自分が、本を覗き込みながら言った。
「うん」
朔は本から目を離さずに、返事だけした。
「何調べてるの」
「井出の沢。古戦場。町田の」
「古戦場って、誰と誰が戦ったの?」
「北条時行と足利直義」
「……その人たちって誰?」
朔がようやく顔を上げて、話し始めた。鎌倉幕府が滅んだ二年後に、北条高時の息子が信濃で兵を挙げて――。いつもより早口だった。机の向こうの自分は、ふうん、という顔でシャープペンシルを回している。千夏は、一言も聞き逃したくなかった。
「それってもしかして『逃げ上手の若君』?」
「何それ」
「漫画。何で知らないの?」
朔は不満そうな顔をして、また本に目を落とした。
しばらくページをめくっていた朔の手が、ふと止まった。
「……マジで」
――やっぱり、あの日だ。
「どうしたの」
「井出の沢、菅原神社の辺りにある」
知っている。この先を、全部知っている。
「あの菅原神社? いつものお祭りの?」
「そう。帰り、行ってみようと思うけど、どうする?」
朔が顔を上げた。机の向こうの自分を、まっすぐに見ていた。
今日一日、背中しか見ていなかった顔だった。
〈待って〉
声を出したつもりだったけれど、誰もこちらを見なかった。机の向こうの自分は、シャープペンシルを指で回しながら、窓の外の白い光を一度見た。暑そうだな、と思っている顔だった。宿題も残っている。いつもの神社だ。朔がまた何かに夢中になっている。それだけの顔だった。
「朔が一人で行けばいいじゃん。暑いからパス」
〈ダメ!〉
千夏は机に手をついた。手のひらに、机の冷たさは伝わってこなかった。
〈行くって言って!〉
机の向こうの自分は、もう問題集に目を戻していた。
朔はまだ、机の向こうの自分を見ていた。
〈お願い、行くって言って……〉
自分の声が、震えていた。
〈私が行く。行くから、ねえ、朔!〉
朔は、本に目を落としながら言った。
「そっか」
いつもの声だった。朔はそれきり何も言わず、また本を読み始めた。
* * *
目を開けると、暗かった。冷房の音はしなかった。蝉もいなかった。四月の、自分の部屋だった。机の上のスマートフォンは伏せたまま、何の光も漏らしていない。
息が、うまく吸えなかった。吸っても吸っても、胸の上のほうまでしか入ってこない。吸うたびに速くなって、速くなるほど足りなくなった。指先がじんと痺れてきて、千夏は布団の端を握った。握っている感覚が、遠かった。
ゆっくり、と自分に言い聞かせるそばから、体のほうが先へ先へと息を急いだ。横を向いて、枕に顔を押しつけた。吐いた息と一緒に、声が漏れた。一度漏れると、もう止まらなかった。
肩が勝手に跳ねて、枕カバーが熱く濡れていった。隣の部屋に聞こえないように、枕の端を両手で握りしめて、千夏は泣いた。
枕に口を押しつけたまま、行くから、と言った。言葉は布に吸われて、どこへも行かなかった。




