第37話 ……ごめん。
「…………金井くん、少し」
そう言った図師先生は、抱えていた薄いファイルを少し持ち上げた。
「何ですか」
「…………この前の、研究賞の件です」
先生はそれだけ言って、社会科準備室の方へ歩き出した。朔も何も言わず、あとを追った。準備室へ入ると、机の上に何枚か紙が置いてあった。図師先生はその一番上を取って、朔に差し出した。
「…………おめでとうございます。奨励賞です」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。え、という声になっていない声を出して、朔は差し出された紙と先生の顔を見比べた。上の方に高校生部門とあり、少し下に中学生部門と書いてある。さらに目を下へ動かすと、自分の名前があった。
金井朔。その横には「湧水の地から合戦の地へ――史料にみる中世の井出の沢」。確かに自分の論文だ。
「……ほんとに?」
「…………はい」
図師先生はいつもの調子で頷いた。
「…………現地へ行って、自分で確認している点。それから、史料で確認できることと、推測にとどまることを分けて書いた点が、評価されたようです」
朔はもう一度、自分の名前を見た。
「…………表彰については、また案内が来るそうです。保護者の方にも伝えておいてください」
朔は紙を持ったまま、少し頭を下げた。
「先生、ありがとうございました」
「…………私は何もしていません。資料を渡しただけです」
その言葉と裏腹に、図師先生の顔は穏やかだった。
準備室を出て、階段を下りながら、朔はもう一度紙を見た。自分の名前は、消えていなかった。まだそこにあった。
「……マジか」
朔はスマートフォンを取り出した。そのままメッセージアプリを開き、「HIKARI」という名前をタップした。
《井出の沢のやつ、受賞した》
受賞者一覧の紙も写真に撮って、同時に送信する。
少しして、既読がついた。
* * *
高等部の昇降口で靴を履き替えていると、ひかりのスマートフォンが震えた。画面を開いて、思わずえっ、と声が出た。隣にいた澪が顔を上げる。
「何?」
「朔くん」
「……まさか、返事?」
澪が声を落として聞いた。ひかりは答えないまま、画面に指を走らせていた。頬が少し熱かった。
《ほんと!?》
すぐに返事が来た。
《ほんと》
ひかりは笑った。
《すごい!おめでとう!!》
そこまで送ったところで、澪がもう一度聞いてきた。
「朔、何だって?」
「井出の沢の研究。賞取ったって」
「え?」
澪が靴を履く手を止めた。
「賞?」
「うん。奨励賞だって。写真も来た」
ひかりが画面を向けると、澪は送られてきた一覧の写真を指で広げた。
「……ほんとだ。金井朔って書いてある」
「すごいよね」
「やるじゃん、あいつ」
澪は少し笑って、ローファーに足を入れた。まさか返事、と聞かれたことを、ひかりはそのときになってようやく思い出した。違ったね、とは、どちらも言わなかった。
* * *
帰りに、駅ビルの本屋へ寄った。澪が参考書を選んでいるあいだ、ひかりは何となく棚のあいだを歩いて、郷土史の棚の前で足を止めた。『町田市史』と背に書かれた、厚い本が並んでいる。
「ねえ、ひかり」
参考書を一冊抱えた澪が、横に来ていた。片手にスマートフォンを持っている。
「さっきの、家族のグループにまだ何も来てないんだけど」
澪は画面をこちらへ向けた。一番下には、昼に母親が送ってきた赤ちゃんの写真が残っているだけだった。
「私のとこにも、何も」
昇降口で画面が震えてから、もう一時間近く経っていた。
「……帰ってから、直接言いたいんじゃない?」
ひかりがそう言うと、澪は画面を見たまま、かもね、と答えた。
「あいつ」
小さくそれだけ言って、澪はスマートフォンをしまい、レジの方へ歩いていった。
* * *
夜、自分の部屋へ戻ってから、ひかりは机に向かった。机の上には、読みかけの文庫本が置いてある。その上に載せていたスマートフォンを手に取ると、澪からメッセージが来ていた。
《帰ったら、もう家中に言いふらしてた。しかも、私より先に、しーちゃんに!》
やっぱり、とひかりは少し笑った。それから、ほとんど考えないまま、千夏とのトークを開いた。
《朔くんの研究、受賞してよかったね!》
既読がつくのを待たずに、ひかりは続きを打ち始めた。《今度、みんなでお祝いしようよ》。最後の一文字を打ったところで、千夏の名前の横に既読がついた。返事が来たのは、その直後だった。
《えっ、受賞ってなんですか》
ひかりの親指は、画面の上で止まったまま動かなかった。入力欄には、送らなかった《今度、みんなでお祝いしようよ》が残っていた。やがて、それを一文字ずつ消していった。
朔とのトークを開いて、少し上へ戻った。
《赤ちゃん、おめでとう!》
《ありがとう》
《妹だった》
さらに下には、
《落ち着いたら、会わせてね》
《うん》
そこから画面を先へ送るのに、少し時間がかかった。
《井出の沢のやつ、受賞した》
その下に、紙を写した写真が一枚あった。
千夏とのトークに戻る。
《えっ、受賞ってなんですか》
その下には、何もなかった。入力欄も空のままだった。
ひかりはスマートフォンを、文庫本の上に伏せた。本の下から、紺色の紐が少しだけ垂れていた。
階下から、結が何か言って笑う声がした。ひかりは椅子に座ったまま、伏せたスマートフォンの角を見ていた。机の上で、スマートフォンが短く震えた。表に返すと、朔からだった。
《表彰式、六月だって》
《制服でいいらしい。スーツとか言われたらどうしようかと思った》
口元が、勝手に緩んだ。
緩んだまま、喉の奥が詰まった。
返事は、打てなかった。
画面が暗くなるまで、ひかりはそのまま、スマホを見ていた。
「……ごめん」




