第36話 新学期。
大きな泣き声で目が覚めた。枕元の時計は、まだ六時前を指していた。布団の中でしばらく聞いていると、廊下を歩く足音がして、泣き声が少しずつ小さくなり、かわりに低い話し声が聞こえてきた。母親なのか父親なのかは、壁越しでは分からなかった。朔はもう一度目を閉じたが、眠れなかった。
汐里が病院から帰ってきて、まだ四日しか経っていない。最初の二日は、夜に泣くたびに目が覚めた。昨日は一度しか起きなかったから、慣れてきたのかもしれないと思ったけれど、今朝のはもう二回目だった。横になったままスマートフォンを見ると、六時二分だった。
「……早い」
誰に言うでもなく呟いて、布団をかぶった。それから五分ほど天井を見て、結局そのまま起きた。
* * *
台所に下りると、澪はもう出たあとだった。高等部は始業式の前に何かあるらしく、去年から朝はいつも早い。志保は少し離れた椅子に座って、腕の中の汐里を見ていた。さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、今は目を閉じている。孝之がトーストを皿に置きながら、寝た? と小声で聞くと、志保も小声で、たぶん、と答えた。たぶんって何、と孝之が言い、しーちゃんに聞いて、と志保が返した。そのやりとりを聞きながら、朔はパンをかじった。
テーブルの端には、哺乳瓶とガーゼが置いてある。少し前までそこには、新聞とか、望の読みかけの本とか、自分のプリントが置いてあった。
「二人とも、今日始業式でしょ」
うん、と朔と望の声が重なった。
「もう三年生かあ、早いわね」
「お母さん、それ毎年言ってるよ」
望が言うと、志保は少し考える顔をした。
「じゃあ来年も言わないとね」
「来年は私たち、もう高等部だよ」
「だから言うんじゃない」
何の話だよ、と朔が言うと、志保は笑った。その腕の中で、汐里が小さく顔を動かした。朔と望と孝之が、同時にそちらを見た。
「……起きた?」
望が小声で聞く。
「まだ」
志保も小声だった。しばらく誰も動かなかった。汐里は一度口を開いて、また静かになった。孝之が、ほっとしたように息を吐いた。
「お父さん、今すごい顔してた」
「何だよ、すごい顔って」
望が笑い、朔も少し笑った。
「しーちゃんって、ほんとに寝てるときだけおとなしいよね」
「名前で呼ぶの、まだ慣れない」
朔が言うと、望が横目でこちらを見た。
「巴がよかった?」
「……別に」
「どうせ、巴御前とかから思いついたんでしょ」
「……巴御前の何が悪いんだよ」
「朔はね、最後まで粘ってたの」
志保まで乗ってきたので、朔は黙ってパンを口に入れた。孝之が汐里の顔を覗き込みながら、来週には、少しは落ち着くかな、と独り言のように言った。
「どうかな」
志保はそう答えて、汐里の額にかかった産着の端を直した。
朔は、パンを飲み込むのに少し時間がかかった。
「朔、遅れるよ。私もう出るからね。千夏と待ち合わせてるし」
望が鞄を持って立ち上がった。朔は時計を見て、残りの牛乳を飲んだ。
* * *
校門の前は、いつもより人が多かった。昇降口の横に貼り出されたクラス分けの前に、生徒がいくつも固まっている。朔、という声を聞いて振り返ると、千夏と望がいた。
「遅い」
「まだ時間あるじゃん」
「そういう問題じゃない」
「何が」
そこまで言ってから、千夏が朔の顔をじっと見た。
「……寝てない?」
「寝たよ」
「目、赤いけど」
「夜、泣くんだよ」
ああ、と千夏は頷いた。
「帰ってきたんでしょ。望から聞いた。よかったね」
その言い方も、笑い方も、いつもと変わらなかった。朔は千夏を見て、それから掲示の方へ目を戻した。
「汐里ちゃん、今度見せてね」
「見たいなら来れば」
千夏が一度、瞬きをした。
「……うん。望に言っとく」
「何で私経由なの」
横から望が口を挟む。
「だって望んちでしょ」
「朔もいるじゃん」
「そうだけど」
望が呆れたように笑い、千夏も笑った。掲示の前の人が少し減ったところで、三人で見に行った。最初に自分の名前を見つけたのは望だった。
「私、一組」
それから指を横にずらして、少し黙った。
「……朔と千夏、三組」
千夏が掲示を見上げた。朔も同じところを見た。三年三組の欄に、金井朔と成瀬千夏の名前が、何人かを挟んで並んでいた。今年は私が独りぼっちか、と望が小さな声で言って、確かめるようにもう一度、一組のリストを見ていた。千夏はしばらく三組の欄を見ていた。
「……同じだね」
「うん」
千夏はそれ以上何も言わずに、掲示の前を離れた。望がそのあとに続き、朔は少し遅れて、二人の後ろを歩いた。
* * *
新しい担任は、去年は理科を担当していた先生で、最初のホームルームで名前を黒板に書いたあと、春休みの課題は明日までに出すこと、係決めも明日、とだけ言った。新しい教科書を何冊も受け取ると、もう昼近くになっていた。
席は出席番号順で、千夏は朔より後ろの列になった。前を向いているかぎり、千夏の顔は見えなかった。教室を出ても、廊下にはまだ新しいクラスの話をしている生徒がたくさんいた。朔は階段を下りた。
春休みのあいだ、何度も考えた。千夏のことを考えようとすると、いつの間にかひかりの顔が浮かんでいて、ひかりのことを考えていると、今度は肉じゃがを持ってきた日の千夏の声がよみがえる。混ぜるな、と澪には言われたのに。
「……何なんだよ」
小さく呟いてから、来週には言おう、と思った。
分からない、はもう使えない。
* * *
靴を履き替えて外へ出る。高等部の校舎から続く道と合流するあたりまで来ると、見覚えのある二人が歩いてきた。
「あ、朔」
先に気づいたのは澪だった。その隣で、ひかりが小さく手を振った。
「朔くん。もう終わったの?」
「始業式だけだから」
「私たちも」
高等部の制服を着たひかりを見るのは、春休みを挟んだだけなのに、少し久しぶりな気がした。
「二年生になった?」
朔が聞くと、ひかりが眉を寄せた。
「なるでしょ」
「留年してたら一年生のままだし」
「まだ言う?」
「ひかり、それ去年の今ごろも言われてたよね」
澪が笑い、ひかりは呆れた顔をして、それから一緒に笑った。
「汐里ちゃん、どう?」
「どうって」
「お兄ちゃんでしょ」
「……それ、千夏にも言われた」
口に出してから、澪がちらりとこちらを見たのが分かった。ひかりは何も言わずに、朔を一度見ただけだった。
「別に、何も変わんないよ。夜うるさいくらい」
「赤ちゃんにうるさいって言わないの」
「聞こえてないし」
「そういう問題じゃないでしょ」
「母さんにも同じこと言われた」
ひかりが笑った。
「写真、澪にいっぱい見せてもらった」
「姉ちゃん、送りすぎなんだよ」
「送ってないよ。見せただけ」
澪が言うと、ひかりが、結も保存してたけどね、と言った。
「何で」
「かわいいからでしょ」
校門の外へ出たところで、道が分かれた。じゃあね、と澪が言い、ひかりも、またね、と言った。朔は、また、と返して、澪の少し後ろから付いていった。
* * *
翌日の放課後、朔は社会の教科書を机に入れたままだったことに気づいて、教室へ戻った。新学期二日目で忘れ物、と望に知られたら、絶対に何か言われる。
誰もいなくなった教室で机の中を探すと、教科書はすぐに見つかった。鞄へ入れて、今度こそ帰ろうと廊下へ出る。階段へ向かいかけたところで、向こうから、ゆっくりした足音がした。
薄いファイルを抱えた図師先生が、廊下の向こうから歩いてくる。朔は何となく、長くなる気がした。
案の定、目が合った。というか、自分を探していたような顔をしている。先生の足が止まった。
「…………金井くん、少し話が」




