第35話 新しい家族。
それから三日たった朝だった。鞄を提げた孝之が、いつもより慌ただしく玄関と居間を行ったり来たりしている。志保はソファーに腰を下ろしているが、心なしか顔色が青白い。朔が台所に下りていくと、焼けたトーストを一枚渡しながら、澪が、お母さん今から病院だって、と言った。
「予定よりちょっと早いけどね。病院に電話したら、来てくださいって」
志保はお腹に手を添えたまま、ゆっくり息を吐いた。
「お母さん、大丈夫なの?」
望が聞くと、志保は笑った。
「大丈夫。そんな顔しないの」
孝之が玄関から、そろそろ行こう、と声をかけた。
「じゃあ、行ってくるね。三人とも、お留守番よろしく」
澪が、うん、と答え、望も頷いた。朔だけが、まだ何も言えずにいた。
「朔?」
「……いってらっしゃい」
志保は少し笑って、行ってきます、と返した。玄関の扉が閉まって、三人はしばらく、そのまま立っていた。
「……ほんとに生まれるのかな」
「生まれるでしょ。赤ちゃんなんだから」
「それは分かってるけど」
「じゃあ何」
「……いや、何でもない」
澪が二人を見て笑った。
「とりあえず、朝ご飯食べよ。朔、パン持ったまんまだし」
朔はようやく、自分の手元を見た。
* * *
昼過ぎ、家族のグループに孝之からメッセージが届いた。
《生まれた。女の子です》
《お母さんも赤ちゃんも元気。少し早かったから、赤ちゃんはしばらく病院で様子を見るそうです》
生まれた、と最初に声を上げたのは澪だった。少し遅れて、写真が送られてきた。白い布にくるまれた赤ちゃんが、目を閉じて、口を少し開けている。顔は赤くて、眉間にしわが寄っていた。
「……ちっちゃ」
望がつぶやくと、澪が笑った。写真を拡大して、赤ちゃんの手を見ていた。
「……爪、ある」
「あるでしょ」
「こんな小さいのに、ちゃんとあるんだね」
朔も画面を拡大した。握った手の先に、確かに小さな爪が見えた。
澪が《お疲れさま。お母さんにもおめでとうって言って》と返し、望も何か打ち始めた。朔は画面を見たまま、しばらく考えて、《おめでとう》と送った。それから、少し足りない気がして、もう一通送った。
《早く会いたい》
今度は、すぐに既読がついた。
* * *
夕方、台所にいた由佳が、スマートフォンを手に居間へ出てきた。
「志保さん、生まれたって」
ひかりがソファーから身を起こすと、由佳は画面をこちらへ向けた。白い布にくるまれた赤ちゃんの写真に、《予定より早かったけど、二人とも元気です》と添えてあった。ソファーの後ろから、結が覗き込んできた。
「かわいい! 抱っこしたい!」
「まだ無理だよ。病院にいるんだから」
結は、えー、と口をとがらせた。膝の上で、ひかりのスマートフォンが震えた。澪からだった。同じ写真に、《生まれた! 妹!!!》と、感嘆符が三つも並んでいた。
ひかりは、朔とのトークを開いた。三日前の《誕生日おめでとう》と、自分の《ありがとう!》が、そのまま一番下に残っていた。
《赤ちゃん、おめでとう!》
少しして、返事が来た。
《ありがとう》
《妹だった》
ひかりは思わず笑った。
《知ってる。澪からも来たし、ママにも写真見せてもらった》
《そっか》
ひかりは、画面の下で光っている入力欄を見た。それから、ゆっくり打った。
《この前のことだけど、返事は》
そこで指が止まった。
急がなくていい、と書けば、急いでいることになる気がした。待ってる、と書けば、待たせていることを思い出させる気がした。ひかりは一文字ずつ消して、入力欄が空になるまで、画面を見ていた。
《落ち着いたら、会わせてね》
既読がついて、少しして返事が来た。
《うん》
消した一行のことを、朔くんは知らない。それでいい、とひかりは思うことにした。スマートフォンを膝の上に伏せた。
「朔くん、何て?」
いつの間にか、結が隣に座っていた。
「おめでとうって言ったら、ありがとうって」
「それだけ? 赤ちゃんの写真じゃなくて、メッセージの方ばっか見てた」
「……見てただけ」
台所から由佳が、ひかりお皿出して、と呼んだ。ひかりは、はーい、と返事をして立ち上がった。
* * *
翌日の昼前、インターホンが鳴った。望が玄関を開けると、千夏が両手で鍋を抱えて立っていた。
「お母さんが、持ってけって。肉じゃが」
「やった。ありがと」
「おじさん、料理できるの?」
「卵焼きは焦げてた」
千夏は笑った。鍋空けて返すからちょっと上がって待っててよ、と言って、望は鍋を抱えて台所へ入っていった。
千夏は靴を脱いで、リビングを覗いた。ソファーで本を開いていた朔が、顔を上げた。
「……おう」
「……おめでとう、お兄ちゃん」
「何だよ、それ」
朔が照れくさそうに笑うと、つられて千夏も目じりを下げた。
「だって、そうでしょ。写真、望に見せてもらった。ちっちゃいね」
「爪、ちゃんとあるんだよ」
「何それ」
台所から、水が流れる音と、食器の触れ合う音が聞こえていた。朔は、ソファーの端に腰を下ろした千夏の横顔を見た。
「……千夏。この前のことなんだけど」
千夏が、台所のほうへ一度目をやった。
「今、言えるの?」
小さな声だった。朔は、まだちゃんと、と言って止まった。
「じゃあ、言わなくていい」
「でも……」
「分かんない、はもう聞いたから。二回目はいらない」
千夏はそう言って、膝の上で手を組み直した。
「おばさんと赤ちゃんが帰ってきて、落ち着いてからでいいよ。……そのときは、ちゃんと言って」
朔は、一度頷いた。
「……分かった」
「なかったことにするわけじゃないからね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
千夏はようやく、いつもの顔で笑った。
望が、洗った鍋を持って台所から出てきた。はい、と千夏に渡してから、二人を見て、何、と聞いた。何でもない、と千夏が言った。
「赤ちゃんの名前、まだ決まってないの?」
「お母さんが帰ってきてから決めるって。でも朔が、変な名前ばっかり言うから」
「変じゃないだろ」
「歴史上の人物から取ろうとするの、やめてよ」
「女の人だっているだろ」
千夏が吹き出した。
「朔、妹にまで歴史押しつけるの?」
「押しつけてない!」
* * *
その夜、病院から帰ってきた孝之と四人で、志保とビデオ通話をした。画面の向こうの志保は少し疲れた顔をしていたが、声はいつもと変わらなかった。ちゃんとご飯食べてる、と聞かれて、望が、千夏の家から肉じゃが来た、と答えた。
「卵焼きは焦げてたけど」
「言うなよ」
孝之が言って、志保が笑った。
「赤ちゃんは?」
朔が聞いた。
「今は寝てる。まだちょっと小さいから、もう少し病院で見てもらうね」
「……そっか」
志保は画面の向こうで、首を傾けた。
「朔、妹できたね。どう?」
朔は少し考えた。
「……まだ、よく分かんない」
「そうでしょうね」
志保は笑って、帰ったらいっぱい顔見てあげてね、と言った。
通話が終わっても、しばらく誰も席を立たなかった。明日の朝、パンでいいか、と孝之が聞いて、三人とも、パン、と答えた。全員パンか、と孝之が笑った。
部屋に戻ってから、朔は昨日送られてきた写真をもう一度開いた。指で広げると、握った手の先に、小さな爪が見えた。




