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第34話 誕生日。

 三月も下旬に入った土曜日の午後、千夏は小さな紙袋を持って森野家の前に立っていた。インターホンを押すと、少しして結の声がした。

「千夏ちゃん?」

「こんにちは。ひかり先輩、いる?」

「いるよ。ちょっと待ってて!」

 玄関の向こうで、結が階段を駆け上がっていく音がした。お姉ちゃん、千夏ちゃん来た、と呼ぶ声が上から聞こえて、今度は二人分の足音が下りてきた。扉が開いた。


「千夏ちゃん、どうしたの?」

「お誕生日おめでとうございます」

 ひかりは一瞬きょとんとして、それから笑った。

「……わざわざ来てくれたの?」

「これ、渡したくて」

 紙袋を少し持ち上げると、ひかりは目を丸くして、入って入って、と千夏を招き入れた。台所から由佳が顔を出して、ゆっくりしていってね、と笑った。その横で、結がもう冷蔵庫の扉に手をかけている。ケーキはまだって言ったでしょ、と由佳に言われ、結は口を尖らせる。

「見るだけだもん。あ、せっかくだから千夏ちゃんも一緒に食べようよ!」

 今日はそんなつもりじゃ、と千夏は言ったけれど、せっかくだから、とひかりにまで言われると、もう断れなかった。

 結は満足そうに頷いて、じゃあお姉ちゃんの部屋にいて、と言った。何で結が決めるの、とひかりが言うと、だってお客さんでしょ、と返して、結はもう居間へ戻っていた。

「……千夏ちゃん、上行こっか」

「はい」

 千夏は靴を揃えて、ひかりの後に続いた。

* * *

 ひかりの部屋へ入るのは、初めてではなかった。本棚の上に、前も見た小さな写真立てが二つ並んでいる。一つは澪たちと撮ったもので、もう一つには、千夏の知らない人たちとひかりが写っていた。壁には、フランス語の書かれたカードが何枚か留めてある。


 適当に座ってよ、と言われて、千夏はベッドの端に腰を下ろし、紙袋を膝の上に置いた。十六歳になっちゃったよ、とひかりが自分で言って、自分で笑った。

「何ですか、その言い方」

「なんか、急に年取った気がして」

「昨日と何も変わらないでしょう」

「それを言ったらおしまいじゃん」

 千夏は紙袋から包みを取り出した。薄い水色の包装紙に、細い白いリボンがかかっている。

「ありがとう。開けていい?」

 ひかりがリボンを解き、包装紙を丁寧に開いた。細長い箱の蓋を取ると、薄い金属の栞が一枚、台紙に留められていた。小さな花の模様が刻まれていて、端に紺色の紐がついている。


「……これ」

 ひかりが顔を上げた。

「前に本屋さんで、言ってたじゃないですか。向こうで使ってた栞、引っ越しのときになくしちゃったって」

「……言ったっけ」

「言いました。紐がついてるやつだったって」

 ひかりは台紙から栞を外して、手のひらに載せた。紐を指でつまんで、少し揺らす。

「よく覚えてたね」

 たまたまです、という千夏の言葉が聞こえていたのかどうか、ひかりはもう机の上の文庫本を取って、真ん中あたりに栞を挟んでいた。本を閉じると、紺色の紐が下から少しだけ垂れた。

「ほら。ぴったり」

「そりゃ、本に挟むものですから」

「そういうことじゃないの。でも、大事に使うね」

「普通に使ってください。栞なんですから」

「じゃあ、大事に普通に使う」

「何ですか、それ」

 二人で笑って、それから、間が空いた。

* * *

「千夏ちゃん、春休みは何か予定ある?」

「特にないです。宿題くらい」

「私も似たようなものかな。澪とどっか行こうって話はしてるけど」

「……朔たちとは?」

 聞いてから、千夏は少し後悔した。

「特に約束してないよ」

 ひかりはそう答えて、机の上の本を少し動かした。千夏は膝の上で手を組んだ。栞をレジへ持っていったのは、三月十四日より前だった。今日は、それを渡しに来ただけだった。けれど、二人で笑って、何も知らないまま帰るのは、かえっておかしい気がした。


「……ひかり先輩。ホワイトデーの日、朔に会いました?」

 ひかりの手が止まった。

「……うん。会ったよ」

「私も会いました。お返しもらって」

 千夏はそこで一度、息を吸った。

「それで、好きだって言いました」


 ひかりは何も言わなかった。

「……そっか」

 ひかりは机の端の本を見ていた。口元が動いて、笑ったような顔になった。笑ったのではないことは、千夏にも分かった。

「あの日ね、朔くん、今日色々あって、って言ってたの」

「え?」

「私が、好きって言ったあと。色々って、千夏ちゃんのことだったんだね」

 淡々としたひかりの言葉に、千夏はすぐには返事ができなかった。そうかもしれないとは思っていた。それでも、本人の口から聞くと違った。

「……何時ごろですか」

「四時くらい。高等部の門のところで」

 校舎の脇で朔と別れたのは、たぶんその少し前だった。朔はあのまま、ひかりのところへ行ったのだ。

 自分のほうが、先だった。それが嬉しいことなのか、そうでないのか、千夏には分からなかった。


「朔くん、千夏ちゃんには何て言ってた?」

 適当に答えて済ませることもできた。千夏は、ひかりの目を見て言った。

「何て言えばいいか分かんないって。だから、ちゃんと言ってって言いました」

 ひかりが、少し目を見開いた。

「千夏ちゃんらしいね」

「ひかり先輩は?」

「今は答えられないって。ちゃんと考えたいからって」

 初等部からずっと隣にいれば、あの日の朔の気持ちは何となく察しがつく。返事を急いで、適当なことを言う人ではない。


「……どっちも、朔らしいですね」

 しばらく黙ってからそう言って、千夏は少し笑ってしまった。つられたように、ひかりも少し笑った。

「……ひかり先輩って」

「うん?」

 千夏は膝の上の手を見た。

「……ちょっと、ずるいなって思いました」

 ひかりが瞬きをした。

「私が?」

「ちゃんと考えたいって、言ってもらえたんですよね。私は、分かんない、だったのに」

 そう言ってから、千夏は口を閉じた。ひかりは何もしていない。そんなことは分かっていた。

「……すみません。嫌な言い方でした」

「うん。ちょっとだけ」

 ひかりはあっさり頷いて、本棚の上の写真立てに目をやった。千夏の知らない人たちと写っている方だった。

「でも私、ちゃんと言って、なんて言えなかったよ」

 ひかりの声が少し震えているような気がして、千夏は思わず顔を上げた。

「そういうこと言えるくらい、ずっと一緒だったんでしょ」

 千夏は何も言えず、二人はしばらく黙り込んだ。


「ねえ、一個聞いていい?」

「……何ですか」

「朔くんって、小学生のころ、どんな子だった?」

 千夏は、すぐには答えられなかった。

 ひかりのいなかった六年間。どの年に誰と同じ班だったかも、給食で何を残していたかも、千夏は覚えている。言おうと思えば、いくらでも言えた。

「……今日は、言いません」

「えー、何で」

「プレゼント、もう渡したので」

 ひかりは一瞬ぽかんとして、それから声を出して笑った。

「それ、ずるくない?」

「お互いさまです」

 千夏も、少しだけ笑えた。笑いが引くと、ひかりは机の上の本を手に取った。紺色の紐を指に一度巻いて、またほどく。


「……今日、来てくれて嬉しかったよ」

「誕生日ですから」

「うん」

「それとこれとは、別なので」

 ひかりは少しだけ目を細めて、そっか、と言った。

「これから、どうなるんでしょうね」

「分かんない。私も、分かんないよ」

 それはたぶん本当なのだろう、と千夏は思った。

 階段の下から、結の声がした。

「お姉ちゃん! ケーキ切るって!」

「はーい!」

 ひかりは返事をしてから、千夏を見た。

「行こ。結、待ってるから」

 部屋を出る前に、ひかりが振り返った。

「千夏ちゃん。ありがとうね、プレゼント」

「……どういたしまして」

 階下からは、早く早く、と結の声が聞こえていた。

* * *

 その日の夜、金井家では、朔がリビングのテーブルで春休みの宿題を広げていた。あの日以降、頭がうまく回らない。それでも研究賞の原稿だけは、先週どうにか図師先生に見てもらって、締め切りに間に合わせた。あれだけは、途中で放り出したくなかった。その代わりのように、宿題はさっぱり進んでいない。


「朔、そこ邪魔」

 澪に言われて顔を上げると、広げたプリントが、隣の席まではみ出していた。朔は黙って自分の方へ寄せた。

「静かだね、今日」

「いつも静かだけど」

「どこが」

 澪は笑いながら向かいに座った。台所では孝之が洗い物をしている。志保は部屋で横になっていた。望は自分の部屋で、誰かと電話しているようだった。


「ひかり、今日誕生日だったね。お昼に電話したら、千夏ちゃんが来てくれたって喜んでたよ」

 朔の手が止まった。

「……千夏が?」

「プレゼント持ってきてくれたって。朔は? おめでとうって言った?」

「言ったよ。メッセージで」

「ふうん」

 澪はテーブルの上のプリントを一枚取って、また戻した。

「さっきから同じページじゃない?」

「読んでる途中だから」

 朔はプリントへ目を戻した。千夏が、ひかりの家へ行った。しばらくして、朔はプリントを揃えて脇へ置いて、姿勢を正した。


「……姉ちゃん。ちょっと話、聞いてほしいんだけど」

「何? 急に真面目な感じになっちゃって」

 澪が茶化すように言っても、朔は何も返さなかった。澪もそれ以上は続けなかった。朔は、テーブルの上に目を落としたまま言った。

「……ちょっと前、千夏に、好きだって言われた。そのあと、ひかりちゃんにも」

「……いつ?」

「ホワイトデーの日。お返しを渡した時に」

「二人から? 朔に?」

「……俺しかいないだろ」

「そうだけど!」

 声が大きくなって、台所から、何かあったのか、と孝之が聞いてきた。何でもない、と澪が答える。朔は顔を伏せた。


「……声でかいよ」

 ごめん、と澪は両手で顔を覆って、それから、ゆっくり息を吐いた。しばらく黙っていたが、やがて、さっきより低い声で言った。

「……ひかり、お昼の電話で、そんな話ひとつもしなかったよ」

 朔は何も返せなかった。

「……俺、どうしたらいいんだろ。どっちに、何て答えればいいのか分かんない」

 澪は少し眉を寄せた。


「千夏ちゃんは千夏ちゃん。ひかりはひかりでしょ。なんで混ぜてんの」

 朔は顔を上げた。澪はそれ以上、説明しなかった。

 千夏には、ちゃんと返事をしてと言われた。ひかりには、ちゃんと考えたいと自分から言った。どっちも「ちゃんと」だった。それが同じことなのかどうか、朔にはまだ分からなかった。

「……じゃあ、どうすればいいんだよ」

「知らない。私が決めることじゃないもん」

「姉ちゃん、役に立たない」

「失礼な弟だなあ」


 洗い物終わったぞ、と孝之の声がする。澪はほんの少し笑って立ち上がり、朔の頭を軽く小突きながら、「逃げたら、怒るからね」とだけ言って台所へ向かった。

 朔はスマートフォンを取り出した。ひかりとのトークには、昼に送った《誕生日おめでとう》と、その下に《ありがとう!》が残っている。千夏とのトークは、しばらく何も動いていなかった。二つの画面を行き来して、朔は何も打たずに、スマートフォンをテーブルに伏せた。


 そのとき、寝室から、志保が孝之を呼ぶ声がした。孝之が手を拭きながら階段を上がっていく。少しして下りてくると、台所の澪とリビングの朔を順に見た。

「お母さん、ちょっとお腹が張るって。今日はもう寝るから、静かにな」

 澪が、朔の方を見た。朔は黙って頷いた。リビングが、急に静かになった。

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