第33話 ちゃんと言って。
三月十四日の朝、朔は机の端に置いてあった二つの紙袋を鞄へ入れた。教科書を少し寄せて、紙袋が潰れないようにする。
昼休みの二年二組では、何人かの男子が小さな袋を配っていた。千夏も朝から二つほど受け取っている。どちらも先月チョコを渡した相手で、ありがとう、と言えば、それで終わった。ただ、今日はまだ、朔とは会っていない。去年は、ホワイトデー当日に何かもらった記憶がある。たしか小さなクッキーの袋だった。朔から受け取って、望の分と並べて写真を撮った気がする。
今年もきっと何かくれるのだろう、と思いながら、数学のノートを開いた。日曜日に使い切って、望に貸していたものだった。今朝、返してもらった。最後のページを、もう一度確かめた。
* * *
放課後、望は係の仕事で職員室へ行くことになった。ちょっと待ってて、と言って望が教室を出ていってから、千夏は机に残っていたプリントを鞄へしまった。そこにいつも通り、朔が顔を出した。
「望なら職員室だけど?」
あえて、素っ気なく言った。知ってる、と朔は答えた。
「じゃあ何?」
「……ちょっと、いい?」
千夏は少し黙った。
「……うん」
廊下へ出ると、朔は階段の方へ歩き始めた。昇降口で靴を履き替えて、校舎の脇へ回る。どこまで行くの、と前を歩く背中に聞くと、朔は立ち止まった。
「……ここでいいか」
振り返って、鞄から小さな紙袋を取り出した。
「はい。先月の」
「あ……ありがと」
千夏は受け取った。紙袋の中には、小さな焼き菓子の箱と、薄いノートが一冊入っていた。これ……、と思わず声が漏れた。見慣れた細い方眼が並んでいる。
「千夏、これ使ってるだろ」
「……うん」
「この前、町田で見つけてさ」
「よく覚えてたね」
「ずっと同じの使ってるじゃん」
「そうだけど」
千夏は一枚めくって、また戻した。
「これ、どこで買ったの?」
「駅前の文房具屋」
「ああ、あそこ」
「うん」
「……そっか」
日曜日、望が町田で待たされていると言っていた。そういうことだったのか、と思った。紙袋の中の焼き菓子も、よく買うものだった。
「……ありがと」
これで終わりにすれば、後は望を待って三人で帰る。今朝までは、そうなると思っていた。でも、千夏は紙袋を持ったまま、歩き出さなかった。
「……朔」
千夏は紙袋を胸の前に抱えて、息を吸った。
「この前のチョコ、今年はちょっと変えたって言ったじゃん」
「ああ、うん」
朔が頷いた。
「やっぱり去年は三つだったよね」
朔はそう言って、少し笑った。千夏も笑いかけた。けれど、そこで止めた。ここで一緒に笑えば、また去年と同じになってしまう。それが嫌だった。
「……私、朔が好きだからあげた」
朔の笑顔が消えた。千夏は顔を上げたまま、続けた。
「毎年あげてたけど、今年はそういうつもりだった」
朔は何か言おうとして、口を閉じた。少し離れたところで、運動部の生徒たちが走っている声がした。千夏は待っていた。朔が困った顔をするかもしれない。先月、そう考えて言えなかった。今、目の前の朔は、その顔をしていた。それを見るのは、思っていたより辛かった。
「……ごめん。俺、今、何て言えばいいか」
「これ、嬉しいよ。それは本当」
千夏は紙袋を少し持ち上げた。
「朔が私のために選んでくれたんだって、よく分かる」
「……うん」
「でも」
朔がこちらを見た。
「私、これだけじゃ嫌。……返事、ちゃんと言って」
言えた、と千夏は思った。朔はまだ何も答えていない。それでも、言えた。
朔は黙っていた。それから、小さく頷いた。
「……うん」
「……じゃあ、教室に戻るから。そろそろ、望も帰ってきてると思うし」
「うん」
「また明日」
「……また明日」
千夏は校舎の方へ歩き出した。足が少し震えていることに気づいたのは、昇降口の手前まで来てからだった。
* * *
朔は千夏の後ろ姿を見送っていた。
――私、朔が好きだからあげた。
先月の茶色い箱。四つ入っていたチョコ。渡したとき、千夏は少し黙っていた。何か言いたそうにしていたのは、覚えている。でも、まさかこんな話だとは思っていなかった。ポケットの中で、何かが震えた。スマートフォンだと分かるまで、少しかかった。
《四時くらいなら大丈夫だよ》
ひかりからだった。朝、学校が終わったあと少し会えるかと送っていた。
《分かった。いつものとこで》
送信してから、朔はもう一度、千夏の歩いていった方を見た。
* * *
高等部の校門を少し離れたところで、ひかりは朔を見つけて片手を上げた。朔はこちらを向いて歩いてくるのに、手を上げ返したのは、ずいぶん近くまで来てからだった。待った、と聞かれて、今来たとこ、と答えた。本当は、十分くらい前から立っていた。
「今日、何か用事だった?」
「うん。これ」
朔はホワイトデーだから、と言いながら鞄から紙袋を出した。
「あ……そっか。今日だもんね」
さも今気づいたような声を出した。
「千夏ちゃんにも、もう渡したの?」
「……うん。さっき」
朔の返事は、少し遅れた。
「そっか。毎年だもんね」
朔は、うん、とだけ言った。
ひかりは袋の口を少し広げた。小さな焼き菓子の箱が一つ入っている。開けてみたい、と思って朔の方を見ると、頷いたような気がした。蓋を持ち上げると、レモンの形をした焼き菓子が、きれいに並んでいた。
「あ、レモン……。レモン味のお菓子なんだ?」
「そうみたい」
試食とかしなかったの、とひかりは笑った。
「うん」
「じゃあ何でこれにしたの?」
朔は少し考えるような顔をした。
「ひかりちゃん、レモンの飲み物よく飲んでるじゃん」
ひかりは、すぐには何も言えなかった。冬のコンビニで、冷蔵ケースの扉を開けた朔が、これだろ、と黄色いラベルを差し出したことがある。あのとき、自分が何を飲みたいのか、朔のほうが先に知っていた。
「……覚えてたんだ」
「そりゃ、何回も飲んでたし」
何でもないことのように、朔は言った。
先月、売り場を何度も行ったり来たりして、紺色の箱を選んだ。朔くんなら、どれを開けたら嬉しいだろう。ずっと、そればかり考えていた。そして、朔に聞かれた言葉が蘇った。
――自分で選んだの?
あの時は、これがいいと思ったから、としか言えなかった。
「ひかりちゃん?」
何でもない、と言いそうになった。先月も、そう言って済ませた。
「……ねえ、朔くん」
ひかりは箱の蓋を閉じた。
「先月、私に聞いたでしょ。自分で選んだのって」
「ああ……うん」
「あのとき、ちゃんと答えてなかった」
朔がこちらを見た。
「自分で選んだよ。朔くんのこと考えて、選んだ」
言ってから、ひかりは一度目を逸らした。先月の廊下では、ここから先が言えなかった。帰ってきて、もう二年になる。背が伸びたことにも、声が変わったことにも、もう慣れた。それでも、ときどき思い出す。小さな手で、自分の服の裾をつかんでいた男の子。ひかりは、もう一度朔の顔を見た。
「私、朔くんが好き」
一瞬、朔の目がひかりから外れて、来た道の方へ動いた。何を見たのかは、ひかりには分からなかった。目はすぐに戻ってきた。朔は、まだ何も言わなかった。
「帰ってきたときは、こんなこと考えてなかったんだよ」
しばらくして、朔が言った。
「……ごめん」
自分の顔が曇ったのが、ひかりにも分かった。朔が慌てたように首を振った。
「違う、そうじゃなくて。……今日、色々あって。ちゃんと考えたいから、今は答えられない」
色々、が何なのかは聞かなかった。
「……行こっか」
ひかりが言って、二人は歩き出した。いつもの分かれ道まで、どちらもほとんど話さなかった。並んで歩く速さだけは、いつもと同じだった。
また明日、と言い合って別れた。
少し歩いてから、ひかりは鞄から箱を出した。蓋を開けて、一つつまんで口に入れた。思っていたより、ずっと酸っぱかった。
* * *
家に着くと、リビングから望の声が聞こえた。
「朔、ね、明日の体育って合同だっけ?」
「……そうだったと思う」
「雨だったら体育館?」
「たぶん」
それだけ答えて、朔は早々に自分の部屋へ上がった。
鞄を開ける。朝、入れた二つの紙袋は、もうなかった。机の上には、井出の沢の資料が広げたままになっている。朔は椅子に座り、この前の続きのページを開いた。しばらく読んでから、もう一度、最初の行から読み直した。




