第32話 何にしよう。
三月に入って、駅前の売り場が少し変わった。二月には赤や茶色の箱が並んでいた場所に、今度は白や水色の袋が増えている。ホワイトデー、と書かれた札の下には、焼き菓子やチョコレートが並んでいた。
朔はその前で、一度足を止めた。そういえば、もうそんな時期だった。
先月もらったチョコは、二つとも食べた。千夏のは四つ入っていて、少し曲がっていた白い線のことを本人に言ったら、曲がってない、と言い返された。ひかりのは何種類か入っていて、どれから食べるか少し迷ったが、どれも美味しかった。朔は売り場を少し眺めた。同じものを二つ買えば簡単だ。でも、何となくそうする気にはならなかった。スマートフォンを取り出した。
《望、日曜って町田行く?》
しばらくして、返事が来た。
《何で?》
《ホワイトデーの買い物》
変な顔の猫のスタンプが届いた。
《私も文房具屋行きたいから一緒に行く》
* * *
日曜の午後、朔と望は町田駅前にいた。
まず文房具屋ね、と言った望は朔の返事を聞かず、先に店へ入っていった。文房具屋の二階には、ノートや手帳、筆記具が並んでいる。望はいつものようにペンの棚へ向かい、朔はその奥のノートの売り場で足を止めた。罫線の幅が違うものや無地のもの、方眼のものが並んでいる。ふと一冊取って開くと、千夏が使っているのと同じような方眼ノートだった。ただ、千夏のはもう少し細かかった気がする。近くの棚に、表紙が薄いグレーのノートがあった。中を開くと、見覚えのある細い方眼が並んでいる。
「あ、これだ」
何となく声に出た。千夏は初等部のころから、こういうノートを使っていた。数学の途中式をきれいに揃えて書くのに便利らしい。以前、朔が借りたときに余白へ適当に書いたら、怒られたことがある。朔は迷わずそれを籠へ入れた。ついでに焼き菓子も買えばいいだろう。
「朔、これ見て」
望がペンを二本持ってやってきた。
「どっちがいいと思う?」
「何が違うの?」
「色」
「……同じじゃん」
「全然違うし。こっちが青で、こっちがブルーブラック」
「好きな方買えば」
「参考になんないなあ」
そう言いながら、望はブルーブラックの方を籠へ入れた。
「朔もここで買うの?」
「お菓子にするつもりだけど」
そう言った朔の籠に入っていたノートに、望は何も言わなかった。
* * *
文房具屋を出てから、二人は駅ビルの焼き菓子の売り場へ寄った。朔は棚の端の小さな箱を、迷わず一つ取った。
「千夏、これ好きだよな」
「うん。よく食べてる」
朔はそれを包んでもらい、店の紙袋に、さっきのノートも一緒に入れた。それで一人分は済んだ。問題はここからだった。
「で、ひかりちゃんって何が好きなの」
朔が聞くと、望がこちらを見た。
「……それ聞くために私呼んだの?」
「まあ」
「知らないよ。ひかりちゃんの好きなのとか、私分かんないし」
朔は棚へ目を戻した。クッキーにチョコレート、飴、マドレーヌ。小さな箱が並んでいて、包装もさまざまだった。一つ手に取ると、少し大きい気がした。別のものは、箱が派手すぎた。値段を確かめて、元に戻す。また別の箱を手に取って、裏の説明を読んで、また戻す。隣で、望がスマートフォンをいじり始めた。棚の端から端まで二往復したところで、望が顔を上げた。
「……まだ決まんないの?」
「もうちょっと」
「さっきも言ってた」
「分かってるよ」
望はため息をついて、棚を見回した。
「てか、クッキーかチョコかで選ぶから決まんないんじゃない? 好きな味とかで選べばいいじゃん。私、いちご味なら何でも良いし」
「望には聞いてない」
「参考に言っただけ」
望は少し笑って、終わったら連絡して、と言って雑貨売り場へ向かっていった。
千夏の分は、ノートもお菓子も、考える前に手が伸びた。じゃあ、ひかりちゃんには、何がいいだろう――。
好きなものなら、いくつか知っている。甘いもので嫌いなものがあるという話は聞いたことがない。フランスのお菓子については、以前、結が何か言っていたが、名前を忘れてしまった。好きな味、と言われても、すぐには出てこなかった。朔は一度、売り場を離れた。
* * *
その頃、千夏は自室で机に向かっていた。数学の問題集を開いて、ノートに途中式を書き込んでいく。すべての問題を解き終わって、間違えたところに小さく印をつけたところで、ノートの残りがあと一枚になっていたことに気付く。もう一冊、使っていないのがあったはずだから、後で出しておこう。そう思って、千夏は赤ペンを置いた。
朔にチョコを渡してから、もう三週間近く経っている。何も変わっていない。学校では普通に話したし、望と三人で帰ることもあった。朔が忘れたプリントを教室まで届けたこともあった。チョコの白い線が曲がっていたことも指摘されたし、四つあったことも、たぶん数えていた。朔は変なところで細かいし、昔のことまでよく覚えている。
――毎年のやつだから。
今なら、あんなふうには言わないかもしれない。でも、今さら、そうじゃない、といつ言えばいいのだろう。
スマートフォンが震えた。望からだった。
《来週の数学の小テスト、範囲どこまでだっけ》
《七章の最後まで》
《六章じゃなくて? ヤバい…》
《ノート見せようか?》
《お願い!》
《明日持ってく》
《ありがと。今、町田で待たされてる》
誰に、とは書いていなかった。千夏も聞かなかった。返事を送ってから、机の端のノートを取った。望に見せるなら、もう少し途中式を整理しておいた方がいいかもしれない、と思って解説と照らし合わせた。
一通り直し終わると、ノートは最後のページまで埋まっていた。千夏はそれを閉じて、机の端へ置いた。
* * *
「お姉ちゃん、ホワイトデーに湊、何くれるかな」
日曜日、午前中からやっていた宿題をようやく片付け終わった結が、声を弾ませて言った。私に聞かれても知らないよ、とひかりは軽くあしらった。
「聞いてみよっか」
「それはダメ!」
ひかりの言葉に、結は不思議そうな顔をした。
「何で?」
「……何でって。もらうときに分かるのがいいんでしょ」
言ってから、思ったより大きな声だったことに気づいた。結はしばらくひかりの顔を見ていたが、ふうん、と言って、テレビのリモコンを取った。
「お姉ちゃんも、誰かからもらうの?」
「さあ」
「朔くんとか」
「……何でそこで朔くんなの」
「だって、チョコあげたんでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあ、聞いてみれば?」
「だから、ダメだって」
結は笑って、テレビをつけた。ひかりは少し黙ってから、手元の本へ目を戻した。
朔が何か返してくれるかどうかは、分からない。去年はどうだっただろう。何かもらったような気もするけれど、あまり覚えていない。今年は、どんなお返しでも、きっと覚えている。
そう考えて、本を一ページめくった。しばらくして、手が止まった。先月、金井家の廊下で朔を呼び止めたときのことを思い出した。階段の途中で振り返った顔。
――何?
あのあと、何を言うつもりだったのかは、自分ではもう分かっている。
「お姉ちゃん」
「何?」
「テレビ、見てないなら変えていい?」
「私がつけたんじゃないでしょ」
そっか、と結は笑って、チャンネルを変えた。ひかりは、本の同じ行をもう一度読み直した。
* * *
少し歩いたところで、別の菓子店が目に入った。こっちにもあるのか、と思いながら、朔は店の前へ行って、並んだ箱を一つずつ見ていった。小さな箱を取って、値段を確かめる。悪くない。でも、ほかにもあるかもしれない。元に戻しかけたところで、スマートフォンが震えた。
《まだ?》
《もうちょっと》
《何回目》
《もうすぐ》
送信してから、朔はもう一度、棚を見た。隣には、黄色い箱も並んでいる。少し迷ってから、そちらも手に取った。好きな味、と望は言っていた。朔は両手の箱を見た。しばらく見比べて、結局、もう片方を棚へ戻してレジに向かった。店員が、包装はどうされますか、と聞いてきた。用意された見本を見て、普通ので大丈夫です、と答えた。店員は少し笑って、承知しました、と手早く箱を包んだ。
待ち合わせの場所へ戻ると、望はベンチに座って、何分待ったと思ってるの、とむくれていた。それから面倒くさそうに立ち上がって、朔の持っている紙袋を見た。
「買えた?」
「うん」
望はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ帰ろ。ついでに、お母さんに頼まれてたおつかいもね」
望がスマートフォンを見せた。志保からのメッセージだった。
《リストのほかに、余裕があったらお米も。朔がいるけど、無理しないでね》
「……俺が持つ前提じゃん」
「お母さん、今お米なんて持てないんだから。お兄ちゃんでしょ」
「双子だろ」
望は笑って、先に歩き出した。
結局、米の袋は朔が肩に担ぎ、ほかの細かいものを入れたスーパーの袋は望が持った。朔はもう片方の手に紙袋を提げていた。途中で、米を反対の肩へ移そうとすると、紙袋が米の袋に押されて傾いた。
「それ、潰れるよ。貸して」
望が手を出した。朔は紙袋を一度見てから、渡した。望はスーパーの袋と反対の手にそれを提げて、揺らさないように歩いた。家に着くまで、中を覗くことはしなかった。
* * *
夜、朔は買ってきたものを机に並べた。
包装された小さな袋が二つ。千夏の分には、ノートも入っている。間違えないように、袋の中身をもう一度確かめた。これなら大丈夫だろう。
机の端へ並べてから、図師先生にもらった資料を取り出す。応募するかどうかは、まだ決めていない。それでも、井出の沢について、もう一度最初から整理してみようと思っていた。募集要項の締切の日付を確かめて、朔はノートを開き、今日の日付を書いた。しばらくして、消しゴムを取ろうと手を伸ばしたところで、紙袋の一つに指が触れた。少し端へ寄せる。もう一つも、同じように寄せた。
それから、資料の続きを読み始めた。




