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選んだあとも、選ばれなかったあとも。  作者: 9ry5hrk_2we


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32/42

第31話 毎年のやつ。

 二月十四日。放課後の二年二組は、いつもより少し賑やかだった。

 机の上には小さな袋が並べられ、隣の席の子と交換したり、その場で開けたりしている。いかにもな、バレンタインデーだった。普段なら先生に注意されるお菓子も、この日ばかりは大目に見られていた。千夏も昼休みまでには、クラスの友達にはだいたい配り終えていた。中身は同じで、袋の色が違うだけだ。


 千夏の机の端に、小さな紙箱が一つ置いてあるのを見つけ、望が、それまだ残ってるじゃん、と言ってきた。明らかに包装が違うのに、望は誰に渡すかまでは聞いてこない。

「いつ?」

「……あとで」

 望はふうん、と言って、自分の鞄へ目を戻した。


 千夏は紙箱を手に取った。クラフト紙の蓋には、小さなリボンを一つだけつけてある。あの晩、最後に蓋を閉じてから、もう一度開けることはしなかった。中身は覚えている。ほかの袋より一つだけ多い。

 渡すこと自体は、別に初めてではなかった。去年も、一昨年も、同じように渡した。朔は毎年、ありがと、と言って受け取った。そのあと何か話したかもしれないけれど、覚えていない。たぶん、どうでもいい話だったのだろう。

 今年も、それでいいはずだった。


 紙箱を鞄にしまう。少しして、もう一度取り出して、机の端に戻した。望は教科書を鞄にしまいながら、何も言わなかった。

 しばらくして、朔がいつも通り二組へ顔を出した。

「望、帰る?」

「千夏がまだ片づけてる」

「もう終わるよ」

 千夏は教科書を鞄に押し込んだ。机の中を一度見て、忘れ物がないことを確かめる。それから、机の端に置いてある紙箱へ手を伸ばし、これ、と言いながらそれを差し出した。

 朔は一瞬、箱を見て、それから、ああ、今年も作ったんだ、と言った。

 そこで、言葉が止まった。朔はまだ箱を見ている。何か言うのを待っているようにも見えた。今年はちょっと違うの、と言うつもりだった。それくらいなら言える、と昨日の夜には思っていた。けれど、口から出てきたのは、普通の声だった。

「……毎年のやつだから」

 朔は箱を受け取り、少し持ち上げてみた。

「あれ、今年は箱なんだ」

「……うん」

「去年は袋だったよね」

「そうだっけ」

「そうだったじゃん。みんなと同じやつ」

 千夏は朔の顔を見た。覚えているんだ、と思った。だったら、今年は違うことも、分かるのだろうか。

「……今年は、ちょっと変えたの」

 ふうん、と言いながら朔は箱を裏返しかけて、元に戻した。

「中身も違うの?」

「……だいたい同じ」

「だいたい?」

 千夏は少し黙った。朔の分だけ、ほかより一つ多く入れた。朔の分だけ、箱にした。そう言うことはできた。

 どうして、と聞かれたら――。


「……食べれば分かるでしょ」

「そりゃそうだけど」

 朔が笑った。千夏も笑おうとして、少し遅れた。

「ありがと」

「……うん」

 朔は紙箱を鞄に入れた。ほかの教科書が倒れかかって、いったん箱を取り出す。一番上にあった薄いファイルをどかし、そこへもう一度入れ直した。千夏はその手元を見ていた。望が鞄を肩にかけた。

「二人とも、もう帰れる? 私、文房具屋寄りたいんだけど」

「また?」

「またって何。先月一回行っただけじゃん」

「じゃあ俺パス。先帰る」

「えー」

「文房具屋で三十分とか、無理」

 朔はそう言って、先に教室を出ていった。廊下の向こうで、誰かに、金井、チョコいくつもらった、と聞かれて、知らない、と答えている声がした。千夏も、立ち上がった。

* * *

 文房具屋は、町田の駅前にある。望は入るなり、ペンの棚の前から動かなくなった。千夏は少し離れて、付箋やノートの並んだ棚を見るともなく見ていた。替え芯を二本手に取りながら、望は聞こえるか聞こえないかくらいの声で、渡せたじゃん、と言った。

「渡したよ。いつも渡してるし」

 望はそれには何も言わず、今度は色の違う替え芯を比べ始めた。千夏は、目の前のノートの表紙を指でなぞった。


 ――毎年のやつだから。

 どうして、あんなことを言ったのだろう。違うものにしたのは、自分だった。袋ではなく箱にして、チョコを一つ増やして、あれだけ迷った。それなのに、朔には毎年と同じだと言ってしまった。

 今年は、と言えば、その続きを聞かれる。続きを言えば、明日から、三人で帰れなくなるかもしれない。朔が困った顔をするかもしれない。笑わなくなるかもしれない。今さら、追いかけて訂正するわけにもいかない。気がつくと、同じノートの表紙を、何度もなぞっていた。

「ねえ千夏、聞いてる? これどっちがいいと思う?」

「……左」

「やっぱり?」

 望は満足そうに左を籠へ入れた。


 会計を待つあいだに、望が思い出したように言った。

「そうだ。土曜日に千夏が持ってきたボウル、うちに置いたままだよ。湯せんはこれじゃないとやだって、わざわざ持ってきたやつ。今日、持って帰る?」

「……今日?」

「別に明日でもいいけど。でもお母さんが、気にしてたから」

「……じゃあ、寄ってく」

* * *

 玄関の開く音がして、ただいま、と朔の声がした。

「おかえりー」

 ひかりはプリントから顔を上げて、居間の入口の方へ声を返した。朔が入ってきて、テーブルの上をのぞき込む。澪と二人がかりでも、数学の課題はまだ半分も進んでいなかった。難しいの、それ、と朔が言うと、ひかりは、朔くんにはまだ分かんないと思う、と返した。


 冷蔵庫へ向かった朔の背中を一度見てから、ひかりは鞄へ手を伸ばした。土曜日に町田で買った箱は、朝からずっと鞄に入れてあった。学校へ持っていって、帰りにそのまま金井家へ来た。家を出る前にも、包装が潰れていないか確かめた。澪には朝から、今日渡すの、と聞かれていた。そのために買ったんじゃん、と答えたら、それ以上は何も言われなかった。紙袋を取り出したところで、澪と目が合った。澪は何も言わず、手元のプリントに目を戻した。

 ひかりは小さく息を吐いて、椅子から立ち上がった。

「朔くん、ちょっとこっち来て」


 朔がコップを持ったまま近づいてくる。ひかりは紙袋の中から、紺色の箱を取り出した。細い金色の線が入っている。

「はい」

 差し出されて、朔は箱を見た。

「……俺に?」

 その言い方が、少し意外だった。朔くんのために選んだんだから、と言おうとして、やめた。

「バレンタインだから」

「ああ……」

 朔は箱を受け取った。

「ありがと」

「うん」

 ひかりは少し笑った。

 去年も渡したし、ありがと、と言われた。今年だって同じことをしている。

 違うのは、自分が土曜日の公園で、澪にあんなことを言ってしまったことくらいだ。

 ――好きじゃないとは、言えないかな。

 好きじゃないとは言えない相手が、自分の選んだ箱を持っている。

「もっと何かないの?」

「ありがとうって言ったじゃん」

「それは聞いたけど」

「じゃあ何て言えばいいんだよ」

 そう聞き返されて、ひかりは言葉に詰まった。

「……別に。何でもない」

 結局、そう言った。朔が少し笑ったので、ひかりも笑った。それから、箱を持ったまま、朔がこちらを見た。

「ひかりちゃん、これ、自分で選んだの?」

「そうだけど」

「ふうん」

「……それだけ?」


 朔はもう一度箱を見た。

「……何となく。どうしてこれにしたのかなって」

 ひかりは一瞬、返事に困った。土曜日の売り場が浮かんだ。一つ目は大きすぎた。二つ目は派手すぎた。三つ目は悪くなかったけれど、ナッツが多そうだった。

「……これがいいと思ったから」

 朔はもう一度、ありがとう、と言った。ひかりは頷いた。もう少し聞いてくれてもよかったのに、と思ってから、自分でも面倒くさいと思った。

「じゃ、私、課題の続きやるから」

「うん」

 席へ戻ると、澪がこちらを見ていた。

「さ、そろそろ二問目終わらせなさいよ。全部で十問あるんだから」

 澪が笑いながらプリントを指さす。ひかりはペンを取り上げたが、しばらく問題を眺めたままだった。


 ちょうどそのとき、台所から志保が顔を出した。

「朔、帰ってたの? 悪いけど、ちょっとこっち手伝って」

「何?」

「上の棚のもの取ってほしいの。お母さん、今あんまり背伸びしたくないから」

「姉ちゃんいるじゃん」

「澪は勉強してるでしょ」

 朔は紺色の箱とコップを台所の入口の棚に置いて、志保の方へ行った。ひかりはプリントへ目を戻した。どうにか二問目を終わらせて、三問目の問題を読みかけたところで、朔が戻ってくる足音がして、手が止まった。

「じゃ、俺上行くから」

 ひかりが顔を上げた。もう行ってしまうのだ、と思った。別に、今日だけしか会えないわけではない。明日も下校の時に、そして今度また金井家へ来れば、いつものように話せる。それでも、今日はこのまま終わりにしたくなかった。


 ひかりは椅子から立って、廊下まで追いかけた。

「……朔くん」

 階段に足をかけていた朔が振り返る。ひかりは息を吸った。


 好き。


 その二文字が、急に喉の近くまで上がってきた。

 昔の約束のことを、朔は思い出すだろうか。自分だって、帰ってきたばかりのころは、朔をまだ小さな男の子だと思っていた。その朔に、今、好きだと言おうとしている。もし、ひかりちゃんは昔からそういうこと言ってたじゃん、なんて笑われたら。そこまで考えたところで、朔が首を傾げた。

「……何?」

 ひかりは一度、唇を結んだ。

「……チョコ、あとで食べてね」

「食べるよ」

「うん」

 朔は何でもないことのように答えた。

「じゃあ、またあとで」

「……またあとで」

 朔はそう言って、階段を上がっていった。ひかりは、その後ろ姿が見えなくなるまで待っていた。


 言わなかった。言わなければ、朔くんは、いつもの朔くんのままでいてくれる。それなのに、なかなか居間へ戻れなかった。

「……ひかり?」

 居間から、澪が呼んだ。

「あ、ごめん」

「何が?」

「……何でもない」

 席へ戻り、プリントを引き寄せた。三問目の途中から、何をしていたのか分からなくなっていた。

「……で、これ、どうやるんだっけ」

「三問目?」

「うん」

「さっき説明したじゃん。二問目と同じやり方だってば」

「……もう一回」

 澪は少し笑って、ひかりのプリントを自分の方へ引き寄せた。ひかりはペンを持ち直した。

* * *

 玄関には、見慣れたローファーがあった。

「お母さん、千夏のボウルどこにある?」

 望は奥へそう言いながら靴を脱ぐ。千夏も、お邪魔します、と小さく言って後に続いた。望が台所へボウルを探しに行った。千夏は居間の入口で、それを待つことにした。ダイニングテーブルでは、澪とひかりがプリントを広げていた。

 千夏に気づいたひかりが、いらっしゃい、と顔を上げた。澪もペンを持ったまま、小さく手を振る。千夏は会釈を返して、台所の方へ目をやった。望が戸棚を開けたり閉めたりしている音がする。


 台所の入口には、低い棚がある。その上に、飲みかけの麦茶のコップが一つと、小さな箱が一つ置いてあった。紺色の包装に、細い金色の線が入っている。千夏はその箱を見た。見るつもりはなかった。ただ、目の高さにあった。

 あ、とひかりの声がした。振り返ると、ひかりもその棚の方を見ていた。

「それ、朔くんの。置いてっちゃったんだ」

 ひかりはあっさりそう言って、それから、少し困ったように笑った。

「あとで食べてねって言ったのに」

「……そうなんだ」

「千夏ちゃんも、渡した?」

「うん」

 千夏はうなずいた。

「毎年のやつですけど」

 今日、二度目だった。ひかりは少し黙った。

「……毎年、か」

 そう言って、またプリントへ目を落とした。何か書こうとしてペンを動かしかけ、やめる。千夏は、その横顔を見ていた。土曜日のカフェで、毎年? と聞き返してきたときと、同じ顔をしている気がした。


「あったよー」

 望が台所からボウルを持って出てきた。ついでのように棚の上を見て、あ、と言う。

「朔ー! なんか忘れてるー」

 階段の上で戸の開く音がして、朔が下りてきた。望が棚の箱を指さす。朔は、ああ、と言って、それを手に取った。

「あれ、千夏。来てたんだ」

「ボウル取りに来ただけ」

「ふうん」

 朔は紺色の箱を片手に持ったまま、もう片方の手で麦茶のコップを取った。それから、ひかりの方を見た。

「ごめん、忘れてた」

「……あとで食べてね」

「食べるって」

 さっきも聞いたよ、と言いながら、朔はまた階段を上がっていった。千夏は、その手の中の箱が見えなくなるまで見ていた。

 教室で、朔は自分の箱を鞄に入れた。倒れかかった教科書をどかして、一番上に入れ直した。あの箱は、手に持ったまま上がっていった。


「千夏、はい」

 望がボウルを差し出した。

「……ありがと」

 千夏は、お邪魔しました、と言って玄関へ向かった。またね、とひかりの声が後ろから聞こえて、千夏も、またね、と返した。

 外は、少し暗くなりかけていた。

 ボウルを両手で抱え直す。土曜日に、望と二人でチョコを溶かしたボウルだった。

 洗ってあって、少しも甘い匂いはしなかった。

* * *

 夜、宿題を終えた朔は、机の上を片づけていた。社会のノートを閉じ、理科の問題集を本棚へ戻す。明日の時間割を確かめて、鞄に教科書を詰め直した。机の端には、小さな箱が二つ置いてあった。一つは茶色い紙箱。もう一つは紺色で、金色の線が入っている。朔は椅子に座って、二つを見た。

 先に手を伸ばしたのは、千夏の箱だった。リボンを解いて蓋を開ける。中には小さなチョコが四つ並んでいた。表面に白い線が引いてあって、一つだけ、その線が少し曲がっている。

「……千夏、こういうとこ気にするんだよな」

 独り言が出た。もし本人に言ったら、曲がってない、と返してくるだろう。そう思うと、少し笑えた。

 去年は三つだっただろうか。思い出そうとしたが、はっきりしなかった。確か袋に入っていて、望が、私のと同じじゃん、と言ったような気がする。蓋を閉じかけて、手を止めた。

 ――今年は、ちょっと変えたの。

 そう言ったときの千夏の顔が浮かんだ。

 いつもの千夏だった。たぶん。でも、いつもなら、あんなところで黙っただろうか。夕方も、ボウルを取りに来ただけだと言って、すぐに帰っていった。いつもなら、望と一緒に少しはしゃべっていく。朔はしばらく箱を見ていた。蓋を閉じ、リボンを箱の下へ敷いて、机に戻した。


 隣の紺色の箱にも、手を伸ばす。細い金色の線は、途中で一度も途切れずに箱を一周していた。持ち上げかけて、やめた。

 ――自分で選んだの?

 そう聞いたら、ひかりは、そうだけど、と答えた。考えてみれば、当たり前のことを聞いたのだ。ひかりが自分で選んだのでなければ、誰が選んだというのだろう。

「……何聞いてんだろ」

 小さく呟く。それでも、ひかりがどんな顔でこの箱を手に取ったのか、何となく気になった。あとで食べてね、と二回言われた。一回目は、何か別のことを言いかけていたような気がする。朔は金色の線を、指で一度だけなぞった。


 少しして、茶色い方の蓋がきちんと閉まっていないことに気づいた。蓋の端を押さえて、ずれていたリボンを直す。

 明日の英語のプリントを鞄へ入れ忘れているのを思い出し、机の引き出しを開ける。取り出したプリントは、端が少し折れていた。まあいいか、と伸ばして、鞄へ入れた。もう一度机へ戻る。二つの箱は、さっきのままだった。

* * *

 数日後、朔はまた社会科準備室に呼ばれていた。

「…………金井くん。この前の続きなんですが」

 机の上には、見覚えのある地図と、先月見せられた小山田氏の系図が広げてあった。その中に一枚、見慣れない書類が混じっている。

「…………研究賞の募集要項です」

 朔の視線に気付いて、図師先生はそう言った。

「賞?」

「…………ええ。中学生や高校生が取り組んだ地域の歴史研究を対象にしたものがありまして。……金井くんの自由研究に少し追記して、応募してみてはどうかと」

「でも、去年のやつですよ」

「…………問題ないでしょう。追記するんですから」

 図師先生の表情は心なしか柔らかかった。

「…………当然ですが、まだ調べられることはありますね。現地の史跡と文献との関係も、もう少し丁寧に書けるでしょうし。……小山田氏についても、史料で確かめられるところと、そうでないところを分けた方がいいですね」


 そこから話が武蔵武士の方へ流れていきそうになったので、朔は先に口を開いた。

「先生」

「…………はい」

「応募するかどうか、まだ決めてないんですけど」

「…………そうですか」

 先生は少し残念そうな顔をした。それから、机の上の資料を揃え始める。

「…………無理にとは言いません。ただ、挑戦してみる価値はあると思いますよ」

 そう言って、図師先生は資料の束を差し出した。朔が受け取ると、思っていたよりずっと厚かった。

「これで全部ですか」

「…………ひとまず」

「ひとまず?」

「…………はい」

 先生は当然のように頷いた。朔はしばらく資料を見て、それから鞄へしまった。

「…………何かあれば、聞いてください」


 準備室を出て、廊下を歩きながら、朔は鞄を少し持ち上げた。さっきまでより、明らかに重くなっている。

「……ほんと、終わんないな」

 そう呟いて、階段を下りた。

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