第29話 好きなの?
二月の土曜日、町田駅前はいつもより人が多かった。改札を出たところから、赤や茶色の紙袋を提げた人が目についた。駅ビルに入ると、一階の催事スペースはほとんど全部がチョコレート売り場に変わっている。普段は通路になっているところにまで棚や台が並び、箱の上にはリボンや小さなハートがいくつも飾られていた。
人多いね、とひかりが言うと、隣を歩いていた澪が、だからもっと早く来ようって言ったのに、と応じた。
「まだ十一時半」
「そういう問題じゃない」
「別にいいじゃん。望ちゃんたちとの待ち合わせ、二時でしょ?」
「そうだけど」
「ほら」
「何がほらなの」
二人が言い合っている横を、結は気にせず先へ進んでいった。少しして一つの売り場の前で足を止め、ひかりと澪が追いついたときには、もう小さな箱を手に取っていた。
「私、これにする。湊、こういうの好きそうだし」
青い包装紙に、細い白いリボンがかかっている。もう決めたんだ、と聞くひかりに、結は笑顔でうなずいた。他も見て比べなくて大丈夫、と澪が聞いても、結は箱をもう一度眺めただけだった。
「だって、これがいいと思ったから」
そのまま箱を籠に入れると、パパの分と自分の分も買う、と言って試食コーナーへ走っていった。
「早いなあ」
感心したように言う澪に、何にも悩んでないよね、と答えながら、ひかりは棚に並んだ色とりどりの箱へ目を戻した。即決した妹と比べて、自分はさっきから手に取っては戻すのを繰り返している。去年も、朔の分は選んだはずだった。けれど、こんなに何度も同じ棚の前を行ったり来たりした覚えはない。
候補は三つくらいあった。一つ目は少し大きすぎた。二つ目は箱が派手すぎる気がした。三つ目は悪くなかったけれど、ナッツが多そうなのが気になった。
「どうせおじさんと朔くらいでしょ? そんなに悩まなくてもいいじゃない」
澪にそう言われて、父親の分をすっかり忘れていたことに気づき、ひかりは恥ずかしくなって別の棚へ目を移した。それからもしばらく、売り場を行ったり来たりした。気がつくと、澪の手にはきれいに包装された箱が二つあった。まだ空の籠を提げているひかりを見て、澪は少し呆れた顔をした。
「ひかり、まだ悩むの?」
「そんなに経ってないでしょ」
「もう十分以上見てる」
手に取った箱を見比べたままのひかりに、澪は諦めたようにため息をついた。
結局、小さな箱を取った。紺色の包装に、細い金色の線が入っている。派手ではないし、少なすぎもしない。これならいい、と一つ抱えたところで、結が戻ってきた。
「あれ、一つでいいの?」
そう聞いた澪に、だってパパのは結が選んでるから、と答えてから、ひかりはその言葉の意味に気づいた。
「……じゃあ、朔用?」
その名前を聞いて、結がひかりの手元を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、それ朔くんのなの?」
ひかりが答えないでいると、結はそのまま、当たり前のことのように聞いた。
「朔くんのこと、好きなの?」
「何でそうなるのよ」
思わず言い返すと、結は不思議そうに首を傾げた。
「だってバレンタインでしょ」
ひかりは結から目を逸らして、手元の箱を見た。
「そういうのじゃないから」
「ふうん」
結はそれ以上聞いてこなかった。すぐ隣に動物の形をしたチョコを見つけて、パパにはこれでいいかな、と今度はそちらを手に取っている。さっきの話には、もう興味がないらしかった。
――別に、好きじゃない。
それを言えば済んだはずなのに、口には出なかった。
澪は、さっきからずっと黙っていた。
* * *
買い物を終えて外へ出ると、澪が望に連絡を入れた。短いやりとりだったが、向こうはまだしばらくかかりそうだった。どうする、と澪が言うより早く、いつもの大きい公園に行きたい、と結が言い出した。澪の視線がひかりへ向く。
「ああ、坂の下の公園。確か、芹ヶ谷公園だったよね」
それで行き先が決まった。
駅前を離れると、人の数は急に減った。坂を下って公園へ入る。葉の落ちた木が多く、冬の芝生はところどころ色が薄い。晴れてはいたが、日陰へ入ると風が冷たかった。結は遊具を見つけるなり、二人を置いて走っていった。転ばないでよ、と澪が言っても、分かってる、と返事をしただけで振り返りもしない。
二人は少し離れたベンチに座った。澪が手袋を外してスマートフォンを見る。ひかりも鞄からスマートフォンを出したが、特に見るものはなく、そのまま膝の上に置いた。結は遊具の階段を上っていき、頂上まで行くとこちらを見て手を振った。
「結、元気だね」
「小学生だから」
「私たちもあれくらいだったじゃない。その頃は知らないけど」
「かもね。澪は今でも割とあんな感じだけど」
「失礼だなあ」
二人は目を見合わせて笑った。結はその後も長いすべり台へ行ったり、同い年くらいの女の子を見つけて一緒に走り回ったりして、しばらく二人のところへ戻ってこなかった。
風が吹いて、手をコートのポケットへ入れたとき、ひかりは少し前の帰り道を思い出した。
冷たかった手。自分から取った手。気づいた瞬間に離した手。あのあとも、学校で会えば話すし、図師先生の話を聞かされたり、澪と三人で歩いたりもする。あのとき触れた手だけを、ときどきこんなふうに、不意に思い出す。
「ひかり。ねえ、ひかりってば」
二度目でようやく気づいて、ひかりは顔を上げた。
「何?」
「いや。ぼーっとしてたから」
「ちょっと考えてただけ」
澪は少し迷ったように口を閉じ、遊具の方へ目をやった。それから、もう一度ひかりの方を見て、少し声を落とした。
「……ねえ。さっきの話、マジなの?」
「さっき?」
「朔」
ひかりは少しだけ黙った。
「あれは結が勝手に言っただけじゃん」
「……でも、否定してなかったよね」
「したよ?」
「……そうかな」
澪は前を向いたまま言った。
「いや、だって朔だよ?」
「知ってるよ」
「私の弟だよ?」
「……そうだね」
「……ひかりが朔をそういうふうに見るとか、考えたことなかった」
「……私も、考えたことなかった」
それは本当だった。いつも自分の後ろをついてきた朔。写真の中にいた小学生の朔。帰国して最初に会ったとき、声が変わっていて驚いた朔。今の朔は、そのどれとも少しずつ違う。
「……帰ってきたばっかりのころさ」
「うん?」
「みんな、フランスのこと聞いてきたでしょ。朔くんだけ、あんまり聞かなかったんだよね」
澪は首を傾けて少し考えた。
「……あいつ、単に興味なかったんじゃない?」
「かもね」
ひかりは笑った。
「でも、ちょっと楽だった。別に何にも聞かないくせに、昔の変なことは覚えてるし」
「ああ。朔、そういうとこあるね」
「……それでさ」
そこで、言葉が一度止まった。
高等部へ上がれなかったら、フランスへ戻るかもしれない。澪と示し合わせてそんな嘘をついたときの、朔の顔を思い出す。
「前に、私がフランスに戻るかもって言ったこと、あったじゃん」
「……ああ」
「朔くん、すごい焦ってたよね」
「私にはすごく怒ってた。しばらく口きいてこなかったし」
「うん」
ひかりは少し笑って、それから声が小さくなった。
「……あれ、ちょっと嬉しかったのかも」
あのとき、そんなことを考えた覚えはなかった。帰り道に何度か、朔の声を思い出しただけだった。
「そういうのじゃないと思ってたんだけどね。朔くんだし。昔から知ってるし。年下だし。でも……」
紙袋の中の、紺色の箱に目をやる。
「…………好きじゃないとは、言えないかな」
隣で、澪のコートが小さく擦れた。
「お姉ちゃん! 澪ちゃん!」
結の声がして、二人とも顔を上げた。いつの間にかすべり台のてっぺんまで登っていた結が、大きく手を振っている。
「見てて!」
「見てるよー」
ひかりが返すと、結は勢いよく滑り降り、最後に少し尻もちをついた。それでもすぐに立ち上がって、もう一度階段へ走っていく。
「……何がしたいの、あの子」
「さあ……。でも、小学生らしくて可愛いじゃない」
ひかりは笑って、もう一度コートのポケットに手を入れた。
今度は、さっきほど冷たくなかった。




