第27話 知らない手。
十二月も半ばを過ぎた日曜日、ひかりは机の上に三枚のハガキを並べていた。一枚目は雪の積もった鳥居、二枚目は椿の枝にとまった小鳥、三枚目はこたつから顔を出した猫の絵だった。
「それ、誰に送るの?」
ベッドに寝転がっていた結が聞いた。
「ルイーズと、エマと、カミーユ」
「フランス語で書くの?」
「フランスに送るんだからね」
「お姉ちゃん、日本語使えって言ってたくせに、フランス語なんだ」
「何でわざわざ日本語なの」
ひかりは笑って鳥居のハガキを手に取り、これはエマかな、と呟いて宛名から書き始めた。三人とは、日本に帰ってきてからも折々にカードを送り合っているし、普段はメッセージアプリでもやりとりしている。ただ、時差があるせいで、返事が翌日になることが増えた。エマとルイーズの分を書き終え、カミーユに何を書くか考えているうちに、返信しようと思ったままになっていた彼からのメッセージを思い出した。
最近の授業のこと。新しくできた友達のこと。学校でよく聞かれること。どんな進路を選ぶか、まだ迷っていること。そのいちばん最後に、短く書いてあった。
《Et toi ?》
ひかりはそこで指を止めた。
――私はどうするのか、か。
高等部に入って、まだ一年も経っていない。それでも、中等部のころと違って、授業には明らかに大学の「学問」を意識した内容が増えてきた。興味のあること、来年度のこと、その先のこと。嫌でも考えさせられる。カミーユ宛にしようと決めた猫のハガキを持ったまま、ひかりは考えた。
小山田に戻って、澪と毎日会えて、結も新しい学校に馴染んでいる。金井家へ行けば、志保がいて、望がいて、朔もいる。それでも、もしあのままフランスにいて、カミーユたちと同じ教室にいたら、今ごろ自分は何を選んでいたのだろう。
「お姉ちゃん?」
結の声で顔を上げると、ペン先がハガキの上で止まったままだった。何、と聞き返して、ひかりは続きを書いた。学校は楽しい。みんな元気。こっちは寒い。そのくらいでいい気がした。書き終えたハガキを重ねていると、三枚だけ、と結が聞いた。
「うん」
「澪ちゃんには送らないの? 望ちゃんとか、朔くんにも」
ひかりの手が止まった。
「今年は書かないよ」
「何で?」
「だって、みんな近くにいるじゃない」
ふうん、と言って、結はそれ以上聞かずにスマートフォンへ目を戻した。ひかりは三枚のハガキを揃えて、机の端に置いた。
* * *
冬休みが明けて、最初の一週間が過ぎたころだった。放課後もかなり遅くなってから、朔は一人で中等部の校舎を出た。足取りは重かった。新学期早々、図師先生に呼び出された。何かと思えば、「…………これは君も興味を持ってくれると思うのですが」といつもの口調で、町田の郷土誌や武蔵武士の系図をまとめた史料集を何冊も渡された。少し早口になった先生に、井出の沢と小山田氏に関係しそうな記述があるはずだから、と言われたその日から、昼休みと放課後に社会科準備室で該当しそうな箇所を探しては付箋を貼り、必要なページをコピーする作業が続いている。今日は最後に、さらに二冊増えた。
「…………一応、これは課題ではありませんから、安心してください」
そう言われたが、何が安心なのか、朔にはよく分からなかった。
いつもの道を歩く。一人だと、なんとなく手持ちぶさただった。高等部から来る道と合流するところまで来て、朔は歩く速度を落とした。高等部の女子生徒が何人か歩いてくる。一人、二人、三人。知らない顔だった。朔は、そのまま立ち止まった。後ろからまた何人か来たが、今度は男子ばかりだった。もう一度だけ高等部の方を見ると、人影はもう見えなくなっていた。
家の方へ歩き出したところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。澪からだった。魂が抜けていくヒヨコのスタンプと一緒に、《物理の補習が延長戦突入。遅くなるって言っといて》とある。続けて、机に突っ伏しているひかりの写真が届いた。《何撮ってんの》と返してから、ひかりにも《まだ補習?》と送った。すぐに既読がついた。
《帰りたい》
《こっちは図師先生帰り。そっちはあと何分?》
《先生次第》
《じゃあ分かんないじゃん》
スマートフォンをポケットに戻して、また歩き出した。しばらく歩いてから振り返ったが、高等部から続く道には、やはり誰もいなかった。
* * *
それから何日か経った。その日は朝から特に冷え込み、昼になっても気温がまったく上がらなかった。朔はこの日も社会科準備室で作業をして、一人で帰っていた。高等部からの道との合流点を過ぎて少し行ったところで、後ろから呼ばれた。
「朔くん、一人なの?」
ひかりだった。
「図師先生帰り。ひかりちゃんは、今日も補習?」
「そう。でも今日は、私は先に解放された」
澪ちゃんはまだだけど、とひかりは少し得意そうに付け加えた。
「図師先生も補習なの?」
「…………補習ではありませんね」
朔がいつもの口真似をすると、二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、個人授業みたいな?」
「夏休みの自由研究、もっと掘れるんじゃないかって、図師先生のスイッチが入っちゃった感じ」
「大変?」
ひかりが少し顔を寄せて、朔を覗き込んだ。目が合いそうになって、朔は反対側へ顔を向けた。
「まあ、面白くないわけじゃないし」
「…………それは、楽しんでいますね」
今度はひかりまで口真似をした。似てない、朔くんよりは似てる、それはないよ、と言い合っているうちに、学校からずいぶん遠くまで歩いていた。
空は晴れているのに、風だけが冷たかった。ひかりは制服の上に着たコートの袖へ、両手を半分ほど引っ込めている。歩きながら、袖の中で指を握ったり開いたりしているのが、朔にはなんとなく気になった。
「手、冷たいの?」
「冷たい」
「手袋は?」
「忘れた」
「朝から寒かったじゃん」
「持って出たと思ったんだけど」
「それ、どっかに忘れたんじゃないの」
「たぶん家」
「じゃあ持って出てないじゃん」
「うるさいなあ」
ひかりは袖の中へ指を引っ込めて、しばらく黙った。
「そういえば朔くん、図師先生から大学の話とかされる?」
「先生の学生時代ってこと?」
「違う違う。大学で歴史やらないか、とか、そういうの」
「……まだ中二なんだけど」
「でも好きなんでしょ?」
「好きだけど。それとこれとは別だろ」
「じゃあ将来、何やりたいの?」
「知らない」
「何にも?」
「ひかりちゃんは決まってんの?」
「……それを言われると困るな」
ひかりは困ったように笑って、また少し黙った。
「この前、カミーユにも聞かれたんだよね。来年どうするとか、その先どうするとか」
「フランスの人?」
「うん。向こうも最近、そういう話するみたい」
「その人は決まってんの?」
「まだ迷ってるって」
「じゃあ同じじゃん」
そうなんだけど、と言いながら、ひかりは少し先の道へ目をやった。
「もしフランスにいたら、違うこと考えてたのかな、って」
「違うこと?」
「学校も違うし、選ぶものも違うでしょ。たぶん」
朔は少し考えた。
「でも、今はこっちだし。こっちで考えるしかないんじゃないの」
「簡単に言うね」
「だって分かんないし」
「分かんないのに言ったの?」
「うん」
そっか、と言って、ひかりは目を細めた。
風が吹いた。ひかりは立ち止まって肩をすくめ、また袖の中で指を握った。寒すぎだよ、とつぶやいたひかりに、朔はポケットから片手を出してみせた。
「俺はそんな冷たくないけど」
「ずっとポケット入れてたからでしょ」
ひかりがその手に触れた。あったかい、と言って、そのまま朔の手を取って歩き出した。朔は半歩遅れて歩き出し、歩幅を合わせながらひかりを見た。ひかりは何でもないように前を向いている。握られた指先だけが冷たくて、手のひらの真ん中は、自分の手の熱でだんだん温まっていった。
「それでさ、カミーユが――」
話はそのまま続いた。向こうで通っていた学校のこと。仲のよかった先生が辞めるらしいこと。カミーユが相変わらず背を伸ばしていること。エマが最近、料理にはまっていること。いつもより頭に入ってこなかった。それでも朔は、ところどころで返事をした。
ひかりの方は、しばらくそれに気づかなかった。
話の途中で、指先がもう冷たくないことに気づいた。視線を落とすと、自分の手の中に、朔の手があった。昔なら、何でもないことだった。道を渡るときも、公園へ行くときも、ひかりはよく朔の手を取った。遅い、と言って引っぱったこともある。六歳の朔の手は、自分の手で握れば隠れてしまうほど小さかった。けれど、今握っている手は違った。指は長く、手の甲も大きい。知らない手だった。
ひかりの視線につられて、朔も手元を見た。ひかりは手を離した。朔も何も言わず、その手をポケットへ戻した。
「……それで?」
朔が、何事もなかったかのように言った。
「何が?」
「カミーユ。途中だったじゃん」
「ああ」
ひかりは一瞬だけ考えて、さっきの続きを話そうとした。けれど、どこまで話したのか分からなくなって、黙り込んだ。
そのまま無言で歩いているうちに、いつもの分かれ道に着いた。
「……じゃあ、また明日」
「……うん」
ひかりは手を上げて、自分の道へ曲がった。少し歩いてから、コートの袖の中で、手を一度だけ握った。




