第26話 赤ちゃん。
夕食の途中だった。
「……赤ちゃん?」
志保が話し始めると、朔はそう聞き返した。
春には生まれる予定であること、女の子の可能性が高いこと、もう少し早く話してもよかったけれど、ちゃんと大丈夫だと分かるまでは黙っていたこと。志保がひとつずつ説明しているあいだ、朔は箸を持ったまま母の顔を見ていた。隣では澪も目を見開いている。平静を装っている孝之の向かいで、望だけが黙ってご飯を食べていた。
「……全然分かんなかった」
箸をテーブルに置いて朔がつぶやくと、そりゃそうだよ、と望が当たり前のように返し、そのまま味噌汁をすすった。その言い方が何となく引っかかって、朔が望の顔を見ていると、志保が笑った。
「お父さん以外だと、望も知ってたのよ」
澪も、朔と同じように望を見た。少し前に気づかれてたの、と志保は続けた。
「言ったんじゃなくて、見つかったの」
澪と朔の顔を見比べて、志保は少しはにかんだ。
「由佳には私から言いたいから、ひかりちゃんや結ちゃんには、まだ言わないでね。明日には話すから」
三人は黙ってうなずいた。あと一日だけ秘密ね、と志保が笑った。
「そういえばお母さん、朔にだけは特に秘密って言ってたよね」
望がいたずらっぽく笑うと、何で俺だけ、と朔がふてくされた。だって今みたいにすぐ顔に出るじゃん、と追い打ちをかけられて、朔は志保の方を見た。澪が噴き出し、孝之まで肩を震わせていた。
そこから先は、まだ生まれてもいない妹の話になった。名前をどうするか、誰が世話をするかに始まって、自分たちが赤ん坊だったころの服はまだ残っているのかというところまで広がった。
夕食が終わって部屋へ戻ろうとしたところで、望が思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。お母さん、千夏には言っていい?」
「学校で言うんでしょ。ならいいわよ」
分かった、と言って、望は今度こそ自分の部屋へ戻っていった。
* * *
翌日の昼休み、教室で弁当を広げながら、望はさりげなく千夏の顔を見た。期末試験が終わってから、千夏はいつも通りに見えた。ただ、試験前の図書室に朔が来なくなってからというもの、二人が並んで話しているところを、望はほとんど見ていない。どちらに聞いても、別に、と言われるのは分かっていた。
「そういえば、春に妹が生まれるんだ」
昨日見たテレビの話でもするような口調で、望は言った。
「……妹?」
箸を持ったまま目を見開いた千夏を見て、昨日の朔みたい、と思わず口に出た。千夏には聞こえていないようで、目をぱちくりさせている。
「妹って、望の? それとも朔の?」
言ってから自分でも気づいたらしく、千夏は少し遅れて口元を押さえた。望は一拍置いて吹き出した。
「びっくりしたの!」
千夏はそう言い訳しながら、いつ生まれるの、女の子ってもう分かるの、と立て続けに聞いてくる。望がひとつずつ答えていると、教室の入口に朔が現れた
「望、理科の資料集貸して」
いつもの口調でそう言いながら机の横まで来て、そこで千夏と目が合った。朔は言葉に詰まり、千夏も一度、弁当箱に目を落とした。
先に顔を上げたのは千夏だった。
「朔、妹できるんだって? おめでとう」
朔は一瞬きょとんとしてから、ありがとう、と少し照れたように笑った。それから、机の中を探っている望を指さして、すぐに付け加えた。
「望は昨日までみんなに隠してたんだよ」
「言ってなかっただけじゃん」
平然と返す望に、それを隠してたって言うんだろ、と朔が言い返す。千夏が、少し責めるような口調で横から口を挟んだ。
「でも、家族のことなんだから、よそで何でも言っていいわけじゃないでしょ」
「違うって。こいつ、家の中でも誰にも言ってなかったんだよ」
望はにやりと笑った。千夏が止まった。
「こいつだけ知ってたんだよ。俺も姉ちゃんも、昨日まで知らなかった」
朔が言うと、千夏はゆっくり望の方を向いた。
「……望だけ?」
「うん」
「いつから?」
「ちょっと前」
「何で?」
「気づいてたから」
「何それ!」
さっきまで望をかばっていた千夏の声が変わった。でしょ、と朔が嬉しそうに乗ってくる。二人に同じような顔で見られて、望は納得のいかない顔をした。
「何で二人ともそっち側なの」
「だって望だけ先に知ってたんでしょ?」
「そう。しかも自分で気づいたんだよ、こいつ」
なぜか朔まで得意そうだった。どういうこと、と聞く千夏に、望は仕方なく説明した。コーヒーを飲まなくなったりとか、重いものを持たなくなったりとか、いろいろ気になってたから。名探偵望ちゃんじゃん、と千夏が噴き出し、朔もつられて笑った。
「でも、それなら朔だって気づけたんじゃないの?」
「澪姉ちゃんも無理だったんだし、俺は悪くないよ」
「良い悪いじゃないよ。朔、意外と見てないんだね」
「だったら千夏も知らなかったじゃん」
「私は一緒に住んでないじゃん」
「じゃあ俺だけ不利じゃん」
「何なのそれ」
二人で勝手に言い合いを始めたのを見て、望は弁当の残りに戻った。ついさっき、目が合っただけで黙った二人だとは思えなかった。
そのうち妹の話は、名前はもう決めたのか、朔はちゃんと世話をするのか、と先の方へずれていった。何で俺だけ、と朔が言い、だって一番危なそう、と千夏が笑う。そうしているうちに、話題はいつの間にか理科の小テストに移っていた。
「その小テスト、今日だよ」
望が言うと、朔の顔が止まった。
「……今日?」
「だから資料集借りに来たんじゃないの?」
「……そうだけど?」
絶対今知ったじゃん、と千夏が笑った。資料集を抱えて教室を出ようとする朔の背中に、今から見るの、と声をかける。見る、と朔が答える。間に合わないでしょ、と言われて、うるさい、と言い残し、朔は廊下へ出ていった。
「絶対忘れてたよね」
「うん、忘れてたね」
二人でそう言って、顔を見合わせた。
* * *
同じころ、志保は由佳に電話で妊娠を伝えていた。電話を切ったあと、由佳は通話の終わった画面が暗くなっても、スマートフォンを手にしたまま座っていた。
夕方、先に帰ってきたひかりがリビングに入ると、由佳はキッチンに立っていた。ただいま、おかえり、と返事はいつも通りだったけれど、冷蔵庫を開けたまま、中をじっと眺めている。
「ママ? 何探してるの?」
「……何だっけ」
私に聞かれても分かんないよ、とひかりが笑うと、由佳もそうよね、と笑って冷蔵庫を閉め、何か思い出したようにまた開けた。大丈夫、と聞くと、大丈夫、大丈夫、と言いながら、どこか嬉しそうなのが余計に変だった。
しばらくして、湊と遊びに行っていた結も帰ってきた。キッチンへ来て、今日何、と鍋を覗き込もうとし、見ないの、と追い払われて、ひかりの隣に座る。そのあいだも由佳はあちこちをうろうろしていて、夕食の支度はあまり進んでいないようだった。今日のママ変だよね、と結に耳打ちされて、ひかりはしばらく黙ってから口を開いた。
「ママ、どうしたの。体調悪いなら、私がやるから」
真剣なひかりの目を見て、由佳はようやく自分が心配されていることに気づいたらしく、笑った。
「ちょっと嬉しいことがあっただけ」
「何?」
いつもの調子で答えかけて、由佳は鍋をかき混ぜる手を止め、二人の方へ振り返った。
「……今日ね、志保から電話があったの。赤ちゃんができたんだって」
え、とひかりが聞き返した。結は意味を飲み込むまで少しかかったようで、ひかりを見て、それから由佳を見た。
「……朔くんのママに?」
「そう」
「赤ちゃん?」
「そうよ」
結の目が丸くなった。朔くん、弟できるの、と聞かれて、女の子の可能性が高いんだって、だから妹ね、と由佳が答える。えー、と今度はちゃんと分かった声が上がった。ひかりも驚いたまま、いつ生まれるの、と聞いた。
「春だって」
「じゃあ、もう結構……」
「うん。ちゃんと大丈夫って分かるまで、志保も言わないでいたみたい」
そっか、とひかりは言って、それ以上は聞かなかった。結はもう、生まれたら会えるの、抱っこしていいの、と先の話を始めている。まだ生まれてもいないのよ、と由佳は笑った。
「朔くんたちは知ってるの?」
「昨日話したって」
「びっくりしただろうなあ」
ひかりがそう言うと、由佳がまた笑った。
「朔くんは全然気づいてなかったって。望ちゃんは、少し前から気づいてたんですって」
望ちゃん凄い、と結が感心したように言い、本当にね、志保もびっくりしたって、と由佳はまた鍋に向き直った。
夕食のころには、結は赤ちゃんの名前まで考え始めていた。ひかりは途中から聞いているだけになった。由佳は笑いながら二人の話を聞いていたが、結が自分の赤ちゃんだったころのことを聞き始めると、少しだけ、考え込むような顔をした。




