第25話 ちょっと近い。
「だからそこでミスってるんだって」
隣に座っている朔のノートを覗き込んで、千夏は言った。
「先にこっち計算してるから、あと全部ずれてる」
「でも答え合ってるし、いいじゃん」
「たまたまでしょ」
正解は正解じゃん、と朔は不貞腐れた顔をした。そんなこと言うならもう教えない、と千夏が返すと、今度は朔が千夏の問題集を指さした。
「千夏だって、さっき俺に聞いたじゃん」
「あれは分かんなかったから」
「お互い様じゃん」
「それとこれは違うでしょ」
向かいでその様子を見ていた望が、二人とも勉強しなよ、と笑った。
『してるよ』
口を尖らせた二人に、望は、そう、とだけ言って問題集に目を戻した。
期末試験まで、あと一週間を切っていた。いつも通りの試験前だった。今日の千夏は、調子が良かった。
しばらくして、あ、芯が切れた、と朔の独り言が聞こえた。千夏は黙って筆箱から替え芯を出して差し出した。ありがと、うん、とそれだけのやりとりで、また問題に戻る。一問、二問、三問と、自分でも驚くほどすらすら進んだ。
英和辞書借りてくる、と言って望が席を立ったのは、それから少ししてからだった。二人きりになってしばらくすると、ノートに式を書く朔のシャープペンの音が、耳につき始めた。千夏の手が途中で止まった。もう一度問題文を読み直して、式を書く。解答と見比べると、数字が違っていた。消して解き直しても、やはり合わない。
「朔、この問題分かる?」
千夏は問題集を朔の方へ向けた。朔が顔を上げる。
「見えない」
「ここ」
「だから見えないって」
椅子を引く音がした。どれ、と言いながら朔が横へ来る。千夏が、これ、と指さした問題に、朔が頭を近づけた。
「まずは条件を整理するところから始めないとダメでしょ。ほら、まずここに――」
朔の指が問題文をなぞる。顔が近い。声も近い。シャープペンを握った手のひらが、少し汗ばんでいた。こんなことは、これまでに何度もあった。
「で、その先のここも見ながら――」
説明を続ける朔の声が、右の耳から入って、そのまま左の耳へ抜けていった。
「朔、ちょっと近い」
「は?」
朔の指が止まった。
「だから、近いって」
「いや、教えてって言ってきたの、そっちじゃん」
朔が千夏を見た。目が合った。千夏は先に、問題集へ目を戻した。
「……いいから、ちょっとそっち」
「何だよ」
朔は体を起こして、椅子を少しだけ引いた。これくらい、と聞かれて、うん、と答える。説明しにくい、と言うので、じゃあこれで、と千夏は問題集を朔の方へ押しやった。朔はそれを引き寄せて、どこまで言ったんだっけ、と首をひねっている。千夏はその横顔を、黙って見ていた。
辞書を片手に、望が戻ってきた。
「何やってんの? 二人とも」
「数学」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
朔が言った。望は席に座りかけて、もう一度二人を見た。まあ別にいいけど、と言いながら辞書を開く。結局、朔は最初から説明をし直し、言われたとおりに条件を整理すると、問題はあっさり解けた。
* * *
六時過ぎ、閉室を知らせる放送が流れた。
「明日も来る?」
鞄に教科書を入れながら、望が聞いた。私は来る、と答えて、千夏は朔を見た。明日決める、と朔が言い、たぶん来るね、と望が言った。
三人で図書室を出ると、廊下は冷えていた。両腕をさする望の隣で、千夏は鞄からマフラーを出した。巻き終えるまで、望は待っていてくれた。並んで歩き出し、先に階段を下りていく朔の背中が目に入ったところで、千夏は一瞬だけ足を止めた。
「千夏?」
望が振り返った。どうしたの、と聞かれて、あ、うん、と曖昧に答え、千夏は階段を下りた。下で待っていた朔が振り返る。
「何してたの」
「マフラー」
「歩きながら巻けばいいじゃん」
「危ないでしょ」
「何が」
「知らない」
三人で昇降口へ向かった。
* * *
その夜、朔は机に向かっていた。
英語の教科書を開き、単語帳を一枚、また一枚とめくっていく。めくるたびに、手が遅くなっていった。
――ちょっと近い。
千夏にそんなことを言われたのは、たぶん初めてだった。椅子を寄せたとき、何かの匂いがした。あんなふうにそれが気になったのも、たぶん初めてだった。
それが何だったのかを考えているうちに、単語帳のアルファベットが、ただの文字の並びにしか見えなくなってきた。知っているはずの単語まで、だんだん分からなくなっていく気がして、朔は単語帳を閉じた。
「……何なんだよ」
* * *
翌日、朔は図書室に来なかった。次の日も、その次の日も来なかった。三人で机を並べることのないまま、期末試験が始まった。
三人の成績は、いつもと大して変わらなかった。




