第23話 上の空だった。
ひかりと一緒に帰ったその日の夜、朔が鞄から宿題を出そうとすると、紙の端が目に入った。図師先生にもらって、帰り道でひかりに見せた紙だった。引っぱり出して、机の上に広げる。準備室で聞いたときは面白かった。一行目から読み直す。二行目、三行目と進んだところで、目が止まった。
――待ってた人にそれ言う?
顔を上げても、机の向こうには壁しかない。もう一度一行目から、今度はさっきよりゆっくり読んだ。気がつくと、また三行目で止まっていた。読み進めるのをやめて目を瞑ると、待ってた人、という言葉と、昨日から引っかかっている、付き合う、という言葉が、頭の中で一緒に転がった。そこへ、不意に別の声が混ざった。
――金井と成瀬って、付き合ってんの?
紙を押さえていた指に、力が入った。文化祭の準備をしていた教室で、根岸がそう言ったとき、隣には千夏がいた。
朔は紙を半分に折った。少しして、また開いて、さっきと同じ行に目を落とした。
* * *
「……違う」
千夏はシャープペンを置いて、途中式を見直した。マイナスが一つ抜けている。消しゴムで消して書き直し、次の行へ進んで答えを出し、解答と照らす。また違った。今度は途中で符号を逆にしていた。消すたびに、机の上の白いかすが増えていく。夕食のあとから、ずっと数学をやっている。
難しい問題ではない。ようやく正解し、次へ進む。取り掛かったところで、ひかりの横顔が浮かんだ。手が止まった。
中等部の方へ続く道を見ていた、あの顔だ。今から帰るの、と望に聞かれて、ちょっとね、と答えて、また道の方を見たときの顔。あ、と自分が声を出したことまで思い出した。
自分たちは今日、先に帰った。帰り道、望はほとんど喋らなかった。珍しいと思ったけれど、千夏も何も聞かなかった。
あのあと、朔は来たんだろうか。来たに決まっている。図師先生の話が終われば、あの道を通って帰るのだから。ひかり先輩は、朔を待っていた。だったら、そのあと――。
千夏は椅子から立ち上がって、伸びをした。それからもう一度座り、問題に目を戻し、式を書いていく。
また間違った。今度は数字を一つ写し間違えている。千夏は消しゴムを取って、ごしごしと消した。全然進まない。
机の上のかすが、また少し増えた。
* * *
紙を読むのを諦めた朔がベッドに寝転がっていると、扉を二回叩く音がした。
「何」
扉が細く開いて、望が顔を出した。
「お風呂、次入っていいって」
「うん」
閉まりかけた扉に、朔は体を起こした。
「あ、望。そういえば、ひかりちゃんがさ」
「何?」
「今日お前、ちょっと元気なかったって」
ドアノブの上で、望の手が止まった。
「……そう?」
「上の空だったって」
「普通だったけど」
「ならいいけど」
望はしばらく、朔の顔を見ていた。
「何だよ」
「朔こそ、なんか変」
「別に」
望は眉を上げたが、早くお風呂入って、とだけ言って扉を閉めた。朔はまたベッドに倒れて、目を閉じた。
今日の帰り道が浮かんだ。途中から、ひかりが少し先を歩いていた。その背中を見ていた。その背中に、別の背中が重なった。
いつもの制服で、いつもの髪で、少し前を歩いていく千夏だ。何度も見てきた、ありふれた背中のはずだった。
朔は目を開けた。
「……何なんだよ」
* * *
数学の宿題は、結局全部終わった。いつもより、ずっと疲れた。風呂から上がって髪を乾かすと、千夏はベッドに横になった。明日は、普通にできる。今日はたまたま集中できなかっただけだ。
目を閉じると、中等部に続く道が浮かんだ。先に帰った今日の自分が、一度も振り返らなかった道。そのあと何があったのかは知らない。明日、望に聞けば分かるかもしれないし、望だって知らないかもしれない。だったら、朔に――。
そこまで考えて、目を開けた。
「……何を聞くのよ」
思わず声が出た。
そもそも、聞いて、どうするのだろう。ひかり先輩が待っていて、朔が来て、二人で帰った。それだけのことだ。たぶん。
寝返りを打つと、別の帰り道が浮かんだ。展示計画書の提出日を間違えた日の、次の日の帰り道だ。
あの日、初等部のころ、係の仕事を一つ忘れただけで一日中落ち込んでいたことを、朔は覚えていた。自分でも忘れていたようなことだった。他の人にも分かったかな、と聞いたら、朔は何でもないみたいに言った。
――知らない。俺は分かったけど。
朔はきっと、もう覚えていない。
それでもあのとき、嬉しかったのかもしれない。布団を鼻のあたりまで引き上げた。
しばらくして、電気を消そうと立ち上がり、スイッチに手を伸ばしたところで、机が目に入った。閉じた問題集と、何度も書き直したノート。その周りに、消しゴムのかすが散らばっている。いつもなら、寝る前に払っていく。
千夏はそれを見て、そのまま電気を消した。




