第21話 待ってた。
皆でこどもの国に行った翌日の朝、志保が台所で弁当を詰めていると、望が下りてきた。澪はもう家を出ていて、孝之は洗面所でひげを剃っている。朔は、まだ起きてこない。
「おはよう。早いね」
「うん」
望は食卓につくと、志保の湯呑みに目をやった。中身は白湯だった。望の目が、そこで止まった。
「お母さん。赤ちゃん、いるでしょ」
菜箸の先から、卵焼きが一切れ落ちた。こういう言い方をするときは、当てずっぽうではない。もう確かめに来ているのだ。
「……どうして、そう思ったの」
「九月くらいから、朝にコーヒー飲んでない。病院の封筒、二回見た。最近、重いものはお父さんが持ってる」
望は少し間を置いてから、それに昨日はお父さんまで残ったし、とつぶやいた。志保は、思わず笑ってしまった。
「……望は、本当によく見てるね」
望は目を逸らして、別に、と言った。
「何か月?」
「四か月。予定日は春。女の子かもしれないって」
望は少し黙ってから、妹か、と小さく言った。
「お父さん以外には、まだ誰にも言ってないの。由佳にも。年が年だから、安定期に入って、ちゃんと大丈夫って分かったら、みんなに言う。だから、もうちょっとだけ黙ってて」
「……うん」
「朔には特にね。あの子、すぐ顔に出るから」
「朔は絶対気づかないから、大丈夫」
そのとき、階段がどたどたと鳴った。
「母さん、俺の体操服どこ」
右側の髪をはねさせた朔が、台所を覗き込んだ。志保と望は、一瞬だけ顔を見合わせた。
「何だよ」
「別に。髪、はねてる」
望が言い、志保は落ちた卵焼きを拾って、そのまま口に入れた。
* * *
その日、放課後のチャイムが鳴ってからも、ひかりはすぐには席を立たなかった。
昨日のことは、朝から何度も思い出しかけては、そのたびに途中でやめていた。最後まで考えると、また、嫌だ、のところへ戻ってしまう。教科書を鞄へしまい、ノートの端を揃えてからファスナーを閉める。いつもと同じことを、今日は一つずつ、ゆっくりやった。
「ひかり、帰らないの?」
隣の列から声をかけられて、顔を上げた。クラスメートが鞄を肩にかけて、もう教室を出るところだった。
「帰るよ」
「じゃあ一緒に行く?」
「ううん。ちょっと寄るところあるから」
「そっか。じゃあ、また明日」
「また明日」
手を振って見送ってから、ひかりも立ち上がった。
廊下には、部活へ向かう生徒と帰る生徒が入り混じっていた。いつもの階段を下りて、高等部の昇降口で靴を履き替える。外に出ると、日はもう傾き始めていた。正門へ向かう道を、ひかりはいつもより少しゆっくり歩いた。高等部の校舎が後ろへ遠ざかり、中等部から来る道と合流するところが見えてくる。
春に一度、ここで朔とばったり会ったことがあった。一週間ぶりなのに、久しぶり、と言ったら、朔は一週間くらいじゃんと呆れていた。あのときは、偶然だった。ひかりは、合流点の少し手前で立ち止まった。
中等部の下校時刻は、もう過ぎている。すぐに出てくるとは限らないし、望や千夏と一緒かもしれない。
千夏ちゃんのことは、好きだ。昨日だって一緒に笑ったし、文化祭の日に二人で座ったベンチも楽しかった。
好きって何、と結に聞かれたのは、ついこの前のことだ。困った末に、一緒にいたいとか、話したいとか、会いたいとか、と並べてみて、役に立たないなあ、と結に言われた。それなのに今、自分はわざわざ帰る時間を遅らせ、しかも道の途中で立ち止まって、来るかどうかも分からない朔を待っている。
「……何それ」
小さく言ってから、誰にも聞かれていないのを確かめるように前を見た。
中等部の方から、生徒が何人か歩いてきた。一年生らしい男子が二人と、その後ろに女子が三人。朔はいなかった。通り過ぎていく背中を見送りながら、ひかりは時計を見た。もう帰ってしまったのかもしれない。別の道を使ったのかもしれないし、望と何か用事があるのかもしれない。図師先生に捕まって、歴史の話を聞かされている可能性だってある。最後の一つを考えたところで、少し笑った。それなら、いかにもありそうだった。
空の端が、赤くなり始めていた。
「だから、それは先生に聞けばいいじゃん」
「聞いたよ。聞いたけど、説明が長いんだもん」
聞き慣れた声だった。顔を上げると、中等部の方から望と千夏が歩いてきた。二人だけだった。先にこちらに気づいたのは、千夏だった。少し目を丸くしてから、隣の望の袖を軽く引く。望が一拍遅れて顔を上げ、手を上げた。
「あれ、ひかりちゃん?」
千夏も、小さく頭を下げた。
「ひかり先輩。おつかれさまです」
「おつかれ」
二人が近づいてくる。ひかりはその後ろへ目をやったが、道にはもう何人か知らない生徒がいるだけだった。
「あれ、朔くんは?」
望は、ああ、と今思い出したように声を出した。
「図師先生に呼ばれてた」
「また?」
「たぶん歴史の何か。私たちは先帰っていいって」
千夏が笑った。
「朔からじゃなくて、図師先生からですけどね。『…………金井くんを少しお借りします』って」
「何それ」
「ほんとに言ったんだよ」
ひかりも笑った。
「長くなりそう?」
「ボソ師だからねえ」
望が肩をすくめる。
「話し始めると長いよ、たぶん」
「そっか」
ひかりはもう一度、中等部の方へ続く道を見た。
「ひかりちゃんは? 今から帰るの?」
望にそう聞かれて、ちょっとね、と答えを濁す。いつもの望なら、ちょっとって何、と食い下がってくるところだったけれど、今日の望は、ふうん、と言ったきりだった。その横で、千夏がひかりを見ていた。しばらくして、千夏の目が、ひかりの視線を追うように、中等部の方へ続く道へ移った。
「あ」
千夏が小さく声を出した。
「何?」
望が聞く。
「何でもない」
千夏はそう言ってから、またひかりを見た。
「じゃあ、私たち先に帰りますね」
「うん、帰ろ」
望の返事は、千夏が言い終わるより早かった。中等部の方へ一度だけ目をやって、すぐに逸らし、望は千夏より先に歩き出した。
「じゃあね、ひかりちゃん」
「うん。また明日」
「ひかり先輩、また明日」
「また明日」
二人の背中が、正門の方へ遠ざかっていく。千夏は、一度も振り返らなかった。
ひかりは一人になった道で、もう一度時計を見た。さっきより、空が赤くなっている。図師先生なら、本当に長いかもしれない。それでも、帰ろうとは思わなかった。少しして、中等部の方からまた一人、生徒が出てきた。遠目でも分かった。
鞄を片方の肩にかけて、少し俯きながら歩いてくる。何か紙を見ていたが、途中で折りたたんで鞄へしまった。ひかりはその場に立ったまま、近づいてくるのを待った。合流点まであと少しというところで、朔が顔を上げ、足を止めた。
「ひかりちゃん?」
「おつかれ」
朔は近くまで来ると、あたりを見回した。
「姉ちゃんは?」
「もう帰ったよ」
「早」
「朔くんが遅いんでしょ」
「図師先生が長かったんだよ」
「やっぱり」
「何が?」
「何でもない」
ひかりが笑うと、朔は少し眉を寄せて、不思議そうな顔のまま聞いた。
「で、何してんの?」
ひかりは朔を見た。
「待ってた」
「誰を?」
「朔くん」




