第20話 忘れてたでしょ。
由佳たちが広げたシートへ戻ると、望が大きな保冷バッグのファスナーを開けていた。
「これ、朔の」
「ん」
「私のがこっちで……千夏、これ」
望が取り出した弁当箱を、千夏が受け取った。
「ありがと」
「お母さんが、千夏の分も入れたから渡しといてって」
「あとでお礼言わないとね」
「たぶん喜ぶよ」
それだけ言って、望は自分の包みをほどき始めた。朔も何も言わず、渡された箱を開けている。ひかりはペットボトルの蓋を開けながら、千夏の手元を見た。弁当箱は、朔と望のものと同じ布に包まれていた。
「ひかり?」
由佳に呼ばれて、顔を上げた。
「ちょっと詰めて」
「あ、ごめん」
結の隣へ座る。向かいでは玲子が、湊に野菜も食べなさい、と言っていた。
「食べてる」
「今、避けたでしょ」
「避けてない」
「端に寄せるのは避けたって言うの」
結が横から、じゃあ私食べる、と箸を伸ばした。
「勝手に取るなよ」
「いらないんでしょ?」
「食べるよ」
「じゃあ食べればいいじゃん」
朝からずっと、こんな調子だった。ひかりは自分の弁当に箸をつけながら、もう一度向こう側を見た。望が千夏の弁当箱を覗き込んで、そっちの卵焼きの方が美味しそう、と文句を言っている。
「同じじゃない?」
「私の、一個しかない」
「私も一個だよ」
「じゃあ朔の」
「何で俺なんだよ」
「見せて」
「やだよ」
朔が弁当箱を少し遠ざけ、望が身を乗り出す。千夏はその横で笑っていた。
ひかりだって、金井家で夕飯を食べたことは何度もある。小さいころには、泊まったことさえあった。けれど今日、ひかりの膝の上にあるのは、森野家の弁当だった。
「ひかり先輩?」
千夏と目が合った。
「何ですか?」
「ううん。何でもない」
ひかりは笑って、自分の弁当に目を戻した。
* * *
昼食のあと、しばらく芝生で休んでから、また歩き始めた。結と湊は少し先へ行き、由佳と玲子はその後ろをゆっくり歩いている。朔たちは途中の案内板の前で止まった。
「次、どっち?」
望が案内図を見上げると、朔がポケットから折りたたんだ紙を出した。広げると、印刷した地図の横に、細かい字がびっしり並んでいる。
「また何か調べてきたの?」
千夏が覗き込んだ。
「道も載ってるんだよ」
「もう地図として使ってんじゃん」
望が言った。
「いいだろ、別に」
朔は紙を広げたまま、近くのベンチに腰を下ろした。ひかりも後ろから覗き込む。
「さっきみたいなの、ほかにもあるの?」
「跡はいくつか残ってるみたい。でも、全部回ると遠い」
「今日は無理?」
「無理ってほどじゃないけど」
朔はしばらく紙を見ていた。やがて望が、置いてくよ、と先へ歩き出した。
「朔くん?」
声をかけると、朔は立ち上がって、ペットボトルを鞄にしまった。ひかりもその隣を歩き出した。十歩ほど進んだところで、後ろから千夏の声がした。
「朔」
「何」
「これ」
振り返ると、千夏が折りたたんだ紙を持っていた。
「あ」
「忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「じゃあ何で置いてくの」
「今気づくところだった」
「それを忘れてたって言うんじゃないの?」
千夏が紙を差し出すと、朔は黙って受け取った。
「……ありがと」
「はいはい」
望が笑った。
「歴史の紙忘れるの、珍しいね」
「だから、忘れてないって」
「まだ言ってる」
そのまま三人は歩き出した。ひかりも、そのあとを追った。朔は紙を今度こそポケットへ押し込み、何事もなかったように望と話している。千夏も、もう別の話をしていた。
ひかりは一度だけ、空になったベンチを振り返った。
* * *
午後になっても、人はなかなか減らなかった。
道が二つに分かれるところで、由佳たちが立ち止まった。片方は緩い坂になっていて、もう片方は林の中へ続いている。
「どっち?」
結が聞くと、こっちでしょ、と由佳が案内図を見ながら坂の方を指した。玲子も横から覗き込んで、じゃあ先行って、と子供たちに言った。望と千夏が先に歩き出す。途中で望が結に呼ばれて振り返り、千夏だけが、そのまま林の方へ進みかけた。
「千夏」
朔が呼んだ。千夏が振り返る。
「そっちじゃない」
「あ」
千夏は足を止めて、標識を見上げた。
「ほんとだ」
「何見てたんだよ」
「望と話してたから」
「私のせいにしないでよ」
後ろから望が言うと、してないって、と千夏は笑いながら戻ってきた。朔も、それ以上は何も言わなかった。ひかりだけが、その場で一歩遅れた。
そっちじゃない――。
その言葉なら、知っていた。帰ってきたばかりの春、高等部の方へ歩きかけた自分に、朔が送ってきたスタンプだ。あれから何度も送られてきたけれど、朔の声で聞くのは、初めてだった。
「ひかりちゃん?」
望が振り返った。
「どうしたの?」
「ううん」
ひかりは歩き出した。前では、千夏がもう望と話している。その少し後ろを朔が歩き、ポケットから、さっきの紙の端が少しだけ出ていた。その向こうでは、結と湊がまた別々のところにいた。結は由佳の隣で何か話し、湊は玲子から飲み物を受け取っている。朝から何度も見た光景だった。
何も変わってないよ、と湊は言っていた。
ひかりは、前を歩く朔と千夏を見た。
ひかりがいなかったあいだにも、こういうことが、きっといくつもあった。
もし、この二人が――。
……嫌だ。




