第19話 あとで会うし。
「ほんとに大丈夫?」
玄関で靴を履きながら、望がもう一度聞いた。
「大丈夫だって。今日はちょっとやめとくだけ」
志保は廊下の奥に立ったまま笑った。こういう集まりなら誰より先に支度を始めて、出がけには全員の持ち物まで確かめる人なのに、今日は朝から部屋着のままだった。
「風邪?」
朔が聞くと、違う違う、そういうんじゃないから、と志保は手を振った。
「じゃあ来ればいいじゃん」
「朔」
父の孝之が、やめなさい、という顔をした。
「今日はお父さんがいるから。二人とも行ってらっしゃい」
「父さんも来ないの?」
「母さん一人にしとくのも何だからな。せっかく予定合わせたんだし、お前らは行ってこい」
「ふうん」
朔はそれ以上気にせず、鞄を肩にかけた。
「お弁当、そこにあるから。忘れないでね」
志保が、上がり框に置いた大きな保冷バッグを指さした。持ち上げると、思ったより重かった。
「望、早く」
「分かってる」
望は靴を履き終えて立ち上がったが、すぐには出てこなかった。外から振り返ると、開いたドアの内側で、まだ母の方を見ている。
「何?」
「……別に」
「何よ、その顔」
「何でもない」
ようやく出てきた望の後ろで、ドアが閉まった。朔は何も聞かずに歩き出した。
* * *
こどもの国駅の改札を出たところで、朔は思っていたより人が多いことに気づいた。小さい子供の手を引く家族、ベビーカーを押す夫婦、何人かで固まって歩く学生らしい集団。長津田で乗り換えた電車は二両しかなかったのに、どこからこんなに来たのかと思う。入口へ向かう並木道には、もう人の流れができていた。
「何か、もう疲れそう」
望が言った。
「まだ入ってないけど」
千夏が笑う。前を歩いているのは由佳と、湊の母の玲子で、その少し後ろに、ひかりと結と湊がいた。澪は部活で来られない。今日のことは、小山田学園で同級生だった母親三人が、この前お茶をしたときに決まったらしかった。
「で、中沢さんは?」
前から、玲子の声が聞こえた。
「だから、ちょっと体調が悪いんだって」
「ふうん。せっかく来てやったのに」
「来てやったって何よ」
由佳が笑った。隣で、望は黙って二人の背中を見ていた。朔たちのすぐ横を、小さい男の子が、落ち葉をわざと踏みながら走っていく。乾いた音が、何度も鳴った。
「秋だねえ」
望が言った。
「見れば分かる」
「朔って、情緒のカケラもないよね」
「落ち葉見て秋だねって言う方が意味分かんない」
「そういうとこだよ」
今度は千夏が言った。何がだよ、と返しても、二人とも答えなかった。
入園口を抜けると、道はゆるやかに上っていった。こどもの国には何度か来ている。広場の地面は、来るたびに一面チョークの落書きで埋まっている。街中の公園とはずいぶん違って、ただ広いというより、終わりが見えない。雑木林の間を何本も道が伸びていて、向こうの丘にも人が歩いていた。結は、もう湊と案内図を覗き込んでいた。
「ここ行こう」
「遠くない?」
「行けるよ」
「じゃあ行けば」
「湊も行くの」
「俺も?」
「付き合ってよ」
湊の耳が、ほんの少し赤くなった。
「お母さん! 湊とポニー見てくるから!」
大声でそう言うなり、結は湊の袖を引いて駆け出した。湊は一度だけ玲子の方を振り返り、それから引っぱられるままについていった。
朔は、その背中を見ていた。
付き合うことになった――。
そう聞いたのは、ついこの前の夕飯のときだった。二人が一緒にいるところをちゃんと見るのは、今日が初めてだった。
普通の友達と何が違うのかは、よく分からない。駅からここまでも、並んで歩いていると思えば結はひかりのところへ戻り、湊は玲子に呼ばれてそちらへ行った。それでもしばらくすると、また二人で話している。今だって、走っているのは結だけで、湊は袖を引っぱられているだけだ。
あれで、付き合ってるのか。そもそも、付き合うってなんなんだ――。少し離れたところで、望が何か言い、千夏が笑っていた。朔は一度だけそちらを見て、そのまま前を向いた。
「朔くん」
後ろから、ひかりに呼ばれた。道の脇に立つ案内板の前で、手招きしている。
「これ何?」
「何って」
近づいて読む。
「弾薬庫跡」
「弾薬庫?」
「そう書いてあるじゃん」
「それは読めるよ。何に使ってたの?」
「弾薬を置いてた」
ひかりが顔をしかめた。
「雑」
「だって名前のまんまじゃん」
ひかりはもう少し先まで読んだ。戦争のころ、このあたり一帯は陸軍の弾薬庫で、丘の斜面にいくつも貯蔵庫が掘られていたと書いてある。案内板の向こうの斜面では、草に半分埋もれるようにして、古いコンクリートの壁がのぞいていた。
「全部、弾薬庫だったんだって。この公園の場所」
ひかりはそう言うと振り返って、今歩いてきた道を見た。チョークだらけの広場と、ベビーカーの列と、その向こうの駅。
「……全然そう見えない」
「さっき乗ってきた電車も、もとはここに弾薬を運ぶ線路だったらしいよ」
「え。あの二両の?」
「そう」
「朔、いい加減で切り上げなよ?」
後ろから、望の声がした。
「分かってるよ」
「ほんと?」
千夏まで聞いてくる。
「自由研究じゃないから」
「それなら大丈夫か」
「何だよ、それ」
ひかりが笑った。結局、斜面の壁を少し眺めて、案内板をもう一枚読んで、それで終わった。来る前に印刷してきたガイドは、ポケットに入れたままだった。書いてあることの半分も、話せなかった。
「ほんとに早かった」
歩き出してから、ひかりが言った。
「何が」
「絶対もっと喋ると思った」
「何でも歴史なら長くなると思うなよ」
「違うの?」
「違う」
少し間があった。
「……たぶん」
ひかりが吹き出した。
* * *
昼が近づくころには、朝よりさらに人が増えていた。ポニーから戻ってきた結と湊と合流し、お弁当を広げる場所を探しながら、白鳥湖のほうへ下りていった。湖のまわりの木は、まだ半分ほどしか色づいていない。水の上には貸しボートがいくつも浮かび、岸では小さい子供たちが、短い竿を握ってしゃがみ込んでいる。
「結、どこ行くの?」
ひかりが呼ぶと、結は湖の方を指さした。
「ちょっとあっち」
「湊くんは?」
「今、湊のお母さんと話してる」
少し離れたところで、湊が母親に何か言われていた。上着の前を閉めろとか、たぶんそういうことだ。
「じゃあ、待てば?」
「なんで?」
結が首を傾げた。
「いや、だって」
ひかりは湖の上に目をやった。ボートには、どれも二人ずつ乗っている。
「ボートとか、乗らないの? 二人で」
「なんで?」
「付き合ってるんでしょ?」
「うん」
「だったら、一緒に行くのかなって」
結は、ますます不思議そうな顔をした。
「あとで会うし」
それだけ言って、水辺へ下りていく。ひかりは少しのあいだ、その後ろ姿を見ていた。お姉ちゃん、来ないの? と言われて背中を追う。水辺で隣にしゃがむと、濁った水の中を、黒い影がゆっくり横切っていったのが見えた。
「あ、コイ」
「どこ?」
「今いた」
ひかりはしばらく水面を眺めてから、何でもないふうに聞いた。
「ねえ、結。付き合ってから、何か変わった?」
「何が?」
「……何か」
結はしばらく考えた。
「別に」
「そうなの?」
「うん」
「何見てんの?」
後ろから声がした。振り返ると、湊が立っていた。
「コイ」
「いる?」
「今いた。……あ、湊。お姉ちゃんがね、付き合ってから何か変わったかって」
「結!」
止める間もなかった。湊は少し考えて、それから表情も変えずに言った。
「何も変わってないよ」
「だよね」
「うん」
それで二人とも、もう水面に目を戻していた。ついさっきまで別々のところにいたのに、気づけば当たり前のように並んでしゃがんでいる。
ひかりは、そっと一歩下がった。結は水の中を覗き込んだまま、湊も同じところを見たまま、どちらも何も言わなかった。それで退屈しているふうでもなかった。しばらくすると、結が立ち上がった。
「お腹すいた」
「もうすぐお昼でしょ」
「歩いたから」
「理由になってない」
「じゃあお姉ちゃんは、お腹すいてないの?」
「そういう話じゃないって」
言い返したときには、結はもう、芝生にシートを広げはじめた由佳の方へ歩き出していた。湊はしゃがんだまま、まだ水を見ている。行かないの、とひかりが聞くと、行く、と答えたけれど、急ぐ様子はなかった。結も振り返らない。それなのに、少しして顔を上げると、二人はシートの端に、また並んで座っていた。
「ひかりちゃん」
上の道から、朔の声がした。
「何ぼーっとしてんの」
「してない」
「してた」
「してないって」
「置いてくよ」
「待ってよ」
坂を少し早足で上って、追いつく。道の先では望と千夏が並んで歩き、その先の芝生では、由佳と玲子がシートを広げ終えたところだった。結と湊は、もうシートを離れて、その間を行ったり来たりしている。
あとで会うし――。
さっきの結の声が、ふと戻ってきた。
「ひかりちゃん?」
「何?」
「今度は、ほんとにぼーっとしてた」
「してないってば」
朔が少し笑った。踏み出した足もとで、乾いた落ち葉が鳴った。
前の方で結が振り返り、大きく手を振った。その隣には、もう湊がいた。




