幕間 まさかね。
「結に彼氏ができたみたい」
電話の向こうで、志保が唾をのみ込む音が聞こえた。
「……誰に?」
「何よ。だから結って言ってるでしょ」
「だって結ちゃんでしょう?」
「結だけど」
「何歳だっけ」
「まだ十。早生まれだから」
また少し間があった。
「もしもし?」
「聞いてる」
「昨日、夕飯のときに普通に言うのよ。湊と付き合うことになった、って」
「湊?」
「同じクラスの男の子。三輪湊くん」
今度は、さっきより長く黙った。
「……三輪?」
「うん」
「三輪、湊?」
「そうだけど。知ってるの?」
「いや、その子は知らないけど」
志保の声が少し変わった。
「三輪って名前には、あまりいい思い出はないけどね」
由佳も、その名字を頭の中で繰り返した。三輪、三輪、三輪……。三度目で気付く。小山田学園の同級生だった。学年一の才媛で、そのまま医学部へ進んだ。由佳とは互いの家へ遊びに行く仲だったが、大学に上がってから、いつの間にか疎遠になった。
「……玲子?」
「そう。あいつ」
志保の声に、棘があった。
「湊くんのお母さんが、玲子?」
「知らないわよ。まあ、人違いであってほしいけど」
志保は少し笑って、電話を切った。由佳はしばらくスマートフォンを手に持っていた。連絡先を下へ辿っていくと、三輪玲子の名前が残っていた。昔登録したままの番号だろうか。
「……まさかねえ」
ひとりで呟いてから、通話ボタンを押した。四回目の呼び出し音の途中で、つながった。
「はい」
女の声だった。電話口でも分かるほど、声が硬い。
「もしもし」
「はい。どちら様ですか?」
「えっと、森野と申しますけど」
「森野さん……?」
「あ、小山田で一緒だった、磯部由佳です」
旧姓を名乗ると、少し間があった。
「……ああ」
「磯部さんね。お久しぶり。どうしたんですか?」
他人行儀な声に、こちらまで丁寧になる。
「ちょっと変なことお聞きするんですけど、三輪さんの息子さんも小山田?」
「なんなんですか、急に」
「……今、初等部五年の湊くん?」
一拍あった。
「……そうですけど。だから何なんですか?」
由佳はもう笑いそうになっていた。
「いや、それがね、その湊くん。うちの娘と付き合うことになったって」
沈黙は、かなり長かった。
「もしもし?」
「……は?」
「だから、うちの娘と」
「ちょっと待って。それ、いつの話?」
「昨日みたい」
「湊から何も聞いてないんだけど」
「でしょうねえ」
「何で由佳が先に知ってんのよ」
「昨日、結から聞いたから」
「結ちゃんって、確かフランスから帰ってきた子?」
「そう」
「付き合うって、何するの。小五で」
「本人たちも分かってないみたい」
電話の向こうで、ようやく笑い声がした。
「由佳」
「何?」
「今度会わない?」
「私もそれ言おうと思ってた。せっかくだから、家に来ない?」
日にちはあとで送る、と言って電話を切った。由佳は画面をしばらく見て、それから志保の名前を押した。
「志保」
「何」
「いた」
「何が」
「玲子」
少し間があった。
「……本当に?」
「本当に玲子だった。しかも湊くん、何にも言ってないんだって。で、今度お茶することになったけど、来ない?」
今度は少し長く黙った。
「……私が?」
「うん。面白そうだから」
「最低ね」
「来る?」
「……行く」
「来るんじゃん。玲子には言ってないけど」
「本当に最低ね」
志保はそう言ったが、電話越しの声は穏やかだった。
* * *
約束は、平日の昼間だった。インターホンが鳴って由佳が玄関を開けると、玲子は昔より短くなった髪を耳にかけながら、「久しぶり」と笑った。
由佳がリビングの扉を開けると、玲子が止まった。ソファには、先に来ていた志保が座っていた。
「……えっと?」
どちら様、と言いかけたところで玲子の顔が曇り、由佳の方に向き直る。
「由佳、なんでこいつがいるの?」
「ずいぶんなご挨拶ね。三輪玲子さん」
志保が紅茶の入ったカップを置いた。
「ええ、お久しぶりね。中沢志保さん。でも、なぜあなたがいるのかしら」
旧姓のフルネームで呼び返されて、志保の口元が緩んだ。
「お茶会だから」
志保が言った。
「答えになってない」
「いつまでも学生みたいにツンツンしてないで、まずはお茶でもいただいたら?」
志保の言い方に、由佳は思わず吹き出した。
「由佳、あなたハメたでしょ」
玲子が少し恨めしそうに由佳を見る。その前に、由佳はコーヒーを置いた。
「まあ、せっかくの明るい話題だから、プチ同窓会ってことで、ね?」
玲子は諦めたように、カップに手をかけた。
* * *
「しかし、ほんと久しぶりね」
由佳が言う。
「中沢さんは変わらないけど」
玲子が志保の方を見ずに言う。
「何が」
「まだ紅茶なんだ」
「今日は紅茶が飲みたかったの」
「三輪さんも変わってないでしょ」
「何がよ」
「人の顔を見てそんな酷い顔をするところ」
「……その言葉、そのまま返すわ」
学生時代に何度も聞いた掛け合いだった。やっぱり呼んでよかった、と由佳は思った。
「で」
玲子がカップを置いた。
「何でうちの息子と由佳の娘が付き合ってんの」
「知らないよ。私だって結から聞いただけだし」
由佳はケーキを切りながら言った。
「本人たちに聞けばいいじゃない」
志保が言った。
「もちろん聞くつもり」
「やめてあげなよ。恥ずかしがるでしょ。湊くん、耳赤くなってたってよ」
玲子の手が止まった。
「何それ」
「結が言ってた」
「……あの子、そんな顔するんだ」
玲子の表情が緩んだ。
「嬉しいの?」
「別に」
志保がつられて顔をほころばせる。
「昔から変わらないわね」
「あんたに一番言われたくない」
「ところで、湊くんって、どういう子?」
由佳が聞くと、玲子は少し考えた。
「人のこと、あんまり珍しがらないかな。転校生が来ても、転校生だからって寄っていかないし。逆に避けもしない」
「結、今もフランス語が自然に出ちゃう時があるのよね。その度に色々言われるみたいで」
由佳は、結から聞いた昼休みの話をした。
「しゃべりたいようにしゃべればいいじゃん、か。言いそうだね、あの子」
「いいところじゃない」
玲子は、紅茶を飲みながらそう言った志保の方を見る。
「珍しい。褒めるんだ」
「正しいものは正しいと言うわよ」
「自分が正しいと思ったものを、でしょ」
「同じじゃない」
「全然違う」
「何なの、二人。息ぴったり」
『違う』
二人の声が重なった。由佳は声を上げて笑った。
「一緒にしないで」
志保が言った。
「こっちも一緒にされたくない」
玲子が返した。由佳はコーヒーを飲んだ。懐かしかった。
* * *
「で、結ちゃんは? どういう子なの?」
玲子が聞いた。由佳は少し考えた。
「分からないことを、そのままにしない子かな。何でもすぐに聞くの。同級生の女の子に『三輪くんに好かれてるんじゃない』って言われて、本人に『好きなの?』って聞きにいったみたい」
小学生らしいなあ、と呟いた玲子は、さも今思いついたかのように言った。
「湊、何て?」
「好きだけど、って」
「……あの子、言ったんだ」
玲子は目を伏せた。
「聞かれたことには答えるけど、自分からそういう話する子じゃないのに」
「でも、どういう好きなのかって聞いたら、二人とも分からなかったんだって」
「それで何で付き合うの」
「知らない」
三人とも少し黙った。最初に笑ったのは由佳で、つられて玲子も笑い、志保も口元を緩めた。
* * *
しばらくして、話は昔の学校のことへ移った。
「そういえば文化祭のとき、玲子と志保って根拠を出せ、数字を出せってずっと揉めてたよね」
「揉めてない。議論よ」
志保が口を挟んだ。
「あなたが感覚で決めようとしたからでしょ」
「感覚じゃない。文章には文章の論理があるの」
「数字が出せるところは出せばいいでしょう」
「数字に出ないものもあるのよ」
「出せるものまで出さない理由にはならない」
「何年経ってもそこなの?」
由佳が言うと、二人とも黙った。
「というか、あんたまだそういう仕事してんの?」
玲子が志保を見た。
「そういうって?」
「文章とか」
「してるけど」
「へえ」
「何、そのへえ」
由佳は笑った。玲子も少し笑った。志保だけが納得していない顔をしていた。
* * *
夕方、玲子が帰ったあと、由佳はカップを流しへ運んだ。志保が一つ取る。
「洗うよ」
「いいよ。お客さんなんだから」
「私まで客なの?」
「玲子ほどじゃないけど」
志保が笑った。二人で食器を洗う。
「結、早かったね」
「早かったわね」
「ひかりなんて、結に好きな人いないのって聞かれて、いないよ、たぶん、だって」
ほんの一瞬、志保の手が止まった気がした。由佳は濡れた皿を拭きながら続けた。
「高校生の方がよっぽど面倒くさいね」
「……そういうものなんじゃない?」
「玲子なら、数字で出せって言いそう」
「言うでしょうね」
玄関の方から鍵の音がした。
「ただいま」
結の声だった。少しして、結がリビングを覗いた。
「あ、志保さん」
「おかえり」
「お母さん、今日、湊と帰った」
結がそう言うと、由佳は志保を見た。志保も、由佳を見ていた。
「何?」
「何でもない」
結は、変なの、と言って部屋へ戻っていった。




