第18話 じゃあ、付き合う?
「またフランス語?」
昼休みだった。森野結は机の上に置いた筆箱を見てから、隣の女子を見た。木曽だったか、山﨑だったかよく覚えていない。顔は分かるのに、日本人の名字は未だに時々ごちゃごちゃになる。
「何が?」
「結、今何か言ったじゃん」
「……なんて言ったっけ」
「フランス語でしょ、分かんないよ」
向かいにいた男子が笑っている。結は少し考えた。消しゴムを落として、拾おうとしたときに何か言った気がする。たぶんmerdeとか、その辺だった。それの何が面白いのだろう、と思った。
「別にいいじゃん。意味分かんなくても」
「日本なんだから日本語で言えばいいのに」
その女子の言葉は、悪意があるようには聞こえなかった。
「出ちゃうんだから仕方ないじゃん」
「でも、ずっと日本にいるんでしょ。じゃあ直した方がよくない?」
――また、これだ。
姉にもよく言われるけど、出てしまうものは仕方ない。そこへ、少し離れた席から声がした。
「別にいいじゃん」
今度は名前がすぐに出てきた。三輪湊。
湊は椅子を後ろ向きにして座り、さっきの女子の方を見ている。
「日本語でもフランス語でも、何でもいいじゃん」
どんな意味か分からないんだって、と口を尖らせるその子に、じゃあ聞けばいいじゃん、と湊が言う。
――ああそうだ、湊はこれまで私にフランス語を喋ってって一回も言ってきてない気がする。
「三輪は森野に甘いなあ」
向かいに座っていた男子が笑った。湊が眉を寄せるのが見えた。
「甘いとか甘くないとかじゃないじゃん」
「甘いじゃん」
「そんなんじゃなくて、しゃべりたいようにしゃべればいいじゃんって話でしょ?」
湊はなんの抑揚もなく言った。
* * *
午後の授業が終わって、帰り支度をしていると、後ろから声がした。
「結」
振り返る。さっきの女子だった。
「何?」
「三輪、結のこと好きなんじゃない?」
「は?」
「だって、さっき結のことをかばってたじゃん」
結は一度瞬きをした。
「どういうこと?」
「男子って好きな女の子のことを守りたくなるんだって。お兄ちゃんから聞いた」
好きな女の子。結はその言葉を少し考えた。好き。もちろんその言葉の意味は分かる。友達を好きとか、家族を好きとか、そういうのなら普通に使う。でも、今の「好き」は、たぶんそれではない。何だか分からなくなって、友達で好きなのと好きな女の子って違うの、と口に出た。
「なんで私に聞くの?」
「だって、最初に言ったから」
「分かんないよ」
役に立たないなあ、と思った。そのとき、教室の入口から湊が顔を出した。なんとなく、見られている気がした。
「ほら、三輪くんがこっち見てる」
何が「ほら」なのか、やっぱり分からなかった。
* * *
夕飯のあと、ひかりはリビングで宿題をしていた。結はしばらく向かいの椅子に座っていた。ひかりが顔を上げる。
「結、何か用?」
「別に」
「さっきからずっといるじゃん」
「いるよ。家だもん」
「そういうことじゃなくて」
ひかりはシャープペンを置いた。
「学校で何かあったの?」
結は少し考えてから聞いた。
「好きって、知ってる?」
「……何?」
ひかりの顔が変になった。
「だから、好き」
「急にどうしたの」
「学校で言われた」
ひかりの顔が固まった。
「何を?」
「湊が私のこと好きなんじゃないかって」
「え」
ひかりは大きく目を見開いて、結を見る。
「何、その顔」
「ちょっと待って。というかそもそも、湊くんって誰?」
「同じクラスの男子」
そう、と言って黙り込んでしまったひかりに、「で、どういうの?」と聞く。
「いや……え?」
「お姉ちゃん、さっきからそれしか言ってない」
「だって」
ひかりは少し考えてから、姿勢を直した。そしてまた少し黙る。結は待った。
「うーん……」
ひかりは天井を見た。
「その人と一緒にいたいとか」
「湊とは帰る方向同じだから、時々一緒になるよ」
「じゃあ、話したいとか?」
「話す」
「それに、会いたいとか」
「学校で会う」
「……そういう問題じゃないんだけどなあ」
ひかりが困った顔をした。
「じゃあ何」
「私に聞かれても」
「お姉ちゃん、高校生でしょ」
「高校生だからって何でもは分かんないよ」
結は少し呆れた。
「友達で好きなのと違うの?」
「違うんじゃない?」
「どう違うの?」
「だから、それが……」
ひかりは口を閉じた。しばらくして、小さく笑った。
「分かんない」
「分かんないんだ」
「分かんないよ」
「じゃあお姉ちゃんは好きな人いないの?」
「いないよ。……たぶん」
「役に立たないなあ」
「ひどい!」
結は立ち上がった。
「じゃあ本人に聞く」
「え?」
「湊に」
「ちょっと待って」
「何?」
ひかりは何か言おうとして、結局何も言わなかった。
「……いや。いい」
「変なの」
結は自分の部屋へ戻った。
* * *
翌日の放課後、結は昇降口で湊を待った。靴を履き替えて出てきた湊は、結を見て少し足を止めた。
「何?」
「一緒に帰ろ」
「……いいけど」
帰る方向は同じだった。一緒になると、湊はいつも道端の石を一度蹴る。今日も蹴って、思ったより遠くへ飛んだのを見て、少し満足そうな顔をした。
「三輪くんってさ」
「何?」
「私のこと好きなの?」
湊の足が止まった。
「何で?」
「昨日言われたから」
「誰に」
「木曽さん。……山﨑さんだったかも」
「どっちだよ」
「どっちか」
「それで何て言ってたの?」
「だから三輪くんが私のことを好きなんじゃないかって」
湊は少し黙った。結も待った。
「好きだけど」
「そうなんだ」
また歩き出す。数歩進んでから、結は聞いた。
「友達で?」
今度は湊が少し考えた。
「知らない」
「知らないの?」
「森野は?」
聞き返された。結は考えた。湊とは、特別よく話すわけではない。それでも、帰りが一緒になる日は嫌ではなかった。昨日、フランス語のことで口を挟んできたのも、少し嬉しかった。でも、それが友達だからなのか、違うのかは分からない。
「私も好き」
「友達で?」
「知らない」
湊が笑った。
「同じじゃん」
「うん」
少し歩いた。結は考えた。好きなのは分かった。どういう好きなのかは分からない。だったら――。
「じゃあ、付き合う?」
目を見開いた湊が、結を見て黙っている。
「三輪くん、なんか言ってよ」
まだ、湊は黙っている。耳が赤くなっていた。結は、なんか変なの、と思った。
「……いいけど」
「いいんだ」
「森野が言ったんじゃん」
「そうだけど」
また歩き出す。角を曲がったところで、結はふと思った。
「ねえ」
「何?」
「付き合ったら何するの?」
湊は少し考えた。
「……知らないよ」




