第16話 二人だけで。
「休憩、十二時からでいいんだっけ?」
「休憩っていうか、そのあともう帰ってこないよ」
「もしかして、例の人?」
「……うん」
文化祭二日目。朝から校内は人であふれていて、普段は見かけない制服も混じっている。教室の入口でパンフレットを並べながら、ひかりは隣で盛り上がっている同級生たちの会話を聞いていた。
「いいなあ。他校の彼氏って、文化祭っぽい」
「まだ彼氏じゃないし!」
「じゃあ、もうすぐ彼氏?」
「そうなりたいけどさ……」
言われた子が頬を押さえて笑う。その勢いのまま、一人がこちらを向いた。
「森野は? そういう人いないの?」
「私?」
「フランスに置いてきたとか」
「置いてきてないよ。それに、そんなのいないって」
笑いながらそう言うと、ふうん、つまんない、と言われた。ひかりは折れていたパンフレットの角を直した。
「森野も休憩でいいよ」
後ろから声をかけられて時計を見ると、十一時半だった。一時半ぐらい、と聞くと、それぐらいかな、早く来てくれたら有難いけど、と返ってくる。まあ努力する、と答えると、フランスまで行かないでね、と言われた。行かないって、と笑って教室を出た。
廊下も人で埋まっていた。高等部の校舎を出て、中等部の校舎へ向かう途中、すれ違った初等部の子供が地図を逆さまにしているのが目に入った。
「それ、反対だよ。ほら、体育館はあっちでしょ?」
地図を回してやると、その子は、あ、と声を上げ、ありがとうございます、と頭を下げて走っていった。見送りながら、ひかりは少し可笑しくなった。人に道を教えるなんて、春の自分が聞いたら笑うだろう。
* * *
中等部の二年二組に着くと、入口にまっすぐ貼られた大きな模造紙が目に入った。教室の中には写真や説明文が並び、何人かの生徒が来場者に説明をしている。
「あ! ひかり先輩」
奥にいた千夏が気づいた。
「来たよ」
「ありがとうございます」
「すごい気合いの入った展示だね。文化祭っぽい」
「ぽいって何ですか」
千夏がはにかんだ。
「でも、みんなで頑張りましたから」
「見れば分かる。入口の紙も真っ直ぐだし」
「何回も直したので」
「千夏ちゃん、細かそうだもんね」
「それ、褒め言葉ですか?」
そのとき、廊下から声がした。朔だった。
「千夏、望は?」
「委員会」
「また?」
朔は教室の中を覗き込んで、一瞬だけ動きを止めた。視線の先には、段ボールを抱えたイガグリ頭の男子がいた。
「今日も手伝わないからな」
千夏も、ちらりと同じほうを見た。
「……別にいいよ」
「そう」
望がいないなら俺帰るわ、と言って、朔は三組へ戻っていった。
その背中を横目で見送ってから、ひかりは千夏に向き直って、少し笑った。
「今の、何?」
「何がです?」
「何か変じゃなかった?」
「朔はいつも変ですよ」
「ひどいなあ」
「本人に言ってください」
千夏は何事もなかったように、パンフレットの束を揃え直した。それから顔を上げた。
「ひかり先輩、時間あります?」
「まだまだ余裕」
「じゃあ、私の休憩に付き合ってくださいよ」
「いいよ。行こう行こう」
* * *
中庭の自動販売機には、珍しく少し列ができていた。順番が来て、ひかりはレモン味の炭酸のボタンを押した。缶が落ちる音がして、千夏がそれを見た。
「それ、前も飲んでましたよね」
「最近、結構好き」
「コンビニで、朔に選んでもらおうとして、全然選んでもらえなかったときですよね」
あのときは、この辺、と大ざっぱに棚を指されただけだった。千夏ちゃんのは選んでたのに、とひかりが言うと、私はいつも同じだからですよ、と千夏は言った。あの日、朔が言ったのと同じ答えだった。
その千夏は、自動販売機の前で首を傾げていた。
「……いつもの、ないや」
上から下まで眺めて、千夏は困った顔をした。ひかりは、自分の缶と同じボタンを指さした。
「じゃあ、これ」
「え」
「おいしいよ。選んであげる」
千夏はひかりの顔を見て、それから、笑ってボタンを押した。
空いていたベンチに並んで座り、二人で同時に缶を開けた。一口飲んだ千夏が、ちょっと顔をしかめる。
「……甘い」
「でしょ」
「でしょ、じゃないです」
そう言いながら、千夏はもう一口飲んだ。ひかりは笑った。
「千夏ちゃん、さっき入口の紙、何回も直したって言ってたよね」
「言いました」
「展示の係とか?」
「はい。展示係です」
「色々大変だった?」
千夏は缶を両手で持ったまま、少し黙った。
「……実はこの前、計画書の提出日、一日間違えたんです。ぎりぎり間に合ったんですけど。みんなに、千夏なら大丈夫って言われてたのに」
「え、千夏ちゃんでも、そういうことあるんだ」
「ありますよ」
「ちょっと安心した」
「安心するところですか、そこ」
「だって私、帰ってきた初日に、高等部の方に行きかけたし」
千夏が吹き出した。
「それ、朔から聞きました」
「やっぱり」
「そっちじゃないってスタンプを送ってからかったって」
「あいつ……」
ひかりが空を仰ぐと、千夏が声を出して笑った。ひかりもつられて笑った。
缶が半分くらいになったころ、今度は千夏が聞いた。
「フランスの学校って、こういう文化祭あるんですか?」
「同じのはないかな。学校によるけど、私のところは、学年の終わりにお祭りみたいなのがあって。音楽やったり、劇やったり」
「ひかり先輩も出たんですか?」
「最後の年は劇に出た。台詞、三つしかなかったけど」
「三つ」
「三つ。しかも一個忘れた」
「忘れたんですか」
「エマが横から言ってくれた。あとで一週間ずっと言われた」
迎えに来た母親についてきた小さい結が、客席から大声で名前を呼んだこと。劇の後に、みんなでクレープを食べに行ったこと。話しているうちに、二人は何度も笑った。
「この夏に帰ったとき、向こうのみんな、全然変わってなかったな……」
そう言ってから、ひかりは口を閉じた。
千夏は何も言わなかった。どうしてですか、とも、寂しいんですか、とも聞かずに、缶に口をつけて、ひかりと同じ方を見ていた。聞かれなかったことが、楽だった。
「……千夏ちゃんって、あんまり聞かないね」
「聞いてほしかったですか?」
「ううん」
ひかりは首を振った。
「そろそろ戻ろっか」
立ち上がって、空になった缶を捨てる。千夏も隣で捨てて、それから、手の中を見た。
「これ、また飲むかもしれません」
「でしょ」
「でしょ、じゃないです」
二人で笑いながら、校舎の方へ歩いた。
* * *
二組へ戻ると、委員会から望も戻ってきていた。
「ひかりちゃん、千夏と一緒だったんだ」
「うん。休憩に付き合ってもらった」
「珍しくない? 二人だけで」
そう言われて、ひかりと千夏は顔を見合わせた。そういえば、と同時に言いかけて、同時に笑った。望は、変なの、二人とも、と言いながら、曲がっていた展示の写真を直した。その近くで、朔が入口の机を動かしていた。
「何で朔がいるの?」
千夏が言った。
「三組の休憩」
「そうじゃなくて、何で手伝ってるの」
「望に頼まれたから」
「……さっきは手伝わないって言ったくせに」
朔の手が一瞬止まった。その視線を追うと、さっきのイガグリ頭の男子が、他校の制服の女子たちと話し込んでいた。ひかりはすぐに視線を戻して、三人を見た。何かあったのかな、とまた思ったが、わざわざ聞くほどのことでもない気がした。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「ひかり先輩も、そろそろ戻らなくて大丈夫ですか?」
「そうだね。そろそろ戻ろうかな」
廊下に出て、振り返る。
「またあとでね」
「うん」
「はい」
望が手を振り、千夏も小さく手を上げた。朔は机を押しながら言った。
「三組も来れば」
「時間あったらね」
「それ、来ないやつじゃん」
「行くって」
ひかりは笑って歩き出した。
隣の三組の前を通りかかったとき、足をゆるめて中を覗いた。知らない顔の男子が二人、受付の机で暇そうにしているだけで、朔の姿はなかった。当たり前だった。朔は今、二組で机を運んでいるのだから。
もう一度時計を見て、ひかりはそのまま中等部の校舎を出た。
戻る途中、中庭の人混みの向こうに、見知った同級生の姿が見えた。さっき、例の人、と頬を押さえていた子だった。隣には違う制服の男子が並んでいて、二人とも、照れたように笑っていた。
ひかりは、そのまま階段を上がった。




