15、おいやですか? お嬢様?
「ヘルマン。あなた今、寝ぼけてキスしましたわね。つまり、王太子殿下を夢の中で口説いてキスしていましたの?」
なんてことでしょう、夫がわたくしにキスを。
いいえ、王太子に(夢の中で)キスを!
これは許しがたい出来事ですわ。浮気よ、浮気。
えっ、まさか、現実でもそのような関係だったり……?
ダリアは情緒がかき乱された。
ヘルマンは不思議そうな目でそんな妻を見ていたが、やがてふっと面白がるような笑顔になった。
「そういうことになさってください」
「どういうことですのよ!」
背を向けて二度寝の姿勢を取る夫の背をぽかぽかと叩いてみたが、逞しい夫はまったくダメージを受ける様子なく眠ってしまったのだった。
「な、なんなのよ……」
もういいわ。わたくしも寝ますわ。
背を向けた夫の隣に横になると、ベッドが狭く感じる。思えば、誰かと同じベッドで寝るのは初めてだった。
触れた唇に指で触れると、まだ感触が残っている気がする。
嬉しいはずのキスなのに、王太子と間違えられたと思うと腹が立つ……。
「枕で鼻を塞いで窒息させてあげようかしら」
むすりと呟き、ダリアは枕を夫の顔に押し当てた。
夫の呼吸音はすやすやと健やかに続く。彼は実に気持ちよさそうに眠っていた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
夜はあっさりと明けて、朝が訪れる。
ヘルマンは日が昇りきらないうちに起き出して、庭先で剣を振ったり走り込みをしたりしていたようで、ダリアが起きた頃にはベッドは開け渡されていた。
寝不足気味のダリアの耳には、ひどい知らせがもたらされた。
「まあ。多忙な英雄伯爵を呼び立てておいて、王太子殿下がお留守とはどういうこと?」
迎賓宮を訪れた使者は申し訳なさそうに縮こまる。彼が悪いわけではない。彼の主人が悪いのだ。
自分たち夫婦を呼んだ王太子が不在にしているというのだから。
「ダンジョンが郊外に出現しまして、王太子殿下はダンジョン攻略がご趣味でいらっしゃるので」
「ご、ご趣味」
「それに、婚約者の姫君が宿で媚薬片手に宿の主人を夜這いしたというゴシップもありまして、そちらでも大忙しなのです」
「ああ……大変ですわね」
ヘルマンが夜這いされたというのは個人的に不快なので、ダリアは金を使ってその事実を抹殺していた。
そのせいで、姫君は恰幅のいい宿のご主人を襲ったことになったらしい。
「それはご愁傷様ですわね。わたくし、ご事情を理解いたしましたわ」
「ご理解くださりありがとうございます」
幸い、王都には知り合いも多い。
ダリアが事前に王都入りする予定を伝えていたので、キンツェル伯爵家の跡取りである弟や、花の界隈の令嬢たちなど、何人もと会う約束ができている。
「ヘルマン。王太子殿下は狩猟大会と舞踏会の予定を遅らせると仰せよ。まだ日にちがありますし、仕立て屋を呼んでお揃いの衣装を新調しませんこと?」
ヘルマンが部屋に戻ってきたので事情を話して提案すると、彼は「衣装なら持ってきたものがありますが」と言う。
「ヘルマン。王都の流行は目まぐるしく変わるの。流行遅れの衣装では英雄の格が下がってしまいますわ」
「私が用意した衣装は最新の流行を取り入れたものですよ、お嬢様」
「カップルは互いの色を纏うのが定番だけど……」
「もちろん、互いの色を取り入れています」
「あなたがわたくしの色を纏いますの?」
衣装を見せてもらうと、彼はダリアの瞳の色をルビーのカフスとして纏うようだった。
血のように赤いキンツェル伯爵家の瞳は気味が悪いと囁かれるが、ヘルマンは「美しいでしょう」とカフスに口付ける。
その姿が絵画のように様になっているので、ダリアは反論する気をなくして赤くなった。
「朝食をいただきましょう、お嬢様」
メルフェがワゴンを押して入ってきて、給仕をしてくれる。
朝食はサンドウィッチのセットだった。
ヘルマンはソファに身を沈めてサンドウィッチをつまみながら新聞を眺めている。
一枚の絵にして飾りたくなる光景だ。ダリアはこっそりと心の中で夫の美貌を賞美しつつ、ミルクティーを手に取った。
「お嬢様、こちらはご友人からです」
「ありがとうメルフェ」
花の界隈の令嬢たちからは、手紙や贈り物が届いていた。
手紙は押し花や香りづけがされており、久しぶりに社交界でダリアに会えることの喜びや、惚気話を期待していること、流れてくる白い結婚や離婚直前という噂についてなどが書かれていた。
令嬢側の事情も、自分が婚約者にもらった贈り物や甘い言葉を自慢するものや、家の命令で仕方なく嫌いな婚約者と付き合っているが相手が浮気しているという愚痴など、細やかに綴られている。
『ダリア様に足用爪紅を贈りますわ。最近流行し始めたばかりで、パートナーに塗ってもらうと幸せになれるというのです! ぜひ使ってくださいね!』
パートナーに足用爪紅を塗ってもらう?
貴族令嬢は家同士が決めたパートナーとの愛のない関係が珍しくない。
そんな相手に使用人のように足用爪紅を塗ってもらうなんて、ハードルが高い。
つまり、「自分はこんなに愛されていますの!」と自慢するのにうってつけのアイテムなのだろう。
プレゼントボックスを開けて足用爪紅を見ると、水鳥をモチーフにした可愛らしい小瓶に液体が入っていて、小さな刷毛がついている。香りは甘くて、蜜のよう。
考えてみれば、足用爪紅を誰が塗ったかなんて他の令嬢には知りようがない。
「おほほ。夫が塗ってくれましたわ」と軽やかに嘘をついて自慢すればいいのでは?
メルフェにあとで塗ってもらいましょう、と考えていると、その手から小瓶がひょいっと攫われる。
「こちらは最近流行している幸運の足用の爪紅『淑女の光沢』ですね。塗ってさしあげましょうか?」
「えっ?」
ヘルマンは自然な所作で膝をつき、ダリアの室内履きを取って踵を下から支えるように手で掴んだ。
そして、刷毛を手に取って足用爪紅を足の爪に塗り始めた。
「ヘ……ヘルマン!」
「おいやですか? お嬢様?」
「いやではありません!」
「素直で可愛らしいですね、お嬢様」
ヘルマンは楽しそうに喉奥で笑いを噛み殺し、丁寧な手つきでダリアの爪を彩っていく。
ダリアは真っ赤になった。
こ、この現実は何事かしら!
夫が頼んでもいないのにわたくしに奉仕しているわ!
可愛いと言ったわ!
「お嬢様、この商品は肌に優しく発色の良い高級な爪紅ですが、さらに付加価値をつけている売り文句があるのですよ」
「な、なにかしら」
「このようにして塗ると、幸せになれるのです」
ヘルマンは艶めく爪の色に満足げに目を細めると、ダリアの足の甲にキスを落としてとどめを刺した。
「お嬢様が幸せになれますように」
この夫はどうしてしまったのかしら。こんな方だったのかしら。
まるで溺愛されているみたいじゃない。おかしいじゃない?
「り……離婚しようとおっしゃっていた方のセリフとは、思えませんわね?」
ついつい意地悪な口調で聞いてしまう。
ヘルマンは「本当にそうですね」と生真面目な顔で頷き、ふと悪戯を思いついた顔で足の甲をぺろりと舐めたので、ダリアは悲鳴をあげてその後の半日ほど、ずっとのぼせた状態で過ごすことになった。
「メルフェ、わたくしの夫はもしかするとキス魔なのかもしれないわ」
「お嬢様、惚気話が増えましたね!」
「そうね。たくさん惚気られますわ」
後日、花の界隈の茶会に顔を出して惚気まくると、令嬢たちはハンカチを噛んで羨ましがったり悔しがってくれたのだった。




