14、ヘルマン・ウェルザーの許されざる寝言
これは夢だ。過去の、一度目の人生の夢。
一度死に、幼少時代から人生をやり直しているヘルマン・ウェルザーは、自分の夢にぼんやりと浸かった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
ヘルマンはダリアお嬢様との秘密の関係を深めていった。
「ヘルマン、わたくし、あなたが好きよ。こういうことを言うと、あなたを困らせてしまう?」
「とても嬉しいですよ、お嬢様。私もお嬢様のことをお慕い申し上げておりますので」
「ヘルマンはわたくしを喜ばせるのがお上手ね。わたくし、ご褒美をあげなくちゃ」
手の甲に。足の爪先に。こめかみに。頬に。耳に。唇に。
唇を寄せるたびに胸いっぱいに歓喜が満ちる。
触れることを許されている喜びだ。
受け入れられて特別な距離にいる幸福感だ。
自分だけがそうである、という特権意識だ。
優越感だ。
「口付けの跡をつけるの。わたくし、付けてあげるわ。あなたも、さあ……」
ひとりではできない、刺激的な遊び。
それを無邪気に楽しむお嬢様の、なんと愛らしく蠱惑的なことだろう。
越えてはいけない一線を、ひとつひとつ踏み越えていく。
決定的な最後の一線だけは守ろう、と意識しながら。
そこを越えると、取り返しがつかなくなる。
そこさえ越えなければ、大丈夫。
この恋は一過性のもの。
過ちと呼ばれるようなもの。いつか終わる関係だ。
それを忘れないようにしないといけない。
「ダリアお嬢様は、王太子殿下との婚約が内定しているんだって」
「王太子殿下は、お姿絵のみでお嬢様に深くご執心とのことです」
当然だ、と思った。
豊かに波打つ美しい黒髪。
滑らかな白い肌。形のよい深紅の瞳。
彼女が嫁ぐなら、国一番の男がふさわしい。
「ヘルマン。わたくしを連れて逃げて」
無垢な瞳は、目の前の男を信じて疑わない。
白い手が求めているのは、国で一番高貴な王太子ではなく、ヘルマンなのだ。
「……お……お嬢様……」
「できない?」
目の前に、誰もを惹きつける甘い花が揺れている。
それを摘むことを、自分だけが許される。
「いいえ――いいえ、お嬢様」
ヘルマンは愛しいお嬢様を抱きしめた。
力を入れれば折れてしまいそうなお嬢様は、嬉しそうにヘルマンの背に両腕をまわしてキスをする。
もう何度も経験したキスだ。これを他の男がするなんて、想像しただけで耐えられない。
「あなたは私のものです。他の男には、渡しません」
逃避行が幕を開ける。
逃げる。逃げる。
馬に乗り、人目を避けて身をやつし、遠くへと。
「お嬢様。国境を越えて、外国に行きましょう。外国に頼れる者がございます」
「わたくし、あなたが連れて行ってくださるならどこにだってまいりますわ」
質素な食事。狭い宿の部屋。雨に濡れながらの騎馬行。
生まれてからずっと貴族として贅沢暮らしをしてきたお嬢様には、つらいだろう。
ヘルマンは襤褸を纏って硬いパンを食べるお嬢様に胸を痛めた。
現実が見えてくると、「なんてことをしてしまったのだろう」と恐ろしくなる。
けれど、ダリアお嬢様は健気に笑った。
「ヘルマン。わたくし、あなたと一緒なら、なんにも不満はないのよ」
痩せた背を痛々しく思いながら、愛しく大切にキスをする。
このお嬢様を攫ったからには、幸せにしないわけにはいかない。
「私が必ずあなたを幸せにいたします、私の愛しいお嬢様」
「ねえ。いい加減、わたくしのことをお嬢様と呼ぶのはやめてちょうだい。もう、身分も何もないのだから」
「……では、ダリア」
そんな逃避行のさなか、ふたりを取り巻く世界に変化が起きた。
「ダンジョンが出現したんだ。そこからモンスターが溢れて、近隣の町を襲ってる」
「またダンジョンか。先月も隣の領地に出ていなかったか?」
王国中にダンジョンが現れ、モンスターが村や町を襲う事件が急速に増える。ヘルマンはダンジョンの話を聞くたびに謎の使命感に駆られた。
――ダンジョンを攻略するのは自分の使命だ。
――現存するダンジョンに片っ端から乗り込んでいって、攻略しないといけない!
けれど、自分たちに、ダンジョン攻略に勤しむ暇はない。
「ヘルマン? ダンジョンが心配なの? 最近、物騒ですわね」
じりじりとした焦燥感を持て余しながら、ヘルマンは平静を装ってダリアを安心させた。
そして、ヘルマンとダリアは夜に悪夢にうなされるようになった。
【悲劇の運命】
悪夢の始まりは、いつも青年の声だった気がする。魔術師だと思われる青年が、魔法の呪文を唱える声だ。
【お前たちが結ばれることは許されない】
自分たちが愛を唱えると、花が枯れる。キスをすると、ダンジョンが生まれる。
その因果関係が映像で見せられ、理解させられる。
「はぁっ、はあ……」
跳ね起きた隣で、ダリアも顔色を失っていた。
その横顔と肩は痛々しいほどに痩せている。
自分のせいで、彼女は――目を逸らしていた現実をにわかに生々しく突き付けられた気がして、ヘルマンはショックを受けた。
「ひどい悪夢を見たの」
悪夢は毎夜続いた。見るたびに酷くなっていった。
夢の中でヘルマンはダリアに別れを告げ、ふたりの関係を終わらせる提案をするようになった。
「ダリア。もう終わりにしよう……」
現実で絶対に言うまいと思っていた言葉を口にしてしまう悪夢すら、見るようになった。
ダリアは、ヘルマンと同じ悪夢を毎晩見ていた。そして、現実と夢の堺を見失っていった。
「ヘルマン。楽になりたいの。こんな現実は、もう終わりにしましょう。あなただって、そうおっしゃったじゃない」
「ダリア。違う、それは夢だ。現実の私が言ったことではない……」
白刃が閃き、自分と彼女を傷つける。
ダリアは刃に毒を塗っていた。灼熱の痛みと苦しみの中で、ヘルマンは妻を抱きしめて終わりを悟った。
こと切れる愛妻に言うべき言葉は、はっきりしていた。
「愛してる……」
すまない。
私のせいで、こんな結末になってしまった。
駆け落ちなんてするべきじゃなかったんだ。
呪いだ。自分たちは、何者かに呪われている……。
絶望の中で人生の幕をおろしかけたとき、ふたりの心中現場に第三者が介入した。
彼はふわふわと浮遊する黄金の天秤を持っていた。
見るからに魔道具。魔術師だ。
「チッ、遅かったか」
緑色の長い髪を首の後ろで結わえ、黄金の輝く瞳をいまいましげに歪めて舌打ちする美しい青年を、当時のヘルマンは知らなかった。
だが、人生をやり直した今のヘルマンは知っている。
「王太子バティスト」
言った瞬間、頬がふにっとつねられる。
「ヘルマン。あなた……わたくしの夢を見ているのかと思ったら、違うみたいですわね?」
拗ねたような可愛らしい声に、ヘルマンは意識を覚醒させて現実を見た。
自分の腕の中で顔を赤くして怒っているのは、二度目の人生で出会いなおし、なぜか王太子の命令で政略結婚した妻ダリアだった。
手触りの滑らかな上質なネグリジェを纏い、艶の綺麗な、よく手入れの行き届いた黒髪をシーツの上に広げて。
悪夢にうなされることなく、華奢ではあるが痛々しく痩せてはおらず、生気にあふれた目をした妻の姿に、愛しさがこみあげる。
「いいえ。お嬢様。私はいつもあなたの夢を見ています。あなただけを」
あの出会いの日からずっと、ずっと。……ずっとだ。
遥か高い嶺に咲くあなたを見上げて、手を伸ばして触れることに恐れ多く思いながら触れて、ついに手折ってしまった罪深い前回の人生。
生まれ変わってからこれまで、あなたのことを考えなかった日は一日もない。
ヘルマンは衝動のままに妻の頬を撫で、その唇を塞いだ。
驚いた様子で見開かれる深紅の瞳は愛らしくて、悲しい。
あんなに毎晩愛し合ったのに、妻はなにひとつ覚えていない。
そして、自分たちはおそらく呪いを受けていて、結ばれてはならないのだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
なんということでしょう。
介抱ごっこを楽しんでうとうとと居眠りをしていたら、寝ぼけた夫がわたくしをベッドに引きずり込んだのです!
また花の界隈の皆様へのお土産話(惚気話)ができてしまったわ。
ダリアは幸せ気分でヘルマンに寄り添い、逞しい胸板に手をあてて押してみたり、撫でてみたりした。
夫は眠ったままだ。
鼓動も呼吸も規則正しく、寝顔は尋常ではなく整っていて、いつまでも鑑賞していたくなる。
わたくしの夫は、芸術品のよう。
きっと神々が丹精込めて「この人間は特別につくろう」と生み出したのね。
夢を見ているらしきヘルマンは、眉根を寄せたり微笑んだりと表情が変わる。
ダリアはまったく眠気を覚えることなく夫の体温を楽しみ、腕の立派な筋肉をつついてみたり、ぎゅっと抱き着いてみたりして状況を満喫した。
幸せなひととき。
これよ。わたくしは、こういうのを求めていたのよ。
幸せいっぱいのダリアの耳に、ヘルマンの寝言が拾われる。
「愛してる」
まあ。寝言で愛を囁いている。
いったい誰に?
もしかして……わ、た、く、し?
期待していい? いいの?
凝視していると、ヘルマンは寝言の続きを呟いた。
「王太子バティスト」
「なっ……なんですってぇ……⁉」
あなた、なんて夢を見ているのよ!
ダリアは夫の頬をむぎゅっとつねり、急いで夢から現実へと連れ戻した。
そして、寝ぼけ眼の夫に熱い口づけをされて目を白黒とさせたのだった。




