13、ヘルマン・ウェルザーの秘密の目的
『妻』が自分を介抱するのを楽しんでいるうちに眠ってしまった。
なんて可愛らしいのだろう。
彼女は驚くほど活動的で、いつも驚かされる。
もともとの体質はそれほど強くなかったはずなのだが――ヘルマン・ウェルザーは妻の体調を心配しながらベッドに寝かせ、自分はベッドサイドの椅子に座り込んで愛妻の寝顔を鑑賞した。
介抱する役とされる役が逆になったような構図だ。
一緒にベッドに入り、ぎゅっと抱きしめたら。そんな不埒な思いが湧く。
けれど、そんなことをしてはいけない。絶対……絶対に。
自分たちは、結ばれてはいけない運命なのだ。
ヘルマンは切なく『過去』を振り返る。
彼がこうして過ごすのは、二回目だ。
一回目の人生では、ヘルマンとダリアお嬢様は破滅した。
だが、ヘルマンは時間を戻すことができた。
【これが最後だ】
誰かがそう言ったのを覚えている。誰だっただろう。それが、どうしても思い出せない。
時間を戻すには代償が必要なのだと思う。だから、ヘルマンは一度目の人生の記憶が部分的に欠如している。
今回失敗すれば、三度めはない、とも感じる。
自分は何をしたいのか。なんのために時間を戻したのか。
それは明確だ。
「ダリアお嬢様を幸せにする……」
ヘルマンはそのために人生をやり直しているのだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「あの子とあの子。それに……あの子」
商人の父に連れられて貴族のサロンを初めて見学した日、ヘルマン・ウェルザーは貴族令嬢の遊び相手に選ばれた。
選んだのはサロン主催者の愛娘、ダリア・キンツェル伯爵令嬢。
商人の息子であるヘルマンより一歳下で、身分は上のお嬢様だ。
ダリアお嬢様は黒髪が豊かに波打ち、瞳は紅玉のようで、綺麗だった。
ヘルマンが知っているどの女の子とも違っていて、肌の色は心配になるほど白く、手足が細い。
父に前もって教えてもらった話によると、キンツェル伯爵家の特殊な教育で、令嬢はぎりぎり死なない程度の服毒をしているらしい。だから、壊れ物の硝子細工のように儚げなのだ。
かわいそうに、と思う。
ダリアお嬢様は繊細で、キンツェル伯爵家が特殊な家柄ということもあって、あまりご友人が作れていないらしい。
それを心配したキンツェル伯爵は、サロンで『遊び相手』を選ばせた。
ヘルマンの父は、あわよくば自分の息子をお嬢様のお気に入りにして、一家に利益をもたらしてくれることを期待していたのだろう。
そして、その期待は叶ったわけだ。
ヘルマンは、父の期待通りに貴きお嬢様に選ばれた自分が誇らしくなった。
「でかしたぞヘルマン。いいか、ダリアお嬢様に誰よりも気に入られるんだ。ウェルザー家の将来がお前の一挙一動にかかっているからな」
ダリアお嬢様はご自分が選んだ『お気に入り』を週に二度、伯爵家に招いた。
ダリアお嬢様の交友会は、キンツェル伯爵家の薬草庭園で行われることが多い。もしくは、お嬢様の居室だ。
お嬢様はよく体調を崩していて、時には寝台の上で横になりながらみんなを見ている。
貴族も平民もごちゃ混ぜの『お嬢様の友』は、みんな美しくか弱いお嬢様に夢中で、だれもがお嬢様の一番のお気に入りになりたがっていた。女子はダリアお嬢様の周りに集まって人形遊びをしながら男子の容姿や上品さや清潔さ、優しさや頭の良さや喧嘩の強さで格付けをした。
だいたい、格付けの上位は三人の男子だ。
「賢いポール・ブーランジエ、頼もしいノエ・トレモイユ、そして容姿だけはかなり優れているヘルマン」
お嬢様の取り巻き女子たちの男子評は、ヘルマンにコンプレックスを植え付けた。
ポール・ブーランジエはパン屋の息子だ。
平民だが記憶力と思考能力に優れていて、キンツェル伯爵が教育を受けさせた結果、王室や大商人ギルドの監査官が来訪する税計算や貿易ルートの計算大会で二位になった。
騎士の家の子であるノエ・トレモイユは身体能力が高く、鍛錬好きという才能がある。
貴族の人気行事である狩猟大会で大活躍してダリアお嬢様を喜ばせた。
ヘルマンはポールと親しくした。
勉学ノートを見せてもらい、わからないところを教えてもらい、計算大会で一位になった。
ヘルマンはノエとも仲良くした。
鍛錬方法や武器の扱い方を教わり、狩猟大会ではノエと共にダリアお嬢様を喜ばせた。
がんばった――ヘルマンは自分を誇った。そして、女子の評価に耳を澄ませた。
「賢いポール・ブーランジエ、頼もしいノエ・トレモイユ。ヘルマン・ウェルザーは……」
褒めてくれるに違いない。そわそわと続きを待つと、毒のある言葉が胸を刺した。
「ヘルマン・ウェルザーは、商人の子らしくなくて、ずるくて下品。彼はポールにもノエにも家庭教師代を払ってない。最初から無料で世話になるつもりで利用価値があるポールやノエに近寄って、自分は何も与えずに相手からもらうだけ」
「彼にとって他人は全員、自分が上にいくための踏み台なのね」
そんなことはない。ヘルマンは腹を立てた。
ポールやノエには、いつも感謝を告げていた。自分たちは友人で、けして踏み台になんてしていない。
悔しさに拳を握ったとき、寝台に横たわって本を眺めていたお嬢様が天蓋から垂れる薄布の隙間からヘルマンを手招きした。
「ヘルマンは努力家ね」
蒼白い顔色をしていて明らかに体調が悪そうなお嬢様は、砂糖菓子のように甘く微笑んだ。
優しい声は、薄布一枚隔てた外のみんなにも聞こえただろうか。
ヘルマンの胸が歓喜に染まる。
お嬢様はそれを微笑ましそうに見つめ、白くて細い両腕をヘルマンの首にまわした。
「わたくしに……なさい」
秘密の距離で、ほかの誰にも聞こえない囁きが耳をくすぐる。
心臓が胸から飛び出そうになりながら、ヘルマンは見えない一線を見た。
お嬢様のお気に入り。単なるそれを越える、許されない一線だ。
いけない。
それは、許されない。
理性が強烈な警鐘を鳴らす。
けれど、至近距離で彼をみつめる真っ赤な瞳が。淡く色づき、ぷるんとした唇が。
鼻腔をくすぐる花のような甘い香りが。
薄布一枚隔てた「ライバルたち」の存在と、あまりに狭いこのふたりきりの空間が。
ああ、お嬢様。
ヘルマンは目を閉じ、神聖な儀式のように彼女の唇に触れた。
やわらかい。あたたかい。
いけないことをしている。大変なことをしてしまった。
離れようとするヘルマンの唇を、彼女の赤い舌がぬるりと舐める。ヘルマンはびくりと全身を震わせた。
舐められる感触は熱く、ざわりとして、頭の芯を甘く痺れさせる。気持ちよかった。
彼女に味わわれている。そんな思いが湧いて、ぞくぞくとした。
獰猛な獣のような衝動がそこから生まれる。
自分も彼女を舐めてみたい。唇を貪りたい。細い肩をつかんで押し倒したい。欲望のままに乱暴したい。
だめだ。だめだ。そんなことは、絶対にだめだ。
ヘルマンは理性を総動員させて彼女から離れると、呼吸を整え、頭を下げて薄布の外へと引き返した。
胸のうちで心臓が激しく脈打ち、どんなに抑えようとしても抑えられない荒ぶる感情に暴れ出してしまいそうだ。
お嬢様はおそろしい方だ。
違う。おそろしいのは、自分だ。
ヘルマンには予感があった。
もう引き返せない、という予感だった。




